「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」
「腑抜けども、悲しみの愛を見せろ」を観た。監督はCMディレクター出身の吉田大八。渋谷のシネマライズ、日曜日の最終上映回は1,000円均一ということで割合と混んでいた。観客層は若い。
緑色があざやかに映えた田んぼが広々と続く、のどかな風景。しかし、澄伽(佐藤江梨子)の眼には、ねっとりと足にまとわりつく、振り捨てたくてもなかなか離れない過去の呪縛そのものとしか映らないようだ。両親が事故で死に、葬儀に合わせて澄伽が東京から戻ってくる、そう聞かされた妹の清深(佐津川愛美)の表情はくもり、ぜんそくをこじらせた。
自分は女優になるしかないと思い込んで上京した澄伽。だけど、うまくいかないのは、みんなが「私の特別さ」を理解しないから。ジコチューもここまで徹底されると妙にすごみがある。とりわけ、澄伽の空回りっぷりをマンガに描いた妹への憎悪はすさまじい。姉がねちねちと繰り返す八つ当たりに清深はじっと耐えている、かのようでいて、実は彼女もまた結構アブナイ。両親がトラックに轢き殺され、グチャグチャになった死体を目の当たりにして、悲しいのに再び創作意欲をかき立てられていた。荒れる姉を尻目に上京するときの一言、「お姉ちゃんは自分の面白さが全然わかってないよ」
見ようによっては陰惨な話なのだが、キャラクターそれぞれのテンションが高くてなかなか面白い。佐藤江梨子のスラリとした肢体、佐津川愛美のオタクっぽい暗さとちぐはぐなかわいらしさも良かったが、妙にとぼけた兄嫁・待子を演じた永作博美の年齢不詳なあどけなさが特に目を引いた。他に、兄の役で永瀬正敏も出演。
この映画では澄伽vs.清深の姉妹対決が軸で、待子はそのまわりを右往左往、笑いをとる役回り。本谷有希子の原作(講談社文庫、2007年)では、澄伽の“自分”オーラ全開と、待子の“ごめんなさい”マイナス・オーラとの対比がもっと際立っていたように思う。
映画と原作小説とではラストも違う。映画では、澄伽が「私の面白さを最後まで見届けなさいよ」と言って、姉妹対決が延々と続きそうな予感の中で終わる。原作では、あまりの自意識過剰をもてあました澄伽が、無邪気な待子の声援を受けて、人類の滅亡を願って呪いの人形に釘を打ちつけるという、結構シュールというか、グロテスクな終わり方。
本谷有希子は、自意識過剰のあまり自爆してしまう人間のぶざまな心理の動きを、意地悪に茶化しつつ、残酷なまでに解剖していく。おそらく本谷自身も己の中に見出したものなのだろうな、と思いながら、かく言う私も本谷のメスさばきにマゾヒスティックに共感して、おもいっきりツボにはまってしまった。
『ぜつぼう』(講談社、2006年)は、売れなくなったひきこもりの元芸人がムダにめぐらす“絶望感”を完膚なきまでに茶化してしまう。一つの“悩み”が頭に浮かんで、しかしそれを裏読みすると本当に“悩み”なのかどうか分からなくなってしまう、そうした突き詰め方がなかなか意地悪。
『遭難、』(講談社、2007年)で本谷は鶴屋南北戯曲賞を受賞。学校の職員室を舞台に、クールで身勝手な女教師が自分を守るために次々と他人を陥れていこうとする筋立て。これがまた毒気たっぷりで面白い。誰か映画にでもしてくれないかな。
| 固定リンク
「映画」カテゴリの記事
- 【映画】「新解釈・三国志」(2020.12.16)
- 【映画】「夕霧花園」(2019.12.24)
- 【映画】「ナチス第三の男」(2019.01.31)
- 【映画】「リバーズ・エッジ」(2018.02.20)
- 【映画】「花咲くころ」(2018.02.15)
コメント