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2007年3月29日 (木)

小玉新次郎『パルミラ──隊商都市』

小玉新次郎『パルミラ──隊商都市』(近藤出版社、1980年)

 パルミラの女王ゼノビアという名前に、なぜか小さい頃からひかれていた。パルミラというのは紀元前後の頃に存在した砂漠の中の隊商都市国家。現在の地図で言うとシリアのちょうどおへそのあたりに位置する。池袋のサンシャインシティにある古代オリエント博物館にここからの出土品が多数コレクションされているはずだが、写真パネルで見た遺跡の風景が印象に強く残っている。茶褐色の遺構と青空とがくっきりとコントラストをなす色合いの妙が“ゼノビア”という音の響きと重なって、なにかファンタジー小説に出てきそうなイメージを胸に焼きつけたのだろうか。

 地中海東岸及びその後背地にいた民族は、メソポタミア、エジプト、ローマといった巨大文明のせめぎ合いに翻弄されながらも、交易を生業としてしたたかに立ち回っていた。アラム人、フェニキア人、ヘブライ人がすぐに思い浮かぶだろうが、パルミラもそうした系譜に連なる。西のローマ帝国、東のペルシア帝国(アルサケス朝パルティア→ササン朝ペルシア)が抗争を繰り広げる中にあって、東西双方の文化を摂取しながら幅広い交易活動で繁栄した。

 当初、パルミラはローマと同盟を組んでいた。ローマ皇帝ヴァレリアヌスがササン朝のシャープール一世によって捕虜となった時、パルミラ王オダイナトはシャープールの軍勢に打撃を与えて一矢報いるなどの活躍を示したためローマからの信頼もあり、シリア方面の軍政を任されていたらしい。

 ところが、オダイナトは謀反で殺された。その後に実権をにぎったのがオダイナトの後妻に入っていたゼノビアである。ヴァレリアヌスの失態からも分かるようにローマ帝国の威光にはかげりが見えていた。ゲルマン民族の侵入が日常化しているばかりでなく、帝国内部も軍人皇帝時代と呼ばれる内紛状況にあった。ササン朝から攻められたとしてもローマの援軍は期待できない。ゼノビアは方針を転換し、パルミラの自立を目指す。

 パルミラの歴史については史料が少ない。ローマ人、ギリシア人の書いた歴史書にゼノビアのことも出てくるが、記載内容にそれぞれ矛盾があり、だいぶ脚色されている可能性もあるという。そこで、発掘された碑文や貨幣がたよりとなる。古代オリエント・ローマ世界では貨幣に王の肖像と王への賛辞が刻み込まれている。貨幣は年代判定では貴重なてがかりとなるので古銭学という分野が考古学では大きな柱となるくらいだ。パルミラからはゼノビアの息子で共同統治という形をとっていたワーバラトの肖像のある貨幣も出土しており、そこには“カエサル”という称号が刻まれていた。あのジュリアス・シーザーの“カエサル”である。カエサルの没後、ローマ帝国においては皇帝の称号となった。ドイツ語の“カイザー”、ロシア語の“ツァー”の語源である。パルミラ出土のこの貨幣には、ローマと対等の立場を主張した、すなわち独立した帝国を自分たちで築き上げるとの意思表示が込められていたのである。

 ローマ帝国も黙ってはいない。軍人皇帝の一人、アウレリアヌス帝は一時的にとはいえローマ帝国の統一に成功したのだが、彼はパルミラに総攻撃をかけた。国力の差は圧倒的である。降伏の勧告を受けたゼノビアは自らをクレオパトラになぞらえて、降伏するくらいなら死んだほうがましだ、と徹底抗戦の姿勢を示した。しかし、ササン朝のシャープールに援軍を求めるべく自ら赴こうとしたところ、ローマ軍に捕まってしまった。

 ゼノビアはどのような最期を遂げたのか。病没したとも、自ら食を断って死んだともいう。あるいは、連行されたローマで手厚い待遇を受けながら余生を送ったという話もあり、実際のところはよく分からない。パルミラは一時ローマの執政官の支配下に置かれたが、反乱を起こしたためアウレリアヌス帝の命により破壊された。

 野心的な女王と砂漠に消えた国。イマジネーションを広げれば小説の題材になりそうで興味が尽きない。

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