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2007年4月11日 (水)

福田恒存『人間・この劇的なるもの』

 “自由”とか“個性”とかいう観念のインフレは、現代社会を特徴付けるメルクマールの一つだと思っている。この言葉の持つ詐術(敢えてこう言いたい)に私は戸惑わされた経験を持つ。この観念を、理屈の上では理解できるような気がした。しかし、胸の奥まで得心のゆかないもやもやしたわだかまりが常にまとわりついていた。

 わだかまりの理由の一つは、この言葉の多義的な難しさだ。政治思想史的な文脈における“権利”としての“自由”にせよ、感覚的な意味合いでこだわりをなくした精神状態としての“自由”(私は早くから老荘思想にひかれていた)にせよ、同じ“自由”という言葉を用いて語られても、論ずる人の立場や感性に応じてここに込められたニュアンスが根本的に相違してくる。そうした微妙に輻輳する襞を判じ分けないと混乱してしまうし、むしろその混乱を恣意的に利用して得手勝手な“自由”論を展開することだってできる。“自由”なる言葉は実にトリッキーである。

 我々は“自由”を求めているのではなく、“必然”のうちに身をさらすことを渇求している。“個性”なるものもつきつめれば“個性”ではない──。こうした逆説をつきつけられて瞠目したのが福田恒存『人間・この劇的なるもの』(中公文庫、1975年)であった。我々の陥りやすい錯覚を辛辣だが真摯な舌鋒で突き崩してくれる点で卓抜な“自由”論だと思う。

 ここが肝心なポイントだが、いわゆる“自由”を否定するからといって安易な運命決定論へと結びつけるのは愚かしいことである。

 すでにいったように、私たちが欲しているのは、自己の自由ではない。自己の宿命である。そういえば、誤解をまねくであろうが、こういったらわかってもらえるであろうか。私たちは自己の宿命のうちにあるという自覚においてのみ、はじめて自由感の溌剌さを味わえるのだ。自己が居るべきところに居るという実感、宿命感とはそういったものである。それは、なにも大仰な悲劇性を意味しない。宿命などというものは、ごく単純なものだ。

 ワイルドがいっている。芝居ではハムレットがハムレットを演じ、ローゼンクランツがローゼンクランツを演じる。だが、この人生では、ローゼンクランツやギルデンスターンがハムレット役を演じさせられることがある。

 それは本人にとって苦しいことだ。それを、私たちは自由と教えられてきた。私たちは自由である。したがって幸福である。むりにそう思いこもうとする。これ以上の自己欺瞞はない。すべてを宿命と思いこむことによって、無為の口実を求めることも自己欺瞞なら、すべてが自由であるという仮想のもとに動きながら、つねに宿命の限界内に落ちこみ、なお自由であると思いこむことも、やはり自己欺瞞なのである。つまり、二つの錯覚がある。人生は自分の意志ではどうにもならぬという諦めと、人生を自分の意志によってどうにでも切り盛りできるという楽観と。老年の自己欺瞞と青年の自己欺瞞と、あるいは失敗者の自己欺瞞と成功者の自己欺瞞と。(本書、21~22頁)

 私は福田の文化ナショナリズム的な発言に必ずしも共感するわけではない。しかし、本書に人生論としての深みがあるのは間違いなく、折に触れて繰り返し読み返してきた愛読書のうちの一冊だ。現在は版元で品切れらしく入手が難しいのは残念である。

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