倉田保雄『エリセーエフの生涯』
倉田保雄『エリセーエフの生涯──日本学の始祖』(中公新書、1977年)
本格的なジャパノロジーの始祖として位置づけられるセルゲイ・エリセーエフ(1889~1975年)はロシアの裕福な家庭に生れた。彼が日本に関心を抱くようになったきっかけとしては、少年時代、絵画を習っていた先生のもとで広重や北斎を知り、その魅力にとりつかれたこと。若い頃にありがちなロマノフ朝への反体制的な気分が折りしも勃発した日露戦争(1904~05年)に重ねあわされたこと、などの事情があったらしい。
1908年、外国人としては初めて東京帝国大学に入る。日本名は「英利世夫」。江戸時代の文学に取り組んで松尾芭蕉について卒業論文を書き上げるなどアカデミックな研鑽を積む一方で、なかなか洒脱な人だったらしく、寄席に通って流暢な話術を身に付けたり、金にあかせて派手な芸者遊びをやったりというエピソードも伝わっている。同窓の小宮豊隆の縁で夏目漱石の木曜会にも出入りしていた。
外国の研究は、研究をしている本人にとってはロマンや好奇心に導かれたものであっても、そこで得られた知見の使い道にはまた別の思惑がかぶさってくる。東洋学研究の草創期をみると必ずと言っていいほど政治の影があちこちにちらつくが、エリセーエフもその例外ではあり得なかった。
帝国大学を卒業後、母国からお声がかかって帰国、ペトログラード大学で日本語を教えるようになる。時はちょうど第一次世界大戦(1914~18年)の真っ最中。1917年にはロシア革命がおこり、その混乱にエリセーエフも翻弄される。財産を没収された上、襲いかかってきた食糧難に、御曹司育ちの彼は家族を抱えて途方にくれた。言論統制は厳しくなり、義弟が銃殺刑に処せられたりと不安な日々、エリセーエフは逮捕される。連行される際、漱石の作品をカバンの中に詰め込んだという。この時は知己の尽力で何とか釈放されたが、次はいつ逮捕されるか分かったものではない。1921年、フィンランド経由で密航し、パリに亡命した。なお、このあたりの経緯については日本語で手記をつづり、『赤露の人質日記』というタイトルで朝日新聞社から刊行された(その後、中公文庫に収録)。
1932年、フランス国籍を取得。ちょうどその頃、ハーバード大学で東洋語学部を充実させる計画が進められており、著名な東洋学者ポール・ぺリオの推薦でエリセーエフがその部長に招聘された。彼はアメリカが好きではなくソルボンヌに残りたかったらしいが、生活苦のためしぶしぶ引き受けたらしい。1932年という時期からすぐ分かるように、アメリカは対日戦争を視野に入れていた。ただし、そうした政治的意図とはまた別に、彼の門下からは多くの優秀な東洋学者が巣立っていった。後に駐日大使となるエドウィン・ライシャワーは、その中でも最もエリセーエフから嘱望されていた。
第二次世界大戦で東京の大半は焼け野原となったが、なぜか神保町の古書店街は空襲から免れた。一説によると、文化遺産としての書籍が灰になってしまうのを憂えたエリセーエフがマッカーサーに進言して、神保町一帯を攻撃目標から外してもらったのだという。真偽のほどは分からないが、政治に翻弄された東洋学の歴史の中にこうしたエピソードがあることは救いと言えよう。
| 固定リンク
「人物」カテゴリの記事
- 【七日間ブックカバー・チャレンジ:七日目】 中薗英助『夜よ シンバルをうち鳴らせ』(2020.05.28)
- 石光真人編著『ある明治人の記録──会津人柴五郎の遺書』(2020.04.19)
- 大嶋えり子『ピエ・ノワール列伝──人物で知るフランス領北アフリカ引揚者たちの歴史』(2018.02.22)
- 松村介石について(2018.02.15)
- 佐古忠彦『「米軍が恐れた不屈の男」──瀬長亀次郎の生涯』(2018.02.14)
この記事へのコメントは終了しました。
コメント