島田裕巳『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』
島田裕巳『中沢新一批判、あるいは宗教的テロリズムについて』(亜紀書房、2007年)
私は中沢新一、島田裕巳のどちらに対しても特に悪意は持っていない。本書を読む前からも、読んだ後も。島田が展開する中沢批判を理解しつつも、同時に中沢への興味がむしろ強まっていくという奇妙な読み方を私はしていた。島田なりに中沢の思想を整理するのを見ながら、何やらデモーニッシュに怪しい魅力が中沢にはあることをかえって印象付けられたからだ。
実のところ、私は中沢のあまり良い読者ではなかった。最近では『精霊の王』(講談社、2003年)や『アースダイバー』(講談社、2005年)を興味深く読んだものの、他の著作ではたいてい途中で脱落してしまう。彼の晦渋でまわりくどい言い回しで示されたイメージにひかれつつも、どこか感性が違うせいか、読みながら気分がのらないのだ。それでも気になるという微妙な距離感があった。
中沢という人にはちょっと不思議な印象を以前から持っていた。感覚の深みを鋭く見つめているように思って感心したこともあれば、逆に何と陳腐なことを言っているのかとあきれたり。その落差というか、振幅の激しさそのものに興味がわいていた。島田は中沢についてこう指摘する。中沢は宗教学者ではなく、いまだにチベット密教の修行者の世界から抜け出していないこと。誤解をおそれて相手に応じて発言のニュアンスを変えていること。彼をどう評価したらいいのか戸惑った印象からも私は納得できるように感じた。
島田の批判は、必ずしも中沢を標的にしなくとも成り立つように思われる。たとえば、『虹の階梯』(私は未読。平河出版社、1981年。中公文庫、1993年)で中沢が描き出したヴィジョンを俎上にあげている。中沢はヴィジョンだけを示して、そこに至る方法論は書かなかった。その方法論を修行という形で麻原が編み出した。だから、オウム真理教に信者が集まった、という。しかし、そうしたヴィジョンにひかれる人々がそもそも潜在的にいたわけだ。彼らは『虹の階梯』がなくても別の形で同じものを求めたのではないか。
本書で核心をなす議論は“霊的革命”と“リセット願望”とのつながりを指摘したあたりにある。現実の世界を変革すべきもの、否定すべきものと捉え、その忌むべき現実世界を破壊するカタルシス──。中沢が示したそうした傍観者的に身勝手な破壊願望に、テロを正当化する危うさを島田は見出している。
“リセット願望”は私にとって他人事ではない。阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件と大惨事が立て続けに起こる中、私はまだ学生だった。友人との雑談で、「こんなことおおっぴらには言えないけど、今度は何が起こるんだろうって期待感があるよね」と互いに話し合ったのを覚えている。あるいは9・11のとき、「アメリカ、ざまーみろ!」と身が震えたことも思い出す。
無論、良識的な立場からは間違った態度であることは重々承知していた。だから、人前でこんな発言をすることには後ろめたさがあった。しかし、こうした感覚が理屈以前にわきおこったことも事実なのである。島田の言う傍観者的で身勝手な“リセット願望”は、中沢に限らず、オウムに限らず、そして私自身にも限らず、多くの人々が心中に感じたのではないか、ただポリティカルな配慮から軽々しく口には出さなかっただけなのではないか、そうした疑いを抑えられない。
島田の議論はポイントをきちんとおさえていると思う。ただしそれは、中沢個人に責任を帰している点においてではない。中沢個人なんて別にたいした問題ではない。我々の社会の抱える問題、とりわけ安定しているかのように見える社会が内包したニヒリスティックな破壊衝動、そこを中沢をたたき台にして照射しようとしている点で真摯な問題提起を試みているものと私は受け止めている。
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