私の偏見かもしれないが、哲学学者(敢えて“学”を二つ並べた)の書く論文にはウソが多く混じっていると思っている。翻訳口調の学術用語を積み木のように組み立てることを“論理的”と称したところで実体がない。実体のないものはウソである。こうしたあたりに疑問を抱いて独自のスタイルで哲学を語っていたのが、先日お亡くなりになった池田晶子さんだろう。
自分自身がいままさに感じている素朴な生身の感性、これを基にめぐらされた思索は戦後日本のアカデミズムにおいてなかなか少ないが、その稀有な一人として大森荘蔵に私は敬意を抱いている。
私はまったくの文系人間で、科学史・科学哲学の素養はゼロである。だが、『知の構築とその呪縛』(ちくま学芸文庫、1994年)を一読した時にはたちまち魅了されてしまった。どことなく詩心が香りたつ科学哲学というのがあり得ることに心底驚いた。
世界の見え方は一つではない。たとえば、エジプトのピラミッドを思い浮かべてみよう。遠くから見れば均整のとれた美しい三角形。ところが、すぐ麓から見上げると、巨石が積み上げられてゴツゴツしている。常識的な見方では、遠くから見えたきれいな三角形は錯覚で、近くから見たデコボコが正解ということになる。
だが、ちょっと待って欲しい。遠くの地点で目を凝らしたとき、きれいな三角形に見えたというその視覚体験そのものは果たして間違いだったと言って済むのだろうか。そのように見えた生身の視覚体験そのものは厳然たる事実である。にも拘わらず“錯覚”というレッテルを貼ってしまうのは、デコボコを見たもう一つの視覚体験を基準とした後知恵に過ぎないのではないか。そうした趣旨のことを大森は本書「11 二元論批判」で言っている(ピラミッドの例は分かりやすくするため私が仮に出してみた)。
世界は様々に見え得る。そのうちのたった一つの見え方だけを“真理”とみなし、他の見え方を“錯覚”という言い方で否定してしまったところに近代科学がはらむ大きな欠陥がある。
ここで勘違いしてもらっては困るが、だから近代科学は間違っていると言っているわけではない。近代科学特有の数量化という手続きを通してこの世界を眺めることだって勿論可能だ。ただ、色々な見方、感じ方ができるものを、たった一つの見方だけしかあり得ないと近代科学の思考習慣になずんだ我々は信じ込んでいる。そうしたこわばりを大森は解きほぐしてくれる。これはあくまでも日常生活での慣れの問題であって、特別なことは何も言っていない。
「…「物」と「知覚像」は一心同体の「同じもの」なのである。原子集団そのものに色があり、匂いがあり、暖かさ冷たさがあり、美しさ醜さがあるのである。ただ個々の原子や感覚できない小集団の原子は色があるのでもなければ色がないのでもない。それらは感覚できない。ということそのことによってそれらに色を云々することは無意味なのである。しかし一定程度以上の表面積をもつ原子集団には色がある。その原子集団そのものに、である。その色は、私が今それを見ている視点と視角から見えている色である。他の視点視角から見れば多少異なる色が見えよう。だがそれもまた、その原子集団の、その視点視角から見える色なのである。こうして、どの色もその原子集団そのものの色であることは、視角視距離に応じて姿を変えるその形状がすべてその原子集団そのものの形状であるのと同様である。」
「それを誤って、原子集団にただ幾何学的、運動学的性質だけを帰属させて死物化し、一方、感覚的風景を主観的意識に押し込めたのが、ガリレイ、デカルトの路線であった。…自分の身体を含めての物的自然の死物化、それに対応する、いわゆる「心の働き」の主観化、内心化、この「自然」と「内心」との分離分断が現代人の思考と感性の基本枠となっている。それは近代を特徴づけた科学的思考に誤って紛れ込んだ、そして人々の誤りに乗じてその母屋を乗っ取ったデカルト的二元論の呪縛の結果なのである。」
「この自然の死物化と心の主観化・内心化が、現代人から、古代中世の人々がもっていた、活物自然と自己の一体感を奪ったのである。略画的世界観のもっていた、自然を生き生きと活きたものと感じ、自分をその一部として感じる、あの感性を奪ったのである。そしてその略画的感性を何か未開のもの、迷信的なもの、と感じる近代的感性に支配されるに至ったのである。そしてさらにそれを、近代的自我などと称するに至ったのである。」
「…物と自然は昔通りに活きている。ただ現代科学はそれを死物言語で描写する。だがわれわれは安んじてそれに日常語での活物描写を「重ね描き」すればよいのである。」
「…つまり、「心の働き」といわれているものは実は「自然の働き」なのである。心ある自然、心的な自然が様々に(感情的、過去的、未来的、意志的、等々)立ち現れる、それが「私がここに生きている」ということそのことにほかならない、こう私はいいたいのである。」
「かりにそういえるとすれば、私と自然との間に何の境界もない。ただ私の肉体とそれ以外のものに境界があるだけである。自然の様々な立ち現れ、それが従来の言葉で「私の心」といわれるものにほかならないのだから、その意味で私と自然とは一心同体なのである。当然、〈主観と客観〉と従来いわれてきた分別もない。〈世界と意識〉という分別もない。これは禅的な意味や神秘的な意味での「主客合一」とか「主客未分」とかということとは全く別のことである。ごく当たり前の日常生活の構造そのものの中に主観と客観、世界と意識といった分別がない、ということだからである。四六時中そうなのである。」
(以上、本書234~238頁より抜粋)
本書を読むのに科学史の知識は常識程度にあれば十分だ。細部の理解にはこだわらず、とにかく通読して勘所をおさえて欲しい。本書はこれからも細々とながら読み継がれていく古典になると私は思っている。科学哲学という分野の敷居の高さゆえか、大森の名前は一般読書人の間でもそんなに知られているとは言えない。そうした中、今月、大森と坂本龍一との対談『音を視る、時を聴く』をちくま学芸文庫が出してくれたのは本当にうれしい。
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