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2007年6月11日 (月)

西原理恵子『ぼくんち』

西原理恵子『ぼくんち』(小学館、2003年)

 みじめな仕打ちを受けた時、立場の同じ人への思い遣りが芽生えるとは限らない。切羽つまっていればいるほど、弱い者は、自分よりもっと弱い者につらくあたる。そうした悲しい現実を目の当たりにすることがある。

「みんなの人生がドブに顔をつっこみ続けたような人生だからだ。誰か一人──、誰か一人、人生で抱きしめてくれる人がいたら、みんながこんな事にならなかったんじゃないだろうか。」(第92話)

 人間の持っているヘドが出そうに醜いところを描くのは意外と簡単だ。だまし、裏切り、そうした類いのことを並べ立て、「人間なんて所詮こんなもんさ」と分かったような口ぶりでポーズをとれば、いっぱしの真実を見たような気になれる。

 『ぼくんち』の舞台は猥雑で悲惨だ。シャブ打ち、恐喝、売春、殺しも日常的。こんな物騒な言葉を並べるとさぞ陰惨な話であるかのように思ってしまうだろうが、不思議と暗くはない。一つには、絵柄の雑な感じが良い魅力を出している。個々の話には妙にリアリティーがあるのだが、この絵柄のおかげで気持ちの中でワンクッションおくことができる。

 それ以上に心を打つのは、弱くても、性悪でも、一人ひとりに注がれる眼差しがやさしいところだ。人間の嫌な側面を知ることと、すれっからしとは違う。つくづくそう思う。

 たとえば、第51話。子供をたくさん抱え、不器用で満足に仕事もできないおっさん。不運が重なり、火をつけられて家は全焼。だけど、子供たちを山へピクニックに連れて行く。

「生まれて50年、きたないもんしか見てないんですわ。やから、子供にはきれいなもん見せとうて。」
──おれはこうゆう人らを知っている。弱い生き物とゆうヤツだ。それに、こうゆう人達が一生貧乏クジを引き続ける事も知っている。

 こんなナレーションをかぶせながらも、おっさんを決して突き放してはいない。何もできないけれども、その後姿をただ見守る。

 あるいは、第53話。シャブの集金に行ったこういちくん。ラリったおやじが襲いかかってきたが、返り討ち。幼い娘が泣き叫ぶ目の前で血まみれにしてしまう。こういちくんはお姉さんに懺悔する。

「反省してる? もうしない?」
「うんうん、絶対。」
「絶対はないって前に教えたろ。人はそんなにちゃんと物事を守れるようにはできていないから。」
「うんうん、じゃあ、なるべくなるべくしない。」
「じゃあ、ねえちゃんが許してあげる。おまえがどこで何をしてきたかは知らないけれど、もうしないなら…。世界中の人がダメだといってもねえちゃんが許してあげる。」
──シャブ中おやじには娘がいた。こういちくんにはねえさんがいる。今日、ぼくはわかった。人は一人では生きられない。

 こんな言葉、いつもなら気恥ずかしくて口になど出せやしない。だけど、『ぼくんち』を読んでいると素直に胸に迫ってくる。たまにこの作品を読み返すのだが、そのたびに目頭を熱くしている。悲惨な生活の中で見えてくるささやかな幸福なんて陳腐なことを言うつもりはない。良いも、悪いも、その一切をひっくるめて人生を感じさせると言おうか。言葉にまとまらなくてもどかしい。

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