ジョエル・コトキン『都市から見る世界史』
ジョエル・コトキン(庭田よう子訳)『都市から見る世界史』(ランダムハウス講談社、2007年)
古代から現代まで世界各地の都市を過不足なく取り上げながら点描した通史。個々のトピックについてはそれほど深く突っ込まれているわけではないが、都市が発展してきたプロセスを大きく眺め渡すには便利である。こうした長いタイムスパンの中で自分たちの暮らす都市環境を考え直してみるのもまた一興。内容的に難しくないので、歴史に関心のある大学一、二年生くらいの学生が英語力を磨くのに本書の原書を手に取ってみてもいいのではないか。都市というテーマを通じた歴史の手引書という性格があるので、巻末に参考文献一覧があると親切だったように思う。
本書が最後に示す都市の現在と未来から考えたこと。メキシコシティ、カイロ、テヘランなど発展途上国の大都市はいわゆる人口爆発で急激に膨脹しつつある。その一方で、犯罪や公害などで住みづらい生活環境から逃げるように、企業家や熟練労働者は管理の行き届いたもっと小規模な都市や海外の先進国に移る傾向があるという。また、交通手段、通信手段の技術的進歩によって距離の障壁が消えつつあり、社会のエリート層がそれ以外の階層の人々と一つの都市に同居すべき必然性はなくなってきた。
都市は本来、共通のアイデンティティに基づいた結びつきによって成立する。それは、閉鎖的・拘束的な伝統規範というばかりではない。商業活動等を通じて、異なる文化的背景を背負った人々が共存するために一定のルールが生み出され、それは同じ都市に暮らしている共通感覚によって裏打ちされる。
しかしながら、物理的には同じ都市に住んでいても、違う階層の人々が互いに接触する必要がない、そもそも接触を避けようとしている時、つまり同じ都市に住んでいるというアイデンティティが共有されない時、どうなるか。その殺伐とした都市環境が、経済的・階層的格差の拡大・固定化と相俟って、そこに暮らす人々の精神形成に及ぼすマイナスの影響がかなり大きくなりそうだ。
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コメント
都市に暮らす人々の共通するアイデンティティは「群衆である私」ではないか思います。
親密な関係の中では、家族の一員であり、学校会社の一員である人が、物理的な空間の接触性と反比例して、満員電車や駅の人ごみにおいて、匿名の群衆となる転換を一日の中で繰り返している。有から無へ。無から有へ。
田舎モノとしては、当初、都会人のアイデンティティの強靭さに感心したものです。
経済・階級的様々な人々が集合して暮らしている都市だからこそ、分離・排除する記号にあふれていること、そして都市で暮らすということはその記号の解読に熟達することだということも感じます。価値観を共有できない田舎モノには??というのも多いですが。
都市がもたらす経済・文化・政治的恩恵を受けんがため都市に流入する異質な人々を押しとどめることは出来ないため、囲って分離するというゲットーが発生するのは都市の必然なのでしょうか。
歌舞伎町の監視装置の設置など、ゲットー化した地域を行政が監視するようになったことは、同じ都市の住民がそれらの地域を隔離してしまったことのように思います。
投稿: ミキ | 2007年5月30日 (水) 06時14分
うーん、都市に暮らす人のアイデンティティを「群集である私」に求めるというのは、理屈としては分からないでもないですが、生活的リアリティーではピンときませんねえ。“記号の戯れ”的なポストモダンかぶれにありがちな議論はあまり好きではないものでして…。
投稿: トゥルバドゥール | 2007年6月 1日 (金) 20時25分
ふふふっ「ホストモダンかぶれ」。。というより言葉が「がさつ」なんだと思います(言葉だけではありませんが)。
確かに、安直なレトリックで現象を単純化してとらえてしまったかのように思ってしまう傾向は自覚しています。
田舎と都市と両方暮らした経験のあるものとしては、生活的リアリティのレベルで感じられる相違は、個人的な感覚ではやはり確実にあって、でも、大衆うんぬんは少々大風呂敷広げすぎてるんでしょう。きっと。
最近、化学物質や電磁波過敏症、パニック症候群の方々と仕事柄関わる機会があり、彼らの話を聞いて、量が質(過敏な人には凶器にさえなる)に転換する都市の過密性と、それが身体に及ぼす影響(物理的・精神的)について考えてしまいます。
古来から都市の過密は伝染病の蔓延を引き起こす要因となってきましたが、それとは違うような気がします。
都市がもたらす快適さー便利さ快適さすばやさーを支える人間自身の作った文明の利器の発達と普及が、都市という空間では排除の道具ともなるのでしょうか。
投稿: ミキ | 2007年6月 2日 (土) 10時16分