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2007年7月 4日 (水)

角田房子『甘粕大尉』、他

「大ばくち もとも子もなく すってんてん」

 日本の敗戦直後、ソ連軍が刻一刻と迫りつつある中、甘粕正彦は青酸カリをあおって自ら命を絶った。その時、満映理事長室の黒板に甘粕の筆跡で書かれていた辞世の句がこれである。

 私が角田房子『甘粕大尉』を初めて読んだのは中学生の頃。最初の単行本は1975年に中央公論社から刊行されている。緑色の装幀に厚みのあるビニールカバーのかかった古びた本を親の本棚から引っ張り出して読んだ。それは今でも私の手許にある。初めて読んだ時からこの甘粕という人物に不思議な魅力を感じていたが、今回、ちくま文庫の増補改訂版(2005年)を読み返し、そうした気持ちを新たにしている。

 無論、彼を好き、とは言えない。天皇崇拝にも日本至上主義にも私は違和感があり、思想的には共感できない。ただ、政治的な考え方は別として、屈折した人生を強いられながらも、その中で自分なりの筋を通さざるを得なかった姿には、人の視線を否応なく引付けるだけのすごみがある。日本から満洲国に渡った人々はみな一様に「これが噂の大杉殺しか」という目で見る。甘粕にもそれが痛いほどによく分かっている。だが、そうした甘粕に批判的な人であっても、彼の実際の風貌に接して、単なる人殺しとは違った印象を受け止めているのが不思議というか面白い。

 私が甘粕を最初に意識したのはベルトルッチの「ラストエンペラー」を観た時だ。中学一年生の時、それまでのドラえもんとかハットリくんとかを卒業して初めて大人の映画を観たのがこれだった。坂本龍一の演じたなかなかダンディーな甘粕は、これはこれで悪くない。ただ、陰影の奥行きを感じさせる屈折した暗さはイメージとして共通するものの、実際の甘粕はもっと愚直で泥くさい。何よりも、憲兵出身だからか、彼の持ち前の性格なのか、原則論を盾に一切の妥協を許さない苛烈な厳しさがあった。自分自身の中で明瞭に完結した判断基準があり、相手が誰であろうと、それこそ関東軍の将軍だろうと、ムッソリーニやヒトラーだろうと関係なく率直にものを言う態度は、どことなく石原莞爾にも似ている。二人の仲は悪かったらしいが。

 そうした厳しさにも拘わらず、一方でふざけた辞世の句を残すような甘粕の別の側面が目を引く。遺書にも笑ってしまった。満映は中国側に引き渡される手はずとなっていたが、その管理費用が足りず、満洲興業銀行から不足分を借りる約束になっていた。遺書3通のうちの1通がその依頼状で、「二百万円貸してください。貸さないと死んでから化けて出ます。」

 甘粕とじかに接した人々の回想では、人それぞれに印象が異なるのが興味深い。厳しい人、怖い人、陰険な謀略の人、権力主義者と芳しからぬ評判の一方で、気遣いの人、根はやさしい感情家という印象を漏らす人々も少なくない。度重なる屈折がつくり上げた幾重にも複層的なパーソナリティー。裏の世界に生きるしか彼の道はなかった。

 屈折、というのは具体的には何よりも大杉栄、伊藤野枝、橘宗一殺害の負い目を指す。だが、この事件の真相はいまだに判明していない。武藤富男や古海忠之など甘粕の身近に仕えた人々も初めは「この手で大杉を殺したのか…」と不審げな視線をやって彼を忌避していた。しかし、しばらく付き合っているうちに「この人は殺していないな」と確信するようになる。ただし、あくまでも心証に過ぎず、甘粕自身も事件については貝のように口を閉ざしたまま。著者の角田も「甘粕の意思による殺人ではなかった」ことをほぼ確信した筆致で書き進めながらも、確証がないため結論は出していない。

 真相がどうであろうと、大杉殺しの烙印は甘粕にいつまでも付きまとう。太田尚樹『満州裏史』(講談社、2005年)は甘粕と岸信介の二人に焦点を合わせて満洲国の背景を読み取ろうとしたノンフィクションだが、甘粕に出会う誰もが例外なく「これが大杉殺しか」という好奇の眼差しを、ある者は暗黙のうちに、またある者は公然と向けるシーンを繰り返し描いているのが目に付く。そうした執拗なまでに追いまとう呪縛に抗うように、普段は謹厳な職務精励ぶりを示す彼が、夜には爆発して荒れ狂うのが印象に強く残った。(なお、『満洲裏史』の甘粕に関する記述の多くは角田書に負っており、それほど新味のある作品ではない。ただ、岸を絡めたところに特徴があり、読み物としては読みやすい)

 なお、角田書の増補改訂版では王希天殺害事件について『甘粕大尉』執筆後に分かり得たことをメモ的に書き足している。関東大震災の際、朝鮮人ばかりでなく中国人労働者も多数殺されたという事件があったことはあまり知られていない。この労働者たちのまとめ役となっていたのが王希天である。角田さんはもう九十歳を超えるご高齢にも拘わらず、まだ執筆活動を続けておられ、『秀吉の朝鮮侵略』を現在のテーマとしているそうだ。本当に頭が下る。

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