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2007年3月 3日 (土)

蔵研也『リバタリアン宣言』についてもう一度

 先日、蔵研也『リバタリアン宣言』についてコメントしたところ(http://barbare.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_17ed.html)、そのページだけ急にアクセスが集中し始めた。いぶかしく思って調べたところ、著者がホームページ上で私のコメントを引きながら反論していた(反論と言っても、「普通の人を馬鹿にするから政府が必要になる」とか「そういう人生哲学なのだ」といった感じで論理が破綻していたが)。http://www.gifu.shotoku.ac.jp/kkura/rev_lib_manifesto.htm

 「教養がない」「勉強不足だ」と私が書いたことに過敏に反応しているようで、カタカナ術語やら学者の名前やらを並べ立てて“私は勉強不足ではありませんよ”とアピールしている。この人は本当に何もわかっていないのだなあと驚いた。知識の問題ではなく、“自由”を論じてもそこに奥行きの広がりが見えてこない点で、この人の思考の質そのものにクエスチョンをつけているんだけどね。

 本書では、著者自身が盲導犬協会に寄付をしていることを以て、リバタリアンは決して利己主義者ではない、と言う。少なくともそう受け止められる箇所がある。はっきり言って噴飯ものだ。所詮そんなのは、心の奥底にひそむ“自分は良いことをしている”という傲慢さの表われに過ぎないのに、そうした機微がこの人には分からない。そもそも、そういうことは人には言わずにやるべきものと思うのだが、倫理観の違いなのでおいておこう。

 私が気にかけているのは、“自由”と“秩序”とがいかに両立するのかという論拠が本書では明示されていないことだ。寄付云々は誰が考えたって通用する話ではないだろう。そこで、人の内面に刻み込まれた価値規範を大切にすることで外的強制とは違った内発的な秩序を期待するコミュニタリアニズムや、利己心を前提としつつも自身が不利益を被る可能性への想像的配慮を重視するロールズ的な“公正”論、さらにはオーソドックスな社会契約説モデルに対してのリバタリアンからの批判を期待したわけだ。これは政治哲学の核心と言ってもいいくらいで、紙幅の制限は言い訳にならない。

 本書の著者は、ホームページ上での反論の仕方をみると礼儀正しい。おそらく個人的に付き合う分には良い人なのだと思う。しかし、書籍という形で市場に出てきた場合、著者の人柄は関係ない。内容的なクオリティーだけが勝負である。一般読者は決して馬鹿ではない。リバタリアニズムが思想として日本社会に受け容れられるかどうかとは関係なく、単純に議論の質という点で本書は市場から淘汰されるであろう。

 あとがきに、リバタリアニズムの伝道者になるとか書いてあるが、“自由”という固定観念(非常にアイロニカルな言い回しだが)にとり憑かれたカルトみたいで、ちょっと不気味だ。本書には他にも突っ込み所が満載だが、あまり関わり合いたくないのでこれでやめておく。

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コメント

さて著者がどんな反応を示しているものやら、とここにリンクしたサイトにとんでみました。すると、私へのコメント及びリンクは3/19の時点では削除されていました。よっぽど腹にすえかねたんでしょうね。

投稿: トゥルバドゥール | 2007年3月19日 (月) 10時09分

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