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2007年7月22日 (日)

「A」「A2」

 1995年に起こった地下鉄サリン事件を発端とした一連のオウム騒動はいまだに記憶に生々しい。森達也監督の「A」(1997年)は教団の荒木・広報副本部長を中心に、「A2」(2001年)は日本各地に暮らすオウム信者たちの拠点を訪ね、教団内部への取材を通してオウム真理教をめぐる問題を描き出したドキュメンタリーである。

 直接的か間接的かはともかく、オウム真理教に題材をとった映画は割合と製作されている。是枝裕和監督「ディスタンス」(2001年)は、教団入りした家族が修行していた場所を、残された人々が事件の一年後に訪ね、夫婦・兄弟といった最も親しい関係だったにも拘わらず話をしても互いに理解不能となってしまった困惑を思い返し、捉え返そうとする姿を描いていた。

 「A」の初めに、信者たちへ質問するシーンがある。彼らは問われたことに対してとにかく滔々と語る。きちんと理屈だっているのだが、よどみないところがかえって不自然な感じ。カメラを意識して構えているのかもしれないが、前提として共有された感覚がなければ論理なんてものも意外に無効なことを思い知らされる。

 ところが興味深いのは、信者と近隣住民との関係の変化だ。住民たちは「オウムは出て行け!」とシュプレヒコールを繰り返し、テント小屋を張って検問までしていた。しかし、長い時間顔を合わせていると互いに情がうつるようで、いつしか信者と反対住民とが和気藹々と談笑するようにまでなった。信者たちが退去する時にはさびしそうな表情で「脱会したらまたここに来いよ。受け入れるよ」と声をかけていた。子供ほどの年齢のオウム信者たちは本当に生真面目なので好意を持ったのだろう。オウム反対運動は、それまで他人同士として暮らしてきた地域住民自身にとっても交流の場としての機能を果たしたらしい。ひとつの事件を通して、それこそオウム信者という敵も含めて、情緒的な一体感が生まれるプロセスは社会学的に面白いテーマではないか。

 公安が信者に難癖をつけて逮捕してしまうシーンもリアルに映像に収められている。それにしても公安というのは、口ぶりといい、目つきといい、本当に憎ったらしいな。それが彼らの仕事だから仕方ないとは思うのだが。もみあって偶発的(?)に転んだ瞬間をとらえて、「逃走を図ったので阻止を試みた、公務執行妨害で逮捕」とあっという間に進めてしまう手際の良さには驚く。転ばされたのは信者の方なのだが。

 “報道の自由”を大義名分とした報道陣の取材攻勢の押し付けがましさも目に付く。無論、教団側の説明が一方的で我々には納得しがたいものであったことも事情としてあるにせよ、テレビでニュースを見る時の視線と、ブラウン管の向こう側とのズレが随所で浮き彫りにされ、マスコミ報道の問題も提起されている。

 「A2」では、各地で暮らす信者たちの小コミュニティーにも取材をしている。彼らの生活を見ながら、塩田明彦監督「カナリア」(2004年)を思い出した。社会的にバッシングを受ける中、寄りそって暮らす信者たち。それは信仰の共同体というよりも、当面生きていくために必要な生活共同体という描き方だった。西島秀俊が演じた取りまとめ役の温厚で物静かな青年に私はとても好感を持った。

 「A2」にこんなシーンがあった。ある女性信者がキティーちゃんグッズを持っていて、「えっ、教義に反しないの?」と突っ込まれても屈託なく笑っている。隣の信者も「仕方ないのよねえ」と苦笑しているのが印象に残っている。大きな閉鎖的共同体に教祖として君臨していた麻原という重石がはずれ、細分化された個々の小共同体では、以前のようにリゴリスティックなしめつけは薄れているのだろうか。

(2007年7月21日、DVDで)

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