近衛文麿本をいくつか
多少なりとも日本の近現代史に知識のある人ならば、日本が統一的な意志をもって侵略戦争を行なったなどという作り話を信じることはないだろう。明治憲法が内包した政軍二元体制や首相権限の弱さによって軍部や各省の意見調整ができないままズルズルと泥沼に引きずり込まれていったのが実相であり、その点では東京裁判で言う“共同謀議”などあり得なかったことは周知の通りである。
こうした政治的混乱、とりわけ対米戦争回避という課題に直面する中、政権をまとめられるのは誰か。国民的な人気があり、それなりの見識を持ち合わせていた点で唯一近衛文麿だけだという大きな期待が当時にはあった。
彼の人事は、今で言うなら“サプライズ”が特徴で、“毒を以て毒を制する”つもりか、陸軍皇道派の柳川平助を入閣させたほか、外相に対米強硬的な枢軸派の松岡洋右を起用。ところが、これが裏目に出た。特に松岡のスタンドプレーがたたって政権はますます混乱。近衛は気力をすっかり失って「辞めたい」としばしば漏らすようになる。近衛の庇護者であった西園寺公望も、各省がそれぞれ言いたい放題な状況を指して「まるで連邦だね」「何かやっているように見えて政治はほとんど動いてない」と酷評した。近衛は“運命”という言葉を好んで用いたそうだが、時勢に流されつつある彼自身の弁明のように聞こえてくる。
近衛文麿の評伝としてまず挙げられるのは岡義武『近衛文麿──運命の政治家』(岩波新書、1972年)であろう。当時の政治状況の中での彼の位置づけが簡潔にまとめられており、刊行からすでに三十年以上経ってはいるが今でもスタンダードな評伝と言える。日本政治史の権威である岡が「孤独感があった」「女色にふける」とサラッと書き流してしまうあたりをむしろ掘り下げて近衛のパーソナリティーを描き出そうとしているのが去年刊行された工藤美代子『われ巣鴨に出頭せず──近衛文麿と天皇』(日本経済新聞社、2006年)である。
最近、近衛と木戸幸一との確執に注目する著作が相次いで刊行された。木戸は明治の元勲・木戸孝允の孫。近衛とは学習院以来の友人で、二人は華族出身の政治家として早くから頭角を現わしていた。第三次近衛内閣の終わり頃から二人はそりが合わなくなっていたようだ。当時、木戸は内大臣という役職にあった。内大臣とは天皇と内閣との連絡役だが、最後の元老・西園寺の死後、重臣たちの間を動き回って次期首班奏請の取りまとめ役を担うようになる。近衛が政権を投げ出した後、東条英機への大命降下では木戸がイニシアチブを取った。戦争中、木戸か東条を通さなければ天皇への拝謁はかなわず、近衛は宮中から締め出されていたらしい。
工藤書の後半では近衛と木戸との齟齬に焦点が当てられるのだが、ここで意外なキーパーソンが登場する。カナダの外交官で日本史研究で知られたE・H・ノーマンだ。
日本の敗戦後、近衛はGHQと一定の信頼関係を得て、新憲法作成の責任を果たすように言われる。ところが、状況は突如一変。きっかけはノーマンがGHQに提出した「戦争責任に関する覚書」であった。この中でノーマンは、近衛を封建勢力を代表する戦争責任者として断罪する一方、木戸に関しては実権はほとんどなかったとする。実は木戸の姪が経済学者の都留重人と結婚しており、都留はハーバード留学時以来、ノーマンと親しくしていた。つまり、都留・ノーマンの線を通じて木戸の戦争責任軽減が図られた形跡が窺えるという。そればかりでなく、ノーマンによる近衛追い落としの背景として、近衛上奏文のことが念頭にあったのではないかと工藤は推測を進める。近衛上奏文とは戦争末期になって早期終戦の必要を天皇に奏上したメモランダムで、その理由として敗戦後日本の共産化への懸念が挙げられていた。言うまでもないが、ノーマンはコミンテルンに通謀していたと言われており、その疑いはまだ晴れていない。
いずれにせよ、こうした形で近衛になすりつけるように定型化された戦争責任論を“木戸・ノーマン史観”と呼び、敗戦直後の十二月に自殺するまでの近衛を描いているのが鳥居民『近衛文麿「黙」して死す──すりかえられた戦争責任』(草思社、2007年)である。
近衛文麿については多くの書籍が刊行されている。近衛自身の著作としては『戦後欧米見聞録』(中公文庫、2006年)が復刻されており、以前にこのブログでも紹介した(http://barbare.cocolog-nifty.com/blog/2007/03/post_c6f3.html)。評伝としては上記の他に、杉森久英『近衛文麿』(河出文庫)、矢部貞治『近衛文麿──誇り高き名門宰相の悲劇』(光人社NF文庫)などがある。杉森は伝記作家として有名。矢部は戦前に東京帝国大学で政治学の教授、近衛のブレーン集団・昭和研究会のメンバーでもあった(この幅広い人脈を集めたブレーン集団については酒井三郎『昭和研究会』(中公文庫)がある)。また、近衛は親しかった山本有三に伝記執筆を依頼していたらしい。同時代人の記録としては、近衛内閣で書記官長や法相を務めた風見章『近衛内閣』(中公文庫)、ジャーナリストでやはり近衛ブレーンの一人であった松本重治『近衛時代』(中公新書)がある。政治史研究では大政翼賛会に至る政治プロセスを分析した伊藤隆『近衛新体制』(中公新書)が思い浮かぶ。
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