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2007年3月17日 (土)

仁多見巌『異境の使徒──英人ジョン・バチラー伝』

仁多見巌(にたみ・いわお)『異境の使徒──英人ジョン・バチラー伝』(北海道新聞社、1991年)

 未知の領域の開拓者には大雑把に言って二つのタイプの動機が働いている。一つはロマン、もう一つは使命感。十九世紀の東洋学の展開において、前者は冒険者気質を持った考古学者・民族学者の探検として表われ、後者はキリスト教の宣教師の活動に見ることができよう。本書が取り上げるジョン・バチラー(John Batchelor、1854~1944年、バチェラーとも表記される)もそうした情熱に駆られた宣教師の一人であった。

 バチラーの名前が特筆されるのはアイヌ研究の先鞭をつけたことにある。彼は『アイヌ・英・和辞典』(初版、北海道庁、1889年。第二版、教文館、1905年。第三版、教文館、1926年。第四版、岩波書店、1938年)の編纂をたゆまず続けたほか、アイヌの人々から直接聞き取った民俗学的な資料も貴重である。こうした彼の蓄積がたたき台となって、その後の金田一京助や知里真志保たちの手によってアイヌ学が大きく展開されていく。

 ただし、バチラーは学業中途のまま北海道へ派遣されたこともあってアカデミックな訓練を受けていない。彼の刊行した辞典には方言が混在していたり、言語学的な検証もないまま踏み込んだ単語・地名解釈に踏み込んだりと不備も多々あったらしく、後に知里は「言霊(ことだま)を虐殺した」とまで激しく論難している。しかし、バチラーがほとんどゼロの地点から出発したことを思えば、彼の業績を全否定してしまうのは酷であろう。

 バチラーはイギリス生まれ。北海道に来たのは1877年のこと。前年の1876年には有名なクラーク博士が札幌農学校に着任している。最初の伝道者であるデニング司祭が函館に来たのが1874年だから、まだ伝道の端緒についたばかりの頃であった。バチラーはいったん勉学のためイギリスに帰国した。ところが、デニングが異端説を唱えてイギリス国教会から離脱するという事件が起こり、人手を埋めるためバチラーは学業半ばにして函館に戻った。

 なお、デニングはその後、日本の文部省に雇われ、晩年は仙台の旧制二高で英語を教えていた。その頃には徹底した宣教師嫌いとなっており、死ぬ間際にもキリスト教の儀式を一切拒んだという。この人物も興味深い。

 若きバチラーは若干つつしみに欠けるものの、ユーモアのセンスがあってアイヌの人々の心を自然につかんだ。とりわけ、アイヌの有力者、ベンリウク首長と仲良しになったおかげで信者数は急速にのびた。

 彼はアイヌ語を使って語りかけるよう心がけた。アイヌ語に訳した讃美歌を歌い、アイヌ語に翻訳した聖書を一緒に読んだ。アイヌの子供たちにローマ字化したアイヌ語を教えることもあった。布教対象の言語を用いるのは当然と言えば当然なのだが、当時は日本政府による同化政策が推し進められていた時期である。政府ばかりでなく日本人信徒の間からも反発が起こった。しかし、バチラーはたゆまず努力を続け(その成果の一つがアイヌ語辞典である)、それはアイヌの人々の間で自分たちの言葉への愛着を思い出させることにつながった。

 その後、彼は伝道師をやめて社会事業に目を向け、教育施設・授産施設の設置・運営に尽力した。1930年代になると日本とイギリスの関係も険しくなり、バチラーも肩身の狭い思いをするようになる。日本政府のプロパガンダに利用されたこともあった。結局、1940年に日本を離れてイギリスの故郷に帰った。すでに87歳であった。戦争中の1944年に死去。

 バチラーはアイヌ語研究の先達として知る人ぞ知る存在だが、そのパーソナリティーにも独特なところがある。手かざし治療や、予言・透視力など少々オカルトめいた傾向があったり、八十歳を過ぎてから亡妻の姪と再婚したりとエピソードもなかなかおもしろい。また、目立ちたがりの“お殿さま”徳川義親との交流も興味深い。

 バチラーには日本語で書かれた『我が記憶をたどりて』という自叙伝があるが、たどたどしくて内容的にも意を尽くしていない感じがするらしい。彼の生涯を知ろうにも類書がないため、その概略がうかがえる点で本書『異郷の使徒』は貴重な伝記である。当時の政治的背景やアイヌ学の観点から掘り下げた分析が欲しいところだが、これからの研究に期待しよう。なお、彼の養女となったバチラー八重子の『若きウタリに』は岩波現代文庫で復刻されている。

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