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2007年4月13日 (金)

『保田與重郎文芸論集』

川村二郎・編『保田與重郎文芸論集』(講談社文芸文庫、1999年)

 私自身の幼い頃の読書体験の一つとして『平家物語』のインパクトは強い。無論、原典で読んだわけではない。小中学生向けにリライトされたものだったが、このスケールの大きな大河ドラマに夢中となって繰り返しむさぼり読んだ。本書『保田輿重郎文芸論集』所収の「木曾冠者」で保田はこの『平家物語』の魅力を存分に語る。その口調からは、登場人物に仮託しようとした保田の人生観がうかがわれ、私の単なる『平家物語』好きを質的に変化させてしまうくらい胸に強く迫ってきた。

 保田の源頼朝論に英雄史観の影をみる人もいるようだが、話はそんなに単純ではない。平家は没落し、鎌倉では着々と政権が樹立される。あまたの個性が、自分の置かれた立場の中で通すべき筋を通し、当然のことのように死地へと赴く。死屍累々たるドラマが重層的に積み上げられながら、平家の没落が必然的と言いたくなるくらいの確かさを以て進行する。

 ところで、頼朝は鎌倉にこもったままである。この没落劇にあまり姿を見せることがない。それだけに不気味である。歴史の大きなうねりには善悪もなければ、勝ち負けもない。ただひたすらに人知を超えたうねりが人々を次々に巻き込んでいくその中心点、台風の目のような存在として保田は頼朝を捉える。彼は無慈悲に殺す。その中には、行家、範頼、そして義経など親族も含まれる。「個人の意志よりももっと壮烈苛酷な歴史の意志の断面の図柄をみるようで怖ろしいのである」(本書、145頁)。個人というレベルをはるかに超越したすごみ、その具象化として保田は頼朝を見ているのであって、歴史上の生身の彼を思い浮かべているのではあるまい。

 保田は、木曾冠者すなわち義仲と九郎判官義経について、平家没落と鎌倉政権樹立にあたり“必然な橋”であったと言う。この二人について保田が時折“橋”という表現を用いるのが目を引く。

 保田の「日本の橋」という文章が本書にも収録されている。ヨーロッパの頑固堅牢な橋(たとえば、古代ローマのガール橋をあげている)と比較しながら、日本の橋の素朴なたたずまいに日本人の感性のあり方を読み取ろうとしたエッセイで、比較文化論ではしばしば言及される。

 このエッセイを、名古屋で見かけた橋の擬宝殊に刻まれた銘文を取り上げて結ぶあたりが印象的だ。橋を寄進したのは、秀吉の命により出征して戦没したある若武者の母親である。息子を死に至らしめた宿命に抗議の憤りを示すのではなく、しかし同時に純粋なかなしみが浮かび上がっている。そうした気持ちが相反しながら、二つながらに溶け込んでいる素朴な文面に、保田はある種の感懐をもよおしている。ロマン派的なイロニーで読み込んでいると言うべきか。義仲と義経についても、時代の移り変わりを橋渡しすべく宿命的な役割を負わされた。そこにもがきつつ、同時に滅びという形で果たすべき役割を果たしきった姿に、二律背反しつつ一如の真実を見出そうとしているのか。それは、善悪是非、一切のこと分けなど通用しない、ただひたすらな真実である。

 剣をとった二人の間に、修身教室の倫理から正義と不義の現れをとくなどは、概して後世堕落の民の習俗である。瞬間の切迫の中にそういう空論はない。ただ勝つことが現実である。それは無上に押し流されたときに発見される。闘いは人力のきずいた線を突破した非常であり無常である。源氏ならば頼朝のために肝脳地にまみれさすが正しく、平氏なら清盛のために死すが正しい。今日私がソヴエート人ならばスターリンの完全奴隷となっていささかもスターリンにヒュマニズムがないなどの愚言を云わないし、現に私は日本人であるから、日本の正義を己の住家とする自信から敢えて云々せぬ。ある理論の眼で日本の神聖を云うことさえ、すでに今日では日本人である私にとっては、大へんな空語と思はれる。矢の放たれた瞬間は考慮や批判を超越する。その批評はその瞬間に成立した血の体系だけが描くのである。平家物語の讃仏乗の縁をとく精神は今日もまた真理となった。平家物語は平家が討たれねばならなかった理由も、滅んだ理由もいっていない。人工の正義など説いていない、描いているのはつまりその讃仏乗の縁であり、諸行無常の調べである。勝者も敗者も、剣をもった瞬間に救われていた。殺戮が一つの罪悪であるというような正論は百も承知で、抽象の殺戮でなく、具体の剣戟の場に臨んでいた。無常が押し流したのである。個人は死んでもよいが、背景の理念は何らかの形で表現せねばならない。その剣戟の場に於いては、一切は善悪から解放されていた。(本書、162~163頁)

 宿命と言えば大仰ではあるが、人には誰しもそれぞれに与えられた何がしかのものがある。それを、他人との比較で様々に良し悪しを云為するのは全く無意味であろう。与えられたものをそのまま引き受ける、そこには理屈の介在する余地はない。自分の立つべき立場の中でただひたすら自分のなすべきことに努めるしかないし、結果としての成功・失敗という判断も所詮は後知恵に過ぎない。日本人なら日本人として生きよ、という言い方をナショナリズムとまとめてしまうのは簡単であるが、そうしたまとめ方自体、「日本に生れた自分」を他人事のように見て小賢しく理屈づけようとする軽薄さが感じられる。

 本書は保田が戦前に発表した文章のみを収録している。戦後になって保田は、その文章が若者を喜んで戦地に赴かせたとして、戦争協力者、御用文士のレッテルを貼られた。しかし、見方を変えれば、それだけあの不安な時代状況の中で人の気持ちを捉えるだけの力がみなぎった文章であったということだ。政治的なバイアスを取り払って読み直してみる価値はあるように思う。

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