外地にいた祖父母のこと(2)
(承前)
断片的に聞いた話を思い出して整理しながら、私が一番興味をひかれるのは満州にいた母方の曽祖父だ。
仮にKと呼ぶことにしよう。何でも、若い頃、伊達順之助の不良仲間だったらしい。伊達は檀一雄『夕日と拳銃』のモデルで、満州で馬賊の親玉となったことで知られる(と言っても、ある年代以上の人にしか分からないだろうが)。敗戦後は戦犯として上海で処刑された。
Kは英語がよくできたので横浜の貿易会社に勤めていた。ところが、関東大震災の余波でこの会社が倒産したため(この時、祖母は曾祖母のお腹の中にいて、地震のショックで予定日よりも早く生まれたそうだ)、伊達を頼って満州に行った。Kはなかなかやり手だったようで、満州興商?(未確認)とかいう会社の重役におさまったらしい。重役室の大きな机の前に座って執務している彼の写真を大伯父から見せてもらったことがある。
Kはいわゆる大陸浪人タイプだったのだろう。家族はほったらかしで、大伯父も祖母もKについて詳しいことを知らない。伊達とのつながりで満州に来たのなら、やはり裏工作に従事していたようにも思われる。奉天という土地柄を考えると、たとえば奉天特務機関の土肥原賢二、さらには甘粕正彦や里見甫をはじめ、ひとくせもふたくせもある輩とも関係があったのか、そういった想像をたくましくしてしまう。
戦争中の1943年、Kは50歳になるかならないかのまだ働き盛りの年齢で病没した。戦後まで生きていたら、ひょっとしたら戦犯として拘留されたかもしれない。Kの死により一家は日本に引き上げたので、満州国崩壊・ソ連侵攻という混乱には巻き込まれずにすんだ。Kは相当な金額の遺産を残してくれたらしいが、曾祖母が世間知らずで才覚が働かず、敗戦ですべて紙くずになってしまった。
Kは器用というか、多趣味な人だった。前にも触れたように料理が好きで、外で食べた味を自分なりに工夫して再現するなんてこともしていた。カメラも趣味で、特急アジア号の前に立つ秩父宮をKが撮影した写真が大伯父のもとにあった。
そうした中の一枚であろう、Kの姉、仮にTと呼ぼうか、彼女が写った写真を私の母が大伯父から譲り受けて大切に保管している。セピア色の変色が時の経過を感じさせる写真だ。Tは布団の上で半身起き上がり、絵筆を取っている。病床なのに、どことなくハイカラな雰囲気が伝わってくる。彼女は女子美術学校に通っていた。大正時代、女子美がまだ本郷菊坂にあった頃だろう。
Tは結核に冒されており、在学中に亡くなった。Kはそうした薄倖の姉を、その死後もずっと慕っていたらしい。曾祖母とはあまり仲がしっくりしていなかったようなのだが、一つにはKの姉への想いに曾祖母が嫉妬していたのではないかともいう。
私の母はもちろんTに会ったことなどない。ただ、病床で絵筆を取るTの凛々しい姿を見て憧れを抱き、大伯父にせがんでこの写真をもらってきたそうだ。
ルーツ探し、というほど大げさなことは考えていない。私はもともと日本とアジアの現代史には関心があった。少し話を聞いただけでも、そうした現代史の背景知識とのつながりが一応はわかる。そうやって腑分けしながらたどっていくと、歴史の中に翻弄された一人ひとりそれぞれにとっての人生のドラマが窺えるし、それが自分にもつながっているというのが不思議に面白い。私は中学・高校生の頃、モンゴルに憧れていた時期があったのだが、外地にいた祖父や曽祖父からの血が呼び覚ましたのかとも話をこじつけたくなる。存命のうちにもっと話を引き出しておけばよかったという後悔を今さらながらに感じている。
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コメント
日本人がブラジルなどの移民を抜きにして、外地移住したのは、1910年~1945年のせいぜい30年余りの期間だったのを改めて考えてみれば、その後外地体験がそこで過ごした日本人の心情に影響を植え付け、戦後の日本文化に深い影響を与えたことに改めて驚きます。
五木寛之など70歳代の作家の中には、外地での幼少時代とその引き上げ体験が強烈なトラウマとなっているようです。
また戦争中は比較的恵まれた生活を送ることができたのですが、引き上げてきてからの故郷喪失、彼らを迎えた内地の人々からの疎外感は外地出身の人たちが共通して味わった感覚なのではないでしょうか。
私たちはすでに、喪失した時点から外地を語っていますが、それがリアルタイムで存在していた時に(ずっと存在すると思われていた)、日本人が抱いていた感覚とはかなり相違なるものであったと思われます。
でもだんだん外地体験者も少なくなり、トゥルバドゥールの手に残された御祖父母様の遺品のように、それだけが記憶を伝えるものになるのでしょうね。
投稿: ミキ | 2007年7月23日 (月) 06時07分
ご指摘の故郷喪失感、引き揚げ時のトラウマといった問題もそうですが、日本人の“外地”体験については、良い側面、悪い側面、両方ひっくるめて興味深く感じています。狭い島国に逼塞していた日本人が、これほど大がかりに民族間摩擦を身をもって実感したのは日本の歴史の中でも稀有なことでしょう。
大陸で育った人の感性と、日本列島で育った人のそれとで、微妙な違いがあるのも面白いです。たとえば、安部公房の小説に見られる無機的な感覚は、彼の育った満州のだだっ広い風土が影響しているということがよく指摘されますよね。それから、村上春樹の小説に時折満州のモチーフが出てきて、それが彼の文章の乾いた感じと結構なじんでいる印象があります。もちろん、彼に大陸体験はありませんが、ちょっと興味あります。
私自身は滅多に海外へは行かないのですが、私の祖母はこの年代の割には一人でよく海外旅行に行っていました。「むかし満州にいたから、海外に行ってもものおじしないのよ」と言っていたのを思い出します。
投稿: トゥルバドゥール | 2007年7月23日 (月) 11時57分