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2007年4月29日 (日)

宮城大蔵『バンドン会議と日本のアジア復帰』

宮城大蔵『バンドン会議と日本のアジア復帰──アメリカとアジアの狭間で』(草思社、2001年)

 インドと中国はチベット問題をめぐって厳しく対立していたが、1954年に両国間で協議が妥結した。その際、「平和五原則」によって平和共存路線が示されたことは、東西冷戦が緊迫している中、世界中からの注目を集めた。折りしも同年にはインドシナ戦争についてジュネーヴ停戦協定が合意されており、こうした情勢の中で翌1955年、アジア・アフリカの独立国が一堂に会する会議がインドネシアのバンドンで開催された。

 アジア・アフリカ諸国といっても様々だ。米ソ双方の同盟国が混在しており、路線対立で紛糾して芳しい成果があがらないだろうという懸念もあった(最終的には周恩来の柔軟な対応のおかげで成功した)。日本については、過去の戦争の怨念により招請をためらう声もあったが、パキスタンのイニシアチブで日本も招かれた。パキスタンは仇敵インドが会議でリードするのを防ごうと躍起になっており、アメリカの同盟国をできるだけ多く会議に引き込んで牽制しようとしていたらしい。

 欧米諸国との協調を優先させるのか。それとも、アジアの一員としての立場を自覚的に打ち出すのか。これは近代日本の政治外交における最大の対立軸の一つであり、バンドン会議をめぐっても深刻な葛藤を引き起こした。

 当時の鳩山首相は前任者・吉田茂の敷いた対米協調路線に不満を抱いていた。一つには、戦前から連綿と続くアジア主義の気分があると言えよう。だがそれ以上に、冷戦が緊迫感を増している中、第三次世界大戦を回避するためには全方位外交を進めるべきだという考えを鳩山は持っていた(ソ連との国交回復をライフワークとしたのはその表われだ)。現実を考えれば政治論に触れるのは避けねばならないが、経済交流ならば何とかなる。アメリカはバンドン会議には困惑しており、明確な方針を出さなかった。それでも、対米協調という基本的立場さえ守っておけば、その枠内でも独自の外交政策を展開できるという判断から、鳩山首相はバンドン会議に前向きであった。

 これに対して重光葵外相や吉田系の野党・自由党は、バンドン会議は共産圏の“平和攻勢”の隠れ蓑として利用されるという認識を持っていたため反対した。ところが、アメリカが同盟国を多く送り込む方が得策だと最終的に判断したため、日本も代表団を送ることが決まった。ただし、首相・外相クラスは見送られ、経済審議庁長官の高碕達之助が団長に選ばれた(なお、会議中に高碕は周恩来や廖承志と接触し、後のLT貿易の地ならしとなった)。

 ニューギニア島の西イリアン帰属問題でインドネシアとオランダは対立していた。バンドン会議でインドネシア支持の決議が行なわれても反対するよう日本はオランダから働きかけを受けていたが、何もしなかった。こうしたアジアへのシンパシーの気分が日本にはある。欧米との協調路線、さらには対米追従と言われながらも、日本の戦後外交をつぶさに見ると同盟関係の枠内において目立たないながらも出来るだけ距離をおこうという姿勢が垣間見られる。

 冷戦期において対立構図は固定化されており、中小国が独自の外交路線を取るのは事実上不可能であった。かつて日本を“エコノミック・アニマル”と揶揄するのが国内外を問わず一つのパターンとなっていた。しかしながら、日本がイデオロギー論争には巻き込まれないよう大きな国際政治的イシューからは距離をおき、国際交流をほとんど経済にしぼったことは、むしろ冷戦という制約下、自主外交を展開するための一つの工夫であったように受け止められる。その基本構図がバンドン会議をめぐる日本の対応に凝縮されており、そこが非常に興味深かった。

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コメント

戦後日本がとった外交政策を検討しなおすことは重要ですよね。
 ともすれば、対アメリカ、対ソ連、対中国と東西冷戦イデオロギーの枠内での外交の苦渋ばかりが取り上げられる中、占領から間もない日本の外交の出発点として、バントン会議での第三諸国との多角的外交は、日本が経済重視の外交を展開してきたことの意義をとらえなおす上で重要だと思います。
 冷戦終結、アメリカの覇権が急速に失墜しつつある今日、世界の多極化に向けて日本独自の外交を推し進めるために、バントンでの日本の外交方針はヒントになるのでは。
 ただし、どうしてもアジアでの経済重視の外交となると、満州の旧陸軍からの流れをくむブラックマネーがODAの形で、各国の開発独裁政権を支える資金として使われてしまう構図が出来るきっかけを作ってしまったのではないかと思うのですが、どうなんでしょう?
 トゥルバドゥールさん、いつも楽しみにブログ読ませていただいています。概要を整理されてまとめてくださるので、理解力のない私は自分で読んでわかったつもりになってます。教わることの醍醐味ですね。感謝。
6日まで実家(山口県萩)に帰省するためコメントお休みします(勝手に書き込んで休むもないものですが、笑)。

投稿: ミキ | 2007年5月 2日 (水) 09時37分

 ミキさん、このコメントをご覧になるのはお帰りになってからでしょうか。帰省はいかがでしたか?
 おっしゃる通り、ODAには色々と問題もありますね。日本企業がキックバックを期待したなんて話もありますし。資金が独裁政権に流れ込んだという問題は確かに深刻です。ODAにどんなにつぎ込んでもほとんどが政治上層部の懐に入って、末端に行き渡るのはわずかだけという状況は現在でも指摘されています。リアリスティックに言えば、支配者に鼻薬をかがせなければ物事は何も進まなかったという事情もあるでしょうし、他方で体制問題を指摘すれば内政干渉だ、新しい植民地主義だと逆に言い返されたでしょう。
 最近は、無駄だからODAを削減しろという立場と、内政干渉だろうと何だろうとこちらからお金を出す以上、使い道をしっかり監視して有効活用させるべきだという立場とで議論がされているようですね。いずれにせよ、お金を出すこちら側でなく、むしろ受け取る向こう側の問題ですから、対処は難しそうです。

投稿: トゥルバドゥール | 2007年5月 5日 (土) 13時53分

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