佐藤優『国家と神とマルクス』
今日の夕方、友人から携帯にメールをもらい、佐藤優の最新刊『国家と神とマルクス──「自由主義的保守主義者」かく語りき』(太陽企画出版、2007年)が出たのを知った。早速買い求めて通読した。本書は、佐藤が雑誌や新聞に執筆した論考を集めている。中には、民族派系の『月刊日本』に掲載された「日本の歴史を取り戻せ」や、新左翼系の『情況』でのインタビュー記事「国家という名の妖怪」など、普段は目にする機会のない媒体に発表されたものも含まれている。論点があちこちとんで雑な感じもするが、それだけに彼の思考の途中経過がうかがわれて面白い。
私が関心を持ったポイントをいくつかメモとして走り書き。初めに、「日本の歴史を取り戻せ」から。保守主義とは伝統に根ざしたものである。しかし、日本は日本の伝統から保守主義が語られるのと同時に、アメリカはアメリカなりの、中国は中国なりの、それぞれの立場での保守主義があるわけで、その点では本来、多元的なものである。ところが、昨今の保守論壇をみると、どうも議論が硬直していて、右派の持ち味であったはずの寛容さが失われている。そこで、佐藤は蓑田胸喜を取り上げ、“唯一の正しい日本”という蓑田のドクトリンはむしろ西欧近代的な言説であることを示し、注意を促す。これに対して、北畠親房『神皇正統記』を読み解きながら、多元的な意見の並立を許容する政治システムとして“権威”と“権力”の分離を日本の伝統として指摘し、これを担保する結節点として、力はなくとも“権威”の担い手である“皇統の連続性”に焦点を当てている。
次に、「国家という名の妖怪」から。まず、藤原正彦『国家の品格』(PHP新書、2005年)の捉え方について。私自身はこれを駄本だと考えている。ただし、論理以前に情緒が大切であり、その情緒は文化風土の中で育まれるという、藤原が昔から主張してきた勘所については好意的に受け止めていた。感情的なナショナリズムから世間的にこの本が受け止められて、藤原が本来言いたかったことが意外と浸透していないのではないかと懸念していた。佐藤は、「語り得ぬことについては沈黙せねばならない」というヴィトゲンシュタイン『論理哲学論考』の末尾をしめくくる有名な一文を引き合いに出しながら、論理の世界と、論理では表わせない世界との区別として理解しており、全く同感である。
それから、国家の超越性について。世俗化の傾向が強まる中、宗教は人間の生き死にの対象とはならなくなってきた。かわって、生き死にをかける対象としての超越性を国家に求めるようになってきている。そうした認識を踏まえて、「結局、我々は何らかの病気にかかっているので、病気から完全に逃れることはできないのだと思います。だからどういう病気になるかが問題なのだと思います。できるだけ他者に危害を加えない比較的ましな病気になるしかない。それぐらいしかないと思う(笑)。/私のかかっているキリスト教という病気は、他者に危害を加えることがときどきある。私がかかっているもう一つのナショナリズムも他者に危害を加える危険な病気です。だからその危険性をできるだけ、自己の利害得失から切り離して認識しておくことが必要と考えています。」(本書、226頁)という行き方は説得的に感じた。
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