「スミス、都へ行く」
1930年代のハリウッドは社会派的な問題意識と娯楽としての要素をうまく絡めた映画を割合と作っている。往年の巨匠フランク・キャプラ監督「スミス、都へ行く」(1939年、原題“Mr. Smith Goes to Washington”)が私は昔から好きだった。初めて観たのは中学生の頃だったろうか。NHK教育テレビで放映されたのをヴィデオに録り、それ以来、折に触れて繰り返し観ている。ストーリーは単純な勧善懲悪型。それだけに健康的で、気分が暗く落ち込んでいる時に観る分には精神衛生上非常によろしい。
ひょんなきっかけで連邦上院議員に指名されたボーイスカウトの団長、スミス。実は州の実力者テイラーが操り人形とするつもりで仕組んだ人選であった。そんなことはつゆ知らぬスミスは、慣れぬワシントンで四苦八苦する中、テイラーの汚職を知ってしまう。あろうことか、尊敬する先輩、ペイン上院議員までもが関わっていた。スミスは次々とかかる政治圧力にめげそうになりながらも、地元の選挙民の良識に訴えようと、前代未聞のマラソン演説を議場で展開する。はつらつとした初々しさのある若き日のジェームズ・スチュアートは、世間知らずだが純情なスミス役にぴったり。彼を支えるベテラン女性秘書はジーン・アーサーが演じていた。
先日観た「オール・ザ・キングスメン」についてこのブログに書いた。主人公のモデルとなった実在の政治家ヒューイ・ロングが気にかかり、本棚から三宅昭良『アメリカン・ファシズム──ロングとローズベルト』(講談社選書メチエ、1997年)を引っ張り出した。パラパラとめくっていたら、上院で15時間以上にわたるマラソン演説をやった人物が実際にいて、それがロングであったあったことに今さらながら気付いた。目的はスミスとは違って汚職告発ではなく、時の大統領フランクリン・ローズベルトを揺さぶるための議事妨害であった。1935年の出来事であり、実はこの3ヵ月後にロングは暗殺される。
“ファシズム”という概念の扱いはなかなか難しく、ロングをこのカテゴリーに括るのが適切かどうかは分からない。ただ、ロングは派手なパフォーマンスが得意であり、それはマスメディアがあってはじめて成り立つ集票戦術であった。同時代のドイツにおいてゲッベルスのマスメディア戦略がすさまじいまでの威力を発揮していたことは誰しも思い浮かべるだろう。いずれにせよ、大衆民主主義の進展によりマスメディアの役割が飛躍的に大きくなっていたことを反映している。
スミスは議場で演説しながら、そのメッセージがラジオを通じて地元の選挙民に届くことを期待していた。しかし、テイラーは地元メディアをしっかりと押さえ込んでおり、スミスの肉声は届かない。どんな手段を使おうともマスメディアを制した者が勝ちであり、勝った者が正しいと世間ではみなされる。スミスは力尽きて倒れてしまう。ところが、それを見たペインが良心の呵責にたえかねて発狂したように洗いざらいぶちまける。そうしたドンデン返しでこの映画はハッピー・エンドを迎えるのだが、現実の政治はそうそううまくいくはずがないのは勿論である。ロングのポピュリスティックなパフォーマンス政治をスミスの純朴さに置き換えようとしたところに、この映画が作られた時代に漠然と漂っていた“民主主義”なるものへの不安が読み取れそうだ。
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