「明日、君がいない」
学校にも、家庭にも、目の前に人はいる。だけど、周囲の人たちと本質的につながり得ない。そうした孤独感の持つもどかしいまでの苛立ちと哀しみを静かに、しかし痛切に描き出した映画だ。
身体の障害をバカにされる少年。同性愛の二人、片方はカミングアウト、もう片方はひた隠し。近親相姦。親からのプレッシャー。高校生の男女七人の葛藤に焦点を合わせ、インタビュー・シーンをまじえてドキュメンタリー風の演出がこらされている。
舞台は、整然と静かな雰囲気である種の透明感すら漂う住宅街。広々として快適そうな学校。にもかかわらず、トイレや物置きの場面が多いのが印象に残る。家族、先生、クラスメイト、身近な誰かに悩みを語るのではなく、壁で仕切られた狭い空間の中で抱え込んだわだかまりを一人ぶちまけるしかない。誰も理解などしてはくれないのだから。
廊下でからかわれる少年がいる。その横を少女が何気なく通り過ぎる。少年にとってはつらい場面であっても、少女にとってはただの日常光景。冷たいというのではない。そもそも気付かないのだ。見ているようで、見えていない。そのように七人それぞれの視点が学校の中ですれ違うのを追うカメラ・アングルには説得力がある。
七人のうち、ただ一人インタビュー映像の出てこない少女、ケリー。彼女の表情が忘れられない。殴られて鼻血を流した少年にケリーは「大丈夫?」とティッシュを差し出した。少年はふてくされたようにその場を立ち去る。彼とて悪気があったのではない。ただ自身のつらい状況に手一杯で、他人のことにまで気が回らないのだ。登場人物のうちただ一人他の者への気遣いを見せようとした彼女は、この直後、ハサミで手首を切る。理由は誰にも分からない。原題は“2:37”、ケリーが自殺した時刻である。
我々観客は、他の六人それぞれの悩みをつぶさに見ていた。だが、一人ひとりの悩みは理解できるようなつもりでいながらも、視点からはずれていたケリーのことを気にも留めていなかったことにハッと思い知らされる。人それぞれに悩みを抱えてしまう事情を他人事として分かったつもりにはなれるが、それはあくまでも三人称の視点である。一人称の苦悩を受け止めることの限りない困難を突きつけられる。
監督のタルリはまだ19歳の若さでこの脚本を書き上げ、企画を立ち上げたという。友人が自殺し、ショックを受けて彼自身も自殺未遂をした体験が動機になっているらしい。出演者もほとんどは演技の素人ばかり。だが、自主映画にありがちな粗さは全くなく、クオリティーは非常に高い。独特なリアリティーがある。
【データ】
監督・脚本・編集:ムラーリ・K・タルリ
オーストラリア/2006年/99分
(2007年4月30日、渋谷、アミューズCQNにて)
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