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2007年3月21日 (水)

北岡伸一『清沢洌──外交評論の運命』

北岡伸一『清沢洌──外交評論の運命』(中公新書、増補版、2004年)

 清沢洌(きよさわ・きよし、1890~1945年)の名前は戦前において筋を通したリベラリストとして馬場恒吾や石橋湛山と共によく知られている。とりわけ知米派として外交評論に健筆をふるった。

 彼は1906年、16歳の時にアメリカに渡った。前年の日露戦争の勝利で日本の世界的な存在感は高まりつつあったが、これは同時に警戒心を呼び起こす結果にもつながっていた。排日運動の高まりを移民の一人として肌身に感じたことから、日米関係というテーマは清沢のライフワークとなった。

 苦学する中、シアトルの邦字新聞『北米時事』に入って文筆で頭角を現わす。1918年、28歳の時に帰国。商社勤務を経て『中外商業日報』(現在の『日本経済新聞』)に入り、ジャーナリストとして活躍。さらに『東京朝日新聞』へ移ったが、「甘粕と大杉の対話」という文章が右翼の逆鱗に触れたため、退社。フリーとなって、『中央公論』や『東洋経済新報』などを舞台に筆一本で立つ。

 しかし、彼のリベラルな論調は軍部から睨まれ、徐々に執筆の場は狭められてしまう。戦争が終る直前の1945年5月、肺炎で世を去った。この戦争を通して表われた日本社会の病理を分析すべく書き溜めていた文章は戦後になって『暗黒日記』というタイトルで刊行された(現在は、岩波文庫、ちくま学芸文庫に収録されている)。

 清沢の反戦論は観念的な理想論に終始するものではない。リアリスティックな外交論に特徴がある。第一次世界大戦後の一時期、ウィルソンの理想主義がもてはやされた。清沢は、アメリカの理念をウィルソンによって代表させるかのような考え方に対し、それはあくまでもアメリカの一面に過ぎない、と言う。国際関係の基礎は経済力にあり、その意味でアメリカを体現しているのはフォードである。経済力の基礎は国民の勤勉な生産力にある。政治を軽んずるわけではないが、それはあくまでも二次的な問題に過ぎないというのが清沢の考え方であった。アメリカ経済の強固な力を知っていたからこそ、彼は日米の協調を説いたのである。アメリカという国を、実体験を通して知悉していたので、過度に理想化することなく、また過度に敵視することもなく、着実にリアルな議論を展開できたところに清沢の持ち味があった。

 十九世紀から現代に至る外交史の流れの中で最も顕著に変化したのは、国民輿論という気まぐれで不安定な要因が最大の決定力を持つようになったことである。満州事変から日米開戦に至る経緯においても、もちろん当時の政治指導層、とりわけ軍部の責任は大きいが、輿論のバックアップがあったからこそ彼らの政策決定が成り立っていたことを見過ごしてはならない。従って、輿論を動かすマスメディアの果たすべき責任は言うまでもなく大きい。近年、対米関係にせよ、対アジア関係にせよ硬軟様々な議論が行なわれているが、その中で清沢のように着実な発言を行なっているのが誰なのか、そこを見極める眼を私自身持っているかどうか、正直なところ心許ない。

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投稿: トゥルバドゥール | 2007年4月13日 (金) 13時44分

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