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2007年3月

2007年3月30日 (金)

こうの史代『夕凪の街 桜の国』

こうの史代『夕凪の街 桜の国』(双葉社、2004年)

 桜の花がひらきはじめた。見ながら、何とはなしにこの作品を思い出し、本棚から引っ張り出して読み直した。

 原爆投下より十年後、掘っ立て小屋の並ぶ広島の街並みから物語が始まる。被爆後、しばらくは健康そうでも急に倒れ、血を吐いて死んでしまうことがある。姉がそのように死んでいったのを目の当たりした皆実はやがて自分にも同じ運命が降りかかるであろうと薄々感じている。何よりも、被爆直後の惨状が忘れられない。自分は本来生きてちゃいけない人間なんだ、という後ろめたさをずっと引きずっていた。

 世の中は順調に復興しつつある。その中で、原爆の影がいつまでも日常生活に忍び込んでいる不安な日々。そうしたある家族の戦後と現代の姿を描いた作品である。井伏鱒二『黒い雨』でもそうだったが、原爆症を遺伝と結びつけて考える向きもあるため、とりわけ結婚の時に差別的な態度にぶつかってしまうことがある。この作品では被爆者に対する差別は描かれていないが、皆実自身や、弟が結婚しようとしたやはり被爆者である京の消極的な態度、あるいは舞台が現代に変わっても、孫のぜんそくが原爆症によるのではないかと心配する祖母の苛立ちという形で、原爆の影を引きずっている様子が垣間見える。

 私は“反戦平和”というテーマを大々的に打ち出した作品がどうにも好きになれない。もちろん、異議を唱えるつもりはない。ただ、一つの“正義”に転化してしまうことで、本来抱えていたはずの悲しみから主張だけが切り離され、上滑りに独り歩きを始めてしまう。その時の押し付けがましさがたまらなくうさんくさい。

 しかし、この作品にはそうしたイヤな印象がない。とりわけ絵柄のほんわりとしたタッチが好きだ。深刻な話でも、見ていてホッとするようなやわらかさがある。言葉で書くと堅くなってしまいかねないところをしっとりと解きほぐしてくれる。そのおかけで、登場人物それぞれの抱えた悲しみが、声高にではなく、静かに胸にしみこんでくるような感じがした。

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2007年3月29日 (木)

小玉新次郎『パルミラ──隊商都市』

小玉新次郎『パルミラ──隊商都市』(近藤出版社、1980年)

 パルミラの女王ゼノビアという名前に、なぜか小さい頃からひかれていた。パルミラというのは紀元前後の頃に存在した砂漠の中の隊商都市国家。現在の地図で言うとシリアのちょうどおへそのあたりに位置する。池袋のサンシャインシティにある古代オリエント博物館にここからの出土品が多数コレクションされているはずだが、写真パネルで見た遺跡の風景が印象に強く残っている。茶褐色の遺構と青空とがくっきりとコントラストをなす色合いの妙が“ゼノビア”という音の響きと重なって、なにかファンタジー小説に出てきそうなイメージを胸に焼きつけたのだろうか。

 地中海東岸及びその後背地にいた民族は、メソポタミア、エジプト、ローマといった巨大文明のせめぎ合いに翻弄されながらも、交易を生業としてしたたかに立ち回っていた。アラム人、フェニキア人、ヘブライ人がすぐに思い浮かぶだろうが、パルミラもそうした系譜に連なる。西のローマ帝国、東のペルシア帝国(アルサケス朝パルティア→ササン朝ペルシア)が抗争を繰り広げる中にあって、東西双方の文化を摂取しながら幅広い交易活動で繁栄した。

 当初、パルミラはローマと同盟を組んでいた。ローマ皇帝ヴァレリアヌスがササン朝のシャープール一世によって捕虜となった時、パルミラ王オダイナトはシャープールの軍勢に打撃を与えて一矢報いるなどの活躍を示したためローマからの信頼もあり、シリア方面の軍政を任されていたらしい。

 ところが、オダイナトは謀反で殺された。その後に実権をにぎったのがオダイナトの後妻に入っていたゼノビアである。ヴァレリアヌスの失態からも分かるようにローマ帝国の威光にはかげりが見えていた。ゲルマン民族の侵入が日常化しているばかりでなく、帝国内部も軍人皇帝時代と呼ばれる内紛状況にあった。ササン朝から攻められたとしてもローマの援軍は期待できない。ゼノビアは方針を転換し、パルミラの自立を目指す。

 パルミラの歴史については史料が少ない。ローマ人、ギリシア人の書いた歴史書にゼノビアのことも出てくるが、記載内容にそれぞれ矛盾があり、だいぶ脚色されている可能性もあるという。そこで、発掘された碑文や貨幣がたよりとなる。古代オリエント・ローマ世界では貨幣に王の肖像と王への賛辞が刻み込まれている。貨幣は年代判定では貴重なてがかりとなるので古銭学という分野が考古学では大きな柱となるくらいだ。パルミラからはゼノビアの息子で共同統治という形をとっていたワーバラトの肖像のある貨幣も出土しており、そこには“カエサル”という称号が刻まれていた。あのジュリアス・シーザーの“カエサル”である。カエサルの没後、ローマ帝国においては皇帝の称号となった。ドイツ語の“カイザー”、ロシア語の“ツァー”の語源である。パルミラ出土のこの貨幣には、ローマと対等の立場を主張した、すなわち独立した帝国を自分たちで築き上げるとの意思表示が込められていたのである。

 ローマ帝国も黙ってはいない。軍人皇帝の一人、アウレリアヌス帝は一時的にとはいえローマ帝国の統一に成功したのだが、彼はパルミラに総攻撃をかけた。国力の差は圧倒的である。降伏の勧告を受けたゼノビアは自らをクレオパトラになぞらえて、降伏するくらいなら死んだほうがましだ、と徹底抗戦の姿勢を示した。しかし、ササン朝のシャープールに援軍を求めるべく自ら赴こうとしたところ、ローマ軍に捕まってしまった。

 ゼノビアはどのような最期を遂げたのか。病没したとも、自ら食を断って死んだともいう。あるいは、連行されたローマで手厚い待遇を受けながら余生を送ったという話もあり、実際のところはよく分からない。パルミラは一時ローマの執政官の支配下に置かれたが、反乱を起こしたためアウレリアヌス帝の命により破壊された。

 野心的な女王と砂漠に消えた国。イマジネーションを広げれば小説の題材になりそうで興味が尽きない。

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2007年3月27日 (火)

ベネディクト・アンダーソン講演「ナショナリズムのゆくえ」

 ベネディクト・アンダーソンが慶應大学の三田キャンパスで講演を行なった。『想像の共同体』(邦訳・増補版、NTT出版、1997年)はすでに政治学の古典として定評を受けている。一昨年に翻訳の出た『比較の亡霊』(邦訳、作品社、2005年)を途中まで読んでほったらかしていたのを思い出し、講演を聴く前に読破してやろうと思い立ったのだが、約600ページという浩瀚なボリュームのハードルはなかなか高い。こちらは気長に読むことにして、とりあえず聴きに行った。

 タイトルは「ナショナリズムのゆくえ」(“Can Nationalism Still Change?”)。近代におけるナショナリズムの位置づけを歴史的な観点から大きく捉えかえしながら、現在の動向を探るという趣旨である。質的にも構成としてもさすがに充実した内容で、テープ起こしすればそれなりの本になりそうだ。慶應義塾大学出版会から連続講演会の記録がよく出されているから、そういう形で出版されるのだろうな。

 アンダーソンはナショナリズムの展開を三段階に分けて把握している。第一段階は、18~19世紀にかけてアメリカ大陸で湧き上がった独立運動。いわゆるアメリカ独立戦争(独立宣言は1776年)だけでなくラテンアメリカ諸国の動向も世界史的には重要である。いずれも君主政の廃止、共和政の確立を目指した点に特徴を求めていた。

 第二段階が19世紀のヨーロッパ(オスマン帝国支配地域も含む)。この段階では、大国に抑圧されているという自意識を持った人々が自分たちの文化を見つめなおし、ある意味でロマンティシズムとも言うべき高揚感を伴った点に特徴がある。

 第三段階は第二次世界大戦後の反植民地闘争である。植民地支配を受けた人々が、そのまさに支配を受けていた植民地行政の枠組みをもとに人工的にナショナリズムを組み立てたというもがきは『想像の共同体』で指摘されている通りである。

 こうしたナショナリズムの捉え方にはそれほどの新味は感じなかったが、女性解放やマイノリティーの位置づけというテーマとの関わりに目を配りながら話を進めていたのが印象に残った。たとえば、ゲイやレズが社会的に許容されつつあることを取り上げ、これには女性参政権の実現と同じロジックがあると指摘する。つまり、同じアメリカ人なのだから女性にも参政権をあげるべきだ。同様に、ゲイやレズであっても、同じアメリカ人なのだから異なる扱いをしてはいけない、という感じに。

 今回の講演では“ポータブル・ナショナリズム”というキーワードを出してきたのがおもしろい。インターネットなど通信メディアの技術的な向上が、異郷に移住した人々にもたらす影響を次のように論じていた。かつては移住先のメディアを通して情報にアクセスするしかなかったので、その地へ同化するきっかけとなった。ところが、現在ではネットを通して四六時中どこにもアクセスできるようになった。生れた国の情報も容易に入手できるので移住先への同化を促す圧力は弱まっている。その結果として、移住先でのアイデンティティーと生国とのつながりを維持したアイデンティティーとが切り離された形で両立される。どこにも持ち運び可能なナショナル・アイデンティティー、すなわち“ポータブル・ナショナリズム”である。

 アンダーソン自身はこのような事態にあまり好意的ではないような口ぶりだったが、いずれにせよ越境のしやすさとナショナリズムというテーマが彼の現在の主要関心事のように窺われた。『想像の共同体』では出版とナショナリズムとの関係が論じられていたが、メディアの技術的進歩を踏まえてさらに深めた議論をこれから展開しそうで興味深い。

 この講演会は「変わりゆくナショナリズムとアジア」という連続講演会の二日目。慶應義塾創立150周年記念事業の一環らしい。アンダーソンの講演に先立ち朝鮮半島研究の小此木政夫がスピーチしていた。福沢諭吉の脱亜論で言うアジアとは地理的観念ではなくあくまでも古い体制のシンボルとしての意味で、金玉均や兪吉濬たちを援助したことからも分かるように近代化をすすめた上でのアジアの連帯をむしろ彼は考えていた、と福沢擁護の論陣を張ったのもご愛嬌。会場は満遍なく埋まっていた。私がこの大学に通っていた頃には無味乾燥にだだっ広い階段教室だったが、最近改装されたらしく、いかにも大ホールらしい雰囲気になっていたのは少し驚いた。
(2007年3月27日、慶應義塾大学三田キャンパスにて)

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2007年3月26日 (月)

『知られざるジャパノロジスト──ローエルの生涯』

宮崎正明『知られざるジャパノロジスト──ローエルの生涯』(丸善、1995年)

 松本零士が槇原敬之と何やらもめているようだ。歌詞の盗作云々、証拠を出せ云々と泥仕合にはまりこんでいる。松本零士の作品はむかし好きだった。と言っても、世代がだいぶ離れており、『銀河鉄道999』を再放送で観たり、漫画を復刻版で読んだりという形なので、すでに過去の人だと思っていた。なつかしい人がいまだに意気軒高だなあとほほえましく思っている。

 去年、国際天文学連合の申し合わせにより、太陽系を構成する惑星のうち冥王星が準惑星(dwarf planet)に格下げされることになった。スイ・キン・チ・カ・モク・ド・テン・カイ・メイ、と覚えたが、最後のメイがなくなるわけだ。“惑星”の定義を満たさないことが理由らしいが、この報道を聞いた松本零士が「夢がこわれる!」と激怒していた。冥王星は、『宇宙戦艦ヤマト』では前線基地が置かれ、『銀河鉄道999』では太陽系最後のターミナル・ステーションと位置づけられていた。宇宙の無限な広がりへいま旅立つぞ!という感じにシンボリックな意味合いが込められていたのである。

 前ふりが長くなったが、この冥王星の存在を数学的に予言したのが本書の主人公パーシヴァル・ローエル(Percival Lowell、1855~1916年、ローウェルとも表記)である。海王星の軌道計算には数学上の矛盾があることを証明して、さらに別の惑星Xがあるはずだと主張した。結局、自身で確認できないままに世を去ったが、彼の設立したローエル天文台のトンボーが1930年に発見することになる。ローエルはまた、火星の表面に見える細い線は人為的につくられた運河であると考え、火星人の存在を主張したことでも知られている。

 このようにローエルは、天文学をいろいろとお騒がせしたことで名高いが、もう一つ東洋学の研究者としての顔も彼が持っていたことは意外と知られていない。本書はローエルの日本研究に焦点をしぼりながら彼の生涯を描いている。

 ローエルはアメリカ出身で多くの知識人を輩出した裕福な一族の生まれ。大学卒業後、世界漫遊するなか、1876年に来日。腰を落ち着けて日本語を学ぶ。以来、1893年までたびたび日本へやって来て各地を歩き回り、日本に関する著作をいくつかものしている。とりわけ“The soul of the Far East”(1888年、邦訳あり)はラフカディオ・ハーンに日本へのあこがれを呼び覚ますきっかけとなった。それから、伊勢神宮に参拝するなど神道にも関心が強く、“Occult Japan, or, The way of the gods : an esoteric study of Japanese personality and possession”(1894年)を出版した。

 ジャパノロジストとしてこのブログでも以前に紹介したことのあるチェンバレンとも付き合いがあった。それから、やはりこのブログで取り上げたモースはローエル協会で日本についての連続講演を行なっているが、これはパーシヴァルの大叔父にあたる人の遺産をもとに学術普及を目的として設立された団体らしい。

 なかなか気まぐれな人物で、地図を見て形がおもしろいというだけの理由で能登半島へ行き、“Noto : an unexplored corner of Japan  ”(1891年)という本も書いている。本書の著者は金沢出身という縁でローエルに関心を持ったらしい。

 また、ローエルは朝鮮政府の遣米使節団の参事官となった関係でソウルに滞在したこともある。その折の見聞を“Chosön : the land of the morning calm : a sketch of Korea”(1885年)にまとめるなど朝鮮半島情勢にも関心を寄せていた。1886年の甲申事変について彼の書いた論説が本書に訳載されている。

 このローエルという人物もなかなかエピソードが豊富で面白そうなのに、彼を正面から取り上げた類書は本書しか見当たらない。工夫して書けば読み物として十分に興味深い評伝になるはずだと思う。

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2007年3月23日 (金)

「善き人のためのソナタ」

 十年くらい前だったろうか、タイトルはうろ覚えだがNHKスペシャルで放映された「ハンスとヨーナス」(?)という番組がいまだに印象に残っている。旧東ドイツで反体制運動に関わっていた夫妻と家族ぐるみの付き合いをしていた女性。夫妻が当局に連行されて不在の時には、その息子の面倒をみていた。子供からは母親同然に慕われていたほどの仲だ。ところが、東西ドイツ統一後に公開されたシュタージ(旧東ドイツの国家保安省)のファイルを閲覧したところ、実は彼女はシュタージの協力者で、夫妻の行動を詳しく密告していたことが判明した。後悔して涙ぐむ彼女の表情を追うというドキュメンタリーであった。

 裏切りなんてのは世の常で、ことさらシュタージ体制と絡めて言挙げする必要はない。ただ、この体制からほの見えてくる人々の葛藤はどこか異質なものに感じられた。相手への友情、愛情は確かにある。その気持ち自体に嘘偽りはないのだが、それが密告という行為としての裏切りと矛盾したままに溶け込んだ日常生活を彼らは送っていた。そんなことが本当にあり得るのかという驚きがあった。

 この番組を見たのとちょうど同じ頃、西尾幹二『全体主義の呪い』(新潮選書、1993年)を読んだ。この本でもシュタージ体制が大きく取り上げられていたが、反体制活動家の子弟が最もスパイに適しているという指摘が目を引いた。家庭では国家体制の誤りについて親が語るのを聞いている。しかし、学校ではそんなことおくびにも出せない。矛盾した二つの顔を使い分ける習慣が幼い頃から身についているため、偽装工作が自然な感じにできるようになる。そうしたメンタリティーに目をつけてシュタージは積極的にスカウトしたらしい。

 いずれにせよ、内面と建前との矛盾が当たり前なのが旧共産圏の日常生活であった。極めてストレスフルでやり切れなかったことだろう。「善き人のためのソナタ」で、劇作家のドライマン(セバスチャン・コッホ)は東ドイツの体制を告発する文章を西側に公表する。その中で共産圏における自殺率の高さを指摘しているが、それもむべなるかなと思う。

 ドライマンの脚本による劇が上演された夜のパーティーに国家保安大臣も来ていた。主演女優でドライマンの恋人であるクリスタ(マルティナ・ゲデック)の美しさに目をつけた大臣は、ドライマンをマークして反体制活動の証拠を見つけ出せと部下に命令を下す。これを受けて監視活動を担当することになったベテランのヴィースラー大尉(ウルリッヒ・ミューエ)。職務に忠実な“職人肌”の彼だが、ドライマンたちの交わす会話を盗聴しているうちに、彼自身の気持ちも徐々に変化しはじめる。

 厳格な体制の監視網に絡め取られてしまった時、そこから脱け出す自由は“自殺”という方法でしかあり得ないのだろうか? この映画ではいくつかのタイプの“自殺”が描かれている。

 一つ目は、ドライマンが私淑する演出家のイェルスカ。彼は自分の作品が発表できないという絶望の果てに自殺してしまった。ドライマンが彼から受け取った楽譜「善き人のためのソナタ」が邦題の由来である。

 二つ目はクリスタ。身分を隠したヴィースラーから忠告を受けて彼女は大臣の脅しをいったんははねつけた。当然ながら大臣の逆鱗に触れる。彼女は逮捕され、尋問を受けた結果、ドライマンを裏切らざるを得なくなる。ヴィースラーが細工してうまく図ろうとしていたのだが、それを知らない彼女は自ら死を選んだ。メロドラマ的な観点からは、恋人と権力者の狭間に引き裂かれたという古典的なパターンとも言えるだろうが、ここには同時に東ドイツ国民が等しく背負っていた矛盾が込められていることも見て取る必要があろう。

 そして三つ目が、この映画の主人公であるヴィースラー大尉。彼は本来、与えられた任務について価値判断は一切行なわず、自らの感情を押し殺してただひたすら職務に専念するというタイプの典型例である。ハンナ・アレントが“悪の陳腐さ”と表現した意味でのアイヒマン的な人物であったと言える。ところが、シュタージ体制の歯車に徹しなければならないにも拘わらず、彼には“感情”というノイズが発生してしまった。この時点で役人としては自殺に等しい。いつしかドライマンをかばって肝心な所で嘘を交えた報告書を上げるようになる。整合性が保たれていたとしてもそのまま気づかれないほどシュタージはあまくない。クリスタの一件をきっかけとして彼の役人としての人生も終った。

 原題は〟Das Leben der Anderen〝で、直訳すれば「他人の生活」。シュタージの監視者からは“奴らの生活”というニュアンスになるのだろうか。ヴィースラーの立場から深読みするなら、彼自身が思いがけずも見出した“もう一つ別の人生”という意味に取れるかもしれない。

 ドナースマルク監督はまだ33歳の若さだが、シュタージ文書の調査や関係者のインタビューは丹念に行なったという。フィクションではあるが、細部に至るまでのリアリティーには目をみはる。それは映像だけでなく、登場人物の気持ちの揺れまでよく描かれており感心した。寡黙で何を考えているのか分かりづらいヴィースラー大尉、その難しい表情を演じる主演俳優ミューエのしぶい感じも良い。彼自身も旧東ドイツの出身だが、やはり監視対象となっており、二十年にわたって夫人から密告されていたらしい。

【データ】
原題:Das Leben der Anderen
監督・脚本:フロリアン・ヘンケル・フォン・ドナースマルク
2006年/ドイツ/138分
(2007年3月21日、シネマライズにて)

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2007年3月22日 (木)

太田雄三『E・S・モース──〈古き日本〉を伝えた親日科学者』

太田雄三『E・S・モース──〈古き日本〉を伝えた親日科学者』(リブロポート、1988年)

 エドワード・S・モース(Edward Sylvester Morse、1838~1925年)は大森貝塚を発見し、日本の考古学に大きな転回点をもたらしたことで知られている(そのレポートは近藤義郎・佐原真訳『大森貝塚』(岩波文庫、1983年)で読むことができる)。日本史の教科書には必ず登場するので聞いたこともないなんて人はまずいないだろう。本書は、そうした日本考古学の先達としてではなく、日本という国を深く愛した彼の眼差しに焦点を合わせてモースの人物像を描き出そうとしている。

 モースは正規の大学教育を受けていない。ただ、若い頃から貝の採集にとりつかれていたいわば“貝オタク”で、そのコレクションやスケッチの才能を見込まれてハーヴァード大学の博物館で助手として働きはじめた。早くも三十代にして腕足類の分類学については学界でも権威として認められるようになっていた。

 彼はもともと日本に対して格別な関心はなかった。日本近海に生息する貝類の研究のため1877年に私費で日本にやって来たところ、請われてそのまま東京帝国大学で教鞭をとる成り行きとなり、ここから彼と日本との強い絆がはじまる。と言っても、彼が日本に滞在したのはほんのわずかな期間に過ぎない。1879年には契約が終了してアメリカに帰国し、その後も何回か来日したものの、1883年を最後に日本の土を踏むことはなかった。

 モースの来日当初、彼と宣教師との間で進化論をめぐり論争があった。彼が進化論について講演したところ、聴衆の中に宮家や重臣をはじめ当時の政治エリート層がずらりと並んでいたという。彼が来日したのは明治の御一新から間もない頃。キリスト教の禁令が解かれたものの、その広がりに対する警戒心は依然としてくすぶっており、キリスト教の教義を論破するものとして関心が抱かれたらしい。新知識を吸収しようという熱意もあったのだろうが、キリスト教と進化論とのせめぎ合いがこんなところでも顔を出しているのが興味深い。

 本書は、モースの日本紹介者としての側面を描くことを目的としている。彼が集めた日本陶器のコレクションは当時としては世界随一のもので、現在ではボストン美術館に所蔵されている。彼の陶器への薀蓄には動物学者としての形態分類の技法が生かされていたというのが面白い。また、短期間ながらも日本滞在中に見聞したことを丹念に記録しており、『日本その日その日』(1~3、石川欣一訳、平凡社・東洋文庫、1970~1971年)として刊行されている。彼はアカデミックな訓練を受けていなかったからこそ、かえってバイアスなしに柔軟に観察できたのではないかと指摘されている。

 モースは帰国後も日本についてたびたび講演を行なった。しかし、そこで述べられているのは“古き良き日本”というイメージばかり。日清・日露戦争で世界の注目を集め、その近代化の進展に多くの聴衆は関心があったろうが、そうした時事問題には一切触れていない。明治初期に訪れた時の日本の面影が、あたかも時間がとまったように彼の脳裏には固着していた。もともとが動物学者であって時事的テーマに関心がなかったと言ってしまえばそれまでだが、それでも彼が熱く語っていたものは一体何だったのだろうか。“古き日本”の面影に投影していた彼自身の心象風景はどのようなものだったのか、そこをこそ掘り下げて描き出して欲しかった。

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2007年3月21日 (水)

北岡伸一『清沢洌──外交評論の運命』

北岡伸一『清沢洌──外交評論の運命』(中公新書、増補版、2004年)

 清沢洌(きよさわ・きよし、1890~1945年)の名前は戦前において筋を通したリベラリストとして馬場恒吾や石橋湛山と共によく知られている。とりわけ知米派として外交評論に健筆をふるった。

 彼は1906年、16歳の時にアメリカに渡った。前年の日露戦争の勝利で日本の世界的な存在感は高まりつつあったが、これは同時に警戒心を呼び起こす結果にもつながっていた。排日運動の高まりを移民の一人として肌身に感じたことから、日米関係というテーマは清沢のライフワークとなった。

 苦学する中、シアトルの邦字新聞『北米時事』に入って文筆で頭角を現わす。1918年、28歳の時に帰国。商社勤務を経て『中外商業日報』(現在の『日本経済新聞』)に入り、ジャーナリストとして活躍。さらに『東京朝日新聞』へ移ったが、「甘粕と大杉の対話」という文章が右翼の逆鱗に触れたため、退社。フリーとなって、『中央公論』や『東洋経済新報』などを舞台に筆一本で立つ。

 しかし、彼のリベラルな論調は軍部から睨まれ、徐々に執筆の場は狭められてしまう。戦争が終る直前の1945年5月、肺炎で世を去った。この戦争を通して表われた日本社会の病理を分析すべく書き溜めていた文章は戦後になって『暗黒日記』というタイトルで刊行された(現在は、岩波文庫、ちくま学芸文庫に収録されている)。

 清沢の反戦論は観念的な理想論に終始するものではない。リアリスティックな外交論に特徴がある。第一次世界大戦後の一時期、ウィルソンの理想主義がもてはやされた。清沢は、アメリカの理念をウィルソンによって代表させるかのような考え方に対し、それはあくまでもアメリカの一面に過ぎない、と言う。国際関係の基礎は経済力にあり、その意味でアメリカを体現しているのはフォードである。経済力の基礎は国民の勤勉な生産力にある。政治を軽んずるわけではないが、それはあくまでも二次的な問題に過ぎないというのが清沢の考え方であった。アメリカ経済の強固な力を知っていたからこそ、彼は日米の協調を説いたのである。アメリカという国を、実体験を通して知悉していたので、過度に理想化することなく、また過度に敵視することもなく、着実にリアルな議論を展開できたところに清沢の持ち味があった。

 十九世紀から現代に至る外交史の流れの中で最も顕著に変化したのは、国民輿論という気まぐれで不安定な要因が最大の決定力を持つようになったことである。満州事変から日米開戦に至る経緯においても、もちろん当時の政治指導層、とりわけ軍部の責任は大きいが、輿論のバックアップがあったからこそ彼らの政策決定が成り立っていたことを見過ごしてはならない。従って、輿論を動かすマスメディアの果たすべき責任は言うまでもなく大きい。近年、対米関係にせよ、対アジア関係にせよ硬軟様々な議論が行なわれているが、その中で清沢のように着実な発言を行なっているのが誰なのか、そこを見極める眼を私自身持っているかどうか、正直なところ心許ない。

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2007年3月20日 (火)

太田雄三『B・H・チェンバレン』

太田雄三『B・H・チェンバレン──日欧間の往復運動に生きた世界人』(リブロポート、1990年)

 バジル・ホール・チェンバレン(Basil Hall Chamberlain、1850~1935年)は科学的なジャパノロジー(日本学)に先鞭をつけた一人である。イギリスの出身。1873年、22歳の時に“お雇い外国人”として来日。海軍兵学寮で英語を教えていたが、1886年からは東京帝国大学で博言学(言語学)と和文学(国語国文学)の講座を持つようになった。『古事記』を初めて英訳したほか、『日本事物誌』(“Things Japanese”)という日本にまつわる博物誌も刊行している。

 チェンバレンはラフカディオ・ハーンと文通を通して交流が深かったが、ハーンの名声の影に隠れ、その評判は芳しくない。チェンバレンには西洋至上主義の傾向があって日本を見下していたというのが理由らしい。そうした中、手紙などの未公刊資料を渉猟することで、チェンバレンは日本への愛着を持っていた、むしろ西洋至上主義的な価値観への批判者であったと指摘し、彼の再評価を図るのが本書の目的となっている。彼は自らの生い立ちを語ることは少なかったというが、資料的な欠落は、弟であるヒューストン・チェンバレンの自伝を参照して補っている。

 なお、ヒューストンはヴァーグナーの娘と結婚してドイツに帰化。人種論イデオロギーで知られ、彼の主張はナチズムにも影響を与えている。第一次世界大戦に際して兄弟は仲たがいしたらしい。

 丹念に第一次資料にあたって説得力を持たせようとしているので、チェンバレンの伝記的な道のりをたどる上で本書は有益であろう。ただし、描き方が表面的なような気もする。手紙の一節を引きながら、真摯で求道者的な誠実さが彼の持ち味であったというが、本書を通読してもそうした人物像の輪郭がなかなか浮かんでこない。

 それから、時代背景の中での彼の位置づけも明瞭ではない。私はいちいち年表をめくりながら読んでいたのだが、予備知識の乏しい読者に対しては不親切な書き方のようにも思った。文明開化という時代背景、ジャパノロジーの展開、当時の不穏な政治状況と兄弟間の葛藤など、面白そうな題材が色々とあるので、書き方を工夫すれば面白い評伝となったろうに残念である。

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2007年3月19日 (月)

劉岸偉『東洋人の悲哀──周作人と日本』

劉岸偉『東洋人の悲哀──周作人と日本』(河出書房新社、1991年)

 学生の頃、益井康一『漢奸裁判史』(みすず書房、1977年)という本をたまたま図書館で見つけて読んだことがあった。“漢奸”とは漢民族への裏切り者のこと。具体的には日本への協力者を指す。汪兆銘や周仏海らと共に周作人(1885~1967年)の名前もあがっていた。周作人といえば、あの魯迅(本名・周樹人、1881~1936年)の弟で、彼もまた文学者として活躍していたことくらいは知っていた。中国近代文学における第一人者の弟が“漢奸”として指弾され、正史からほぼ抹殺されたに近い扱いを受けていることに漠然と興味を抱き、その頃から頭にひっかかっていた。

 魯迅が東北大学の医学部に留学したものの、まず中国の精神の医者にならねばならないと志を立てたことは有名な話である。兄より四年ほど遅れて日本に留学(1906~1911年)した周作人は初めから文学の勉強を始めた。兄の社会派的な問題意識に対し、弟が内向的で人生論的な希求が目立ったという気質の違いが興味深い。周作人は西洋文学(特にギリシア神話に関心を示したらしい)を勉強したほか、日本の文学者と交流を深めた。

 1911年に中国へ帰国したが、折りしも辛亥革命が勃発。清朝は倒れ、中華民国が成立した。その後、実権を握った袁世凱が独裁体制をしくなど社会的な混乱が続く中、魯迅や陳独秀、胡適らを中心に新たな文学・思想運動が進められた。北京大学の教授となっていた周作人も加わり、『新青年』に西洋や日本の文学の翻訳を掲載するなど旺盛な執筆活動を行なった。とりわけ白樺派の紹介に意を注ぎ、その頃の彼にはヒューマニスティックな理想主義が色濃かったことがうかがわれる。ところが、相も変らず混乱した情勢に幻滅した彼は社会の表舞台に背を向け、内面の世界に沈潜するようになった。

 本書の特徴は、日本文学の動向と双生児的な戸惑いが周作人にも見え隠れするとして、比較文学の観点から彼と永井荷風とに共通点を見出そうとしているところにある。周作人は荷風を愛読していたが、時世に背を向け江戸趣味に韜晦したあたりにひかれたらしい。周作人は、理想への幻滅から、主観的な意味で“真実”として迫ってくる感情の流出に重きを置くようになった。対世間的には隠遁を選び、文学の表現形式としては小説でも評論でもなく、“戯作者”精神をもった随筆に居場所を求めた。“漢奸”という政治論的なバイアスで周作人のイメージが頭にこびりついていたので、こうした形で彼の内面を文化史的なコンテクストに位置づけるという研究は非常に新鮮に感じられた。

 本書はもともと日中比較文化論の博士論文として執筆されたものであるため、このテーマとの関わり以外には周作人の伝記的な詳細に触れられていない。彼の内面的な葛藤と当時の時代背景とをバランスよくまとめた評伝があれば是非とも読んでみたい。

 なお、蛇足ながら。魯迅は1936年にこの世を去っている。歴史にifを言うのは無意味だろうが、彼が長生きをして戦後の中華人民共和国の体制を目の当たりにしていたらどうなったろうか? 魯迅が社会批判で示した鋭いメスさばきが共産党の支配に素直に従ったとは到底思えない。弟とは違った形で彼もまた悲劇を迎えたかもしれない。

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2007年3月18日 (日)

高木大幹『小泉八雲──その日本学』

高木大幹『小泉八雲──その日本学』(リブロポート、1986年)

 本書では、ラフカディオ・ハーンの遺した文章を読み解きながら、彼が日本という国の内奥に見出そうとした精神性、とりわけ宗教観に着目して、その思索の行方を追体験しようと試みられている。

 本書の半分近くの分量が引用で占められており、あまり感心はできない。無論、ハーンの文章を読者にもじかに味わってもらい一緒に追体験しようといざなう配慮なのだろうが、引用しながら著者のつけるコメントがただの感想文のレベルで、ハーンの思索をつっこんで分析しているとはとても言いがたい。ハーンに関してはすぐれた類書もたくさんあるわけで、その中で少々見劣りしてしまうのは残念である。

 ただ、ハーンの作品に「横浜で」というエッセイがあるのを教えてくれたのは私にとって収穫であった。この作品では、ハーンがある老僧と対話をかわすという形式で、ハーンなりに理解しようとした仏教観がつづられている。“空”や“涅槃”という言葉に対し、西洋人が抱く静的な“無”=notingというイメージと、この老僧が説く生き生きと動的な“無”とが対比されており、実に興味深い。

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2007年3月17日 (土)

仁多見巌『異境の使徒──英人ジョン・バチラー伝』

仁多見巌(にたみ・いわお)『異境の使徒──英人ジョン・バチラー伝』(北海道新聞社、1991年)

 未知の領域の開拓者には大雑把に言って二つのタイプの動機が働いている。一つはロマン、もう一つは使命感。十九世紀の東洋学の展開において、前者は冒険者気質を持った考古学者・民族学者の探検として表われ、後者はキリスト教の宣教師の活動に見ることができよう。本書が取り上げるジョン・バチラー(John Batchelor、1854~1944年、バチェラーとも表記される)もそうした情熱に駆られた宣教師の一人であった。

 バチラーの名前が特筆されるのはアイヌ研究の先鞭をつけたことにある。彼は『アイヌ・英・和辞典』(初版、北海道庁、1889年。第二版、教文館、1905年。第三版、教文館、1926年。第四版、岩波書店、1938年)の編纂をたゆまず続けたほか、アイヌの人々から直接聞き取った民俗学的な資料も貴重である。こうした彼の蓄積がたたき台となって、その後の金田一京助や知里真志保たちの手によってアイヌ学が大きく展開されていく。

 ただし、バチラーは学業中途のまま北海道へ派遣されたこともあってアカデミックな訓練を受けていない。彼の刊行した辞典には方言が混在していたり、言語学的な検証もないまま踏み込んだ単語・地名解釈に踏み込んだりと不備も多々あったらしく、後に知里は「言霊(ことだま)を虐殺した」とまで激しく論難している。しかし、バチラーがほとんどゼロの地点から出発したことを思えば、彼の業績を全否定してしまうのは酷であろう。

 バチラーはイギリス生まれ。北海道に来たのは1877年のこと。前年の1876年には有名なクラーク博士が札幌農学校に着任している。最初の伝道者であるデニング司祭が函館に来たのが1874年だから、まだ伝道の端緒についたばかりの頃であった。バチラーはいったん勉学のためイギリスに帰国した。ところが、デニングが異端説を唱えてイギリス国教会から離脱するという事件が起こり、人手を埋めるためバチラーは学業半ばにして函館に戻った。

 なお、デニングはその後、日本の文部省に雇われ、晩年は仙台の旧制二高で英語を教えていた。その頃には徹底した宣教師嫌いとなっており、死ぬ間際にもキリスト教の儀式を一切拒んだという。この人物も興味深い。

 若きバチラーは若干つつしみに欠けるものの、ユーモアのセンスがあってアイヌの人々の心を自然につかんだ。とりわけ、アイヌの有力者、ベンリウク首長と仲良しになったおかげで信者数は急速にのびた。

 彼はアイヌ語を使って語りかけるよう心がけた。アイヌ語に訳した讃美歌を歌い、アイヌ語に翻訳した聖書を一緒に読んだ。アイヌの子供たちにローマ字化したアイヌ語を教えることもあった。布教対象の言語を用いるのは当然と言えば当然なのだが、当時は日本政府による同化政策が推し進められていた時期である。政府ばかりでなく日本人信徒の間からも反発が起こった。しかし、バチラーはたゆまず努力を続け(その成果の一つがアイヌ語辞典である)、それはアイヌの人々の間で自分たちの言葉への愛着を思い出させることにつながった。

 その後、彼は伝道師をやめて社会事業に目を向け、教育施設・授産施設の設置・運営に尽力した。1930年代になると日本とイギリスの関係も険しくなり、バチラーも肩身の狭い思いをするようになる。日本政府のプロパガンダに利用されたこともあった。結局、1940年に日本を離れてイギリスの故郷に帰った。すでに87歳であった。戦争中の1944年に死去。

 バチラーはアイヌ語研究の先達として知る人ぞ知る存在だが、そのパーソナリティーにも独特なところがある。手かざし治療や、予言・透視力など少々オカルトめいた傾向があったり、八十歳を過ぎてから亡妻の姪と再婚したりとエピソードもなかなかおもしろい。また、目立ちたがりの“お殿さま”徳川義親との交流も興味深い。

 バチラーには日本語で書かれた『我が記憶をたどりて』という自叙伝があるが、たどたどしくて内容的にも意を尽くしていない感じがするらしい。彼の生涯を知ろうにも類書がないため、その概略がうかがえる点で本書『異郷の使徒』は貴重な伝記である。当時の政治的背景やアイヌ学の観点から掘り下げた分析が欲しいところだが、これからの研究に期待しよう。なお、彼の養女となったバチラー八重子の『若きウタリに』は岩波現代文庫で復刻されている。

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2007年3月16日 (金)

倉田保雄『エリセーエフの生涯』

倉田保雄『エリセーエフの生涯──日本学の始祖』(中公新書、1977年)

 本格的なジャパノロジーの始祖として位置づけられるセルゲイ・エリセーエフ(1889~1975年)はロシアの裕福な家庭に生れた。彼が日本に関心を抱くようになったきっかけとしては、少年時代、絵画を習っていた先生のもとで広重や北斎を知り、その魅力にとりつかれたこと。若い頃にありがちなロマノフ朝への反体制的な気分が折りしも勃発した日露戦争(1904~05年)に重ねあわされたこと、などの事情があったらしい。

 1908年、外国人としては初めて東京帝国大学に入る。日本名は「英利世夫」。江戸時代の文学に取り組んで松尾芭蕉について卒業論文を書き上げるなどアカデミックな研鑽を積む一方で、なかなか洒脱な人だったらしく、寄席に通って流暢な話術を身に付けたり、金にあかせて派手な芸者遊びをやったりというエピソードも伝わっている。同窓の小宮豊隆の縁で夏目漱石の木曜会にも出入りしていた。

 外国の研究は、研究をしている本人にとってはロマンや好奇心に導かれたものであっても、そこで得られた知見の使い道にはまた別の思惑がかぶさってくる。東洋学研究の草創期をみると必ずと言っていいほど政治の影があちこちにちらつくが、エリセーエフもその例外ではあり得なかった。

 帝国大学を卒業後、母国からお声がかかって帰国、ペトログラード大学で日本語を教えるようになる。時はちょうど第一次世界大戦(1914~18年)の真っ最中。1917年にはロシア革命がおこり、その混乱にエリセーエフも翻弄される。財産を没収された上、襲いかかってきた食糧難に、御曹司育ちの彼は家族を抱えて途方にくれた。言論統制は厳しくなり、義弟が銃殺刑に処せられたりと不安な日々、エリセーエフは逮捕される。連行される際、漱石の作品をカバンの中に詰め込んだという。この時は知己の尽力で何とか釈放されたが、次はいつ逮捕されるか分かったものではない。1921年、フィンランド経由で密航し、パリに亡命した。なお、このあたりの経緯については日本語で手記をつづり、『赤露の人質日記』というタイトルで朝日新聞社から刊行された(その後、中公文庫に収録)。

 1932年、フランス国籍を取得。ちょうどその頃、ハーバード大学で東洋語学部を充実させる計画が進められており、著名な東洋学者ポール・ぺリオの推薦でエリセーエフがその部長に招聘された。彼はアメリカが好きではなくソルボンヌに残りたかったらしいが、生活苦のためしぶしぶ引き受けたらしい。1932年という時期からすぐ分かるように、アメリカは対日戦争を視野に入れていた。ただし、そうした政治的意図とはまた別に、彼の門下からは多くの優秀な東洋学者が巣立っていった。後に駐日大使となるエドウィン・ライシャワーは、その中でも最もエリセーエフから嘱望されていた。

 第二次世界大戦で東京の大半は焼け野原となったが、なぜか神保町の古書店街は空襲から免れた。一説によると、文化遺産としての書籍が灰になってしまうのを憂えたエリセーエフがマッカーサーに進言して、神保町一帯を攻撃目標から外してもらったのだという。真偽のほどは分からないが、政治に翻弄された東洋学の歴史の中にこうしたエピソードがあることは救いと言えよう。

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2007年3月15日 (木)

『鴨川ホルモー』『夜は短し歩けよ乙女』

 売場の書店員による投票で選ばれる本屋大賞が来月に発表される。今年で四回目。過去の受賞作を振り返ってみると、第一回の小川洋子『博士の愛した数式』(新潮社、2003年)は私も好きな作品だった。第二回の恩田陸『夜のピクニック』(新潮社、2004年)は、ストーリーとして嫌いではないはずなのだが、読んだ時に気持ちがのらなかったせいか、読みさしのままほったらかし。第三回、リリー・フランキー『東京タワー~オカンと、ボクと、時々、オトン』(扶桑社、2005年)の評判は高いが、私は未読。

 今回の候補作のうち、万城目学(まきめ・まなぶ)『鴨川ホルモー』(産業編集センター、2006年)と森見登美彦(もりみ・とみひこ)『夜は短し歩けよ乙女』(角川書店、2006年)の二冊を今週読んだ。いずれも、京大出身者による京大を舞台とした物語。主人公のそれこそ妄想が暴走しかねない片思いを軸とした珍妙な筋立てという点でも共通する。また、二人とも冗談を織り交ぜた説明口調の文体だが、テンポがいいのでくどくない。

 『鴨川ホルモー』

 ひょんな行きがかりで京大青竜会なる正体不明のサークルの新歓コンパに顔を出した安倍。入るつもりはさらさらなく、食うだけ食っておさらばしようと思っていたが、居合わせた鼻の美しい女性に一目ぼれ。そのままズルズルと入会してしまう。ここは実は陰陽道のロジックに則って運営されており、他大学にある同様のサークルと式神を使って戦わねばならない。安倍は失恋の絶望感から脱会しようとするのだが…。読みはじめ、何やらグダグダした学園生活ものかと思っていたら、意外な展開でなかなか面白かった。

 『夜は短し歩けよ乙女』

 黒髪が美しくお酒の大好きな世間ばれした少女と、彼女に一目ぼれした青年。二人のモノローグが交互に繰り返されながらストーリーが展開される。稀覯本を求めて我慢比べ大会に参加したり、シュールにドタバタした学園祭でゲリラ演劇に巻き込まれたりと、その奇抜さが面白い。何よりも、清楚な落ち着きと、天真爛漫で独特な世界とをあわせ持った少女が不思議に魅力的である。万人受けする小説ではないので大賞は取れないだろうが、私は結構好きだ。

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2007年3月14日 (水)

近衛文麿『戦後欧米見聞録』

近衛文麿『戦後欧米見聞録』(中公文庫、改版、2006年)

 第一次世界大戦の戦後処理のため開催されたパリ講和会議に出席する全権大使・西園寺公望一行の中に若き日の近衛文麿の姿があった。本書には、講和会議のかたわら欧米各地を見て回りながら彼の見たこと、感じたことが率直に綴られている。人物や風景の描写がなかなか巧みで、意外と読ませるのには少し驚いた。

 彼はヨーロッパ各地の名所旧跡をめぐりながらも、そこかしこに戦禍の傷跡を見出した。ランスの大聖堂を見ても、ここが有数の激戦地であったことに思いを馳せる。ブリュッセルでは国際法の大家・デカン男爵に会い、彼の家族が大戦で惨殺されたことを聞いて言葉をつまらせる。こうした見聞を踏まえて、このたび国際連盟が結成されることは一つの必然であるとまで言う。

 しかし、講和会議の議場に戻って近衛が目の当たりにしたのはもう一つの現実であった。彼はウィルソンの理想主義には賛辞をおくりながらも、やはり力の支配という鉄則は今なお厳然として存在すると指摘する。イギリスは植民地の代表を会議に参加させない。講和会議には二十ヶ国以上が集まりながら、実質的には五大国ですべてが決められ、他の国はその決定に同意する以外には何もできない。

 近衛は講和会議について他にもいくつか的確な見解を示している。プロの外交官の時代から、公開外交の時代に変わっており、何よりもプロパガンダが大きな役割を果たすこと。日本はこれが下手で他国に遅れを取っている。これからの外交官には政治家としての見識も必要になること。日本の利害に直接関わることについては積極的に発言するが、世界全体のレベルでの問題への知識も関心もないため、利己一点張りの国だと言われていることなど、講和会議への分析を簡潔にまとめている。

 また、イギリスに行った折には次のような観察をしている。ロイド=ジョージ首相は戦勝の勢いに乗って議会を解散し、大勝した。しかし、一時の興奮状態で出来上がった議会構成は国民輿論の真意を代表しているわけではない、必ずゆりもどしがあるであろう、冷静沈着なイギリス人らしくないと批判する。また、ジョージ王と民衆との良好で密接な関係を指摘して、こうした立憲君主制を模範とすべきだとも言っている。彼が理想とする議会政治のあり方が窺われて興味深い。

 本書はまず1920年に外交時報社出版部から刊行され、1981年には近衛の娘婿で秘書を務めた細川護貞による解説付きで中公文庫に収められた。2006年の改版時にフランス文学者の鹿島茂が寄せたエッセーがさらに付け加えられている。

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2007年3月13日 (火)

加藤九祚『天の蛇──ニコライ・ネフスキーの生涯』

加藤九祚(かとう・きゅうぞう)『天の蛇──ニコライ・ネフスキーの生涯』(河出書房新社、1976年)

 ニコライ・ネフスキー(1892~1938)の論文が『月と不死』というタイトルで平凡社の東洋文庫に収められていることは知っていたが、私はまだ読んだことがなかった。そのさわりが本書『天の蛇』に引用されている。日本語としてこなれているというレベルをはるかに超えて、詩的に情感が流れるような美しい文章であった。

 ネフスキーはロシアの帝政末期、ペテルブルク大学東洋語学部を卒業し、官費留学生として1915年に日本へ派遣された。柳田國男、折口信夫、金田一京助をはじめ多くの日本人学者たちと交流しながら民俗学の研究を行なう。とりわけ、飲めば若返るといわれる変若水(おちみず)の伝承を取り上げて月の信仰と不老不死とのつながりを論じた「月と不死」が知られている。また、言語学的な関心も強く、アイヌ語や宮古島方言について論文を発表しているほか、中央アジアの失われた言語・西夏語の研究にも精力的に取り組んだ。

 日本にいる間にロシアでは革命がおこり、国情はすっかり変わってしまった。ネフスキーは日本で結婚して子供もいる。だが、西夏語の資料はロシアが最も充実している。西夏語研究への情熱はやみがたく、彼は帰国を決意した。

 母国でネフスキーを待ち受けていた運命は過酷であった。帰国したのは1929年。すでにスターリンによる大粛清の嵐が吹き荒れているばかりでなく、ソ連と日本は緊張関係にあった。日本から帰国したばかりのネフスキーに対する風当たりは厳しい。西夏語研究への情熱だけを拠り所としていたが、1937年、ついに秘密警察がやって来て収容所に送られた。連行されるとき、柳田國男の『遠野物語』をカバンに詰め込んだという。日本からついて来たイソ夫人もやがて逮捕され、二人は離ればなれとなったまま死を迎えることになる。

 著者はシベリア・中央アジア研究で知られる民族学者で、ネフスキーの学問を理解する上で必要な背景も本書にはしっかり書き込まれている。そればかりでなく、異国へのロマンに駆り立てられた東洋学者の生涯、その随所でちらつく不穏な政治の影を描き出す筆致には著者自身の思い入れが強く感じられ、胸を打つ。

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2007年3月 8日 (木)

黒沢清監督「叫」

黒沢清監督「叫」

 しみ出した海水でぬかるんだ東京湾岸の埋立地で、顔を海水につけられて窒息死した死体がみつかった。捜査にあたった吉岡(役所広司)は、自身も知らぬ間にこの事件に関わっているのではないかという疑いに苛まれる。そうした中、同じ手口の殺人事件が相次いで起った。それぞれの犯人はすぐにみつかるのだが、いずれも共通しているのは赤い服を着た正体不明の女(葉月里緒菜)に出会っていたこと。そして、吉岡の前にもまたその赤い服の女が現れていた…。

 薄ぐもりの空の下、廃墟のような建物が建ち並び、ガラクタがあちこちに散乱したウォーターフロントの荒涼とした光景。古びた団地の殺風景な冷たさ。その中の一室、壁のコンクリートがむき出しになった寒々とした部屋。映画のラストでは、人の気配が感じられない道路を、ヨレヨレのコートを羽織った吉岡が険しい表情で歩いていく。

 こうした無機質な冷たさを感じさせる風景の撮り方は、黒沢清の映像世界が持つ魅力の一つだ。今までの黒沢作品では、こういう雰囲気も含めて異世界の物語として受け止める気持ちで観ていた。それが今回、東京という現実の場所を舞台にとっても不思議な説得力を持っているのが非常に興味深い。映像で示された独特な東京論という趣きすら感じさせる。

 ホラー映画としてはそんなにおもしろくはない。葉月里緒菜のクールな美形は、正体不明な恐ろしさを引き立ててはいるものの、その使い方にちょっと吹き出してしまうような違和感があった。ストーリーよりも、黒沢の陰りを感じさせる映像世界を堪能するという観方をすれば十分に観ごたえのある作品だ。

【データ】
監督・脚本:黒沢清
出演:役所広司、葉月里緒菜、伊原剛志、小西真奈美、オダギリ・ジョー、加瀬亮、他。
日本/2006年/106分
(2007年3月6日レイトショー、新宿武蔵野館にて)

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2007年3月 7日 (水)

池田晶子・大峯顕『君自身に還れ』

池田晶子・大峯顕『君自身に還れ──知と信を巡る対話』(本願寺出版社、2007年)

 私は学問としての“哲学”の専門的訓練を受けたことはない。それでも振り返ってみると哲学書は割合と読んできた(語学は苦手なので翻訳を通してだが)。池田さんは、西洋哲学のテキストに向かい合うとき、仏教的な“空”をその背後に見ながら読むとすごく読めるようになる、と本書で言っている(224ページ)が、この感覚は私も何となくわかる。

 私は中学生のとき(それこそ14歳のとき!)、なぜか『荘子』に強く心がとらえられた。それ以来、壁にぶつかってにっちもさっちもいかなくなるたびに、『荘子』を読むことで気持ちのこわばりを解きほぐすということを繰り返してきた。だから自殺もせずに生きてこれたのだと思っている。なぜ老荘思想に魅かれたのか、その理由を言葉で明確に説明することはできない。ただ、それが自分にとってどんな意味を持ったのかを確認したいという気持ちは今に至るもずっと引きずっており、そこから自ずと哲学書を手に取るようになったのだと思う。

 この『荘子』を読みながら漠然と心の奥底に見えていた感覚をテコにして読むと、たとえばスピノザ、ニーチェ、ハイデガーといったあたりも、スッと自然に馴染んだ形で受け止めることができた。彼らの哲学を概念的に整理する能力を私は持ち合わせていない。ただ、その何かを考えつくそうという態度に、他人ではないという身近な親しみは抱くようになった。

 仏教と老荘思想、厳密に言えば思惟構造は違うのだろうが、ただ両方がそれぞれの語法で言わんとしていた感覚(このあたりを共時的に把握しようと努めておられたのが井筒俊彦さんだろう)、それを、西洋哲学対東洋哲学という対比関係で考えるのではなく、そうした感覚の取り方自体が西洋哲学を読み込む時にも必要だということを見過ごしている人は結構多いような気がする。

 大峯さんは、哲学史的な知識はこなれているし、きちんと物事が分かっている人なのだとは思う。ただ、話し方にどこか“学者”臭が抜けきらないところがあって、池田さんとは若干かみ合っていない印象もある。それでも、“空”とか“無”とか、あるいは“慈悲”、“救い”など、言葉として通りが良いのでそのままやり過ごしてしまいそうな曖昧なところで、池田さんが一つ一つ立ち止まって突っ込みをいれる。たとえば、「救いという言葉がどうもうまく入って来ない。むしろ最初から救いなんてものはないじゃないか、そんなものは観念じゃないか、そういう気づき方なんです。なにかに救われたいと思っていること自体がもう救われないことだから、最初から救いなんてない、存在の構造がこうなんだということに気がつけば、何も苦しむ理由なんてなかった。この方が早いでしょう(笑)。」(125ページ)という感じに。大峯さんもそうした突っ込みを丁寧に受け止めながら話を展開させているので、陳腐な流れに陥ってしまうことだけは何とか避けられている。

 言葉というのは、言わんとしていること以外にも様々なニュアンスが付着していて一義的に使うことはできない。どうしたって時間が経つうちに手垢がついてしまい(井筒俊彦さんが“薫習”という仏教用語を使っていたのを思い出す)、“正しい”ことを言ったとしても、受け止める側にはその手垢によって戸惑わされてしまうおそれが常にある。何を言ったとしても、言っては崩し、崩してはまた言い、という右往左往の中から各自が各自なりに何かを感じ取るしかない。そのためにも、手垢のついてしまった言葉の大掃除を誰かがする必要がある。その役割を池田さんが果たしつつあったわけだが、中途にしてお亡くなりなったことは本当に残念でならない。

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2007年3月 3日 (土)

「フラガール」

「フラガール」

 先日、『キネマ旬報』で日本映画ベストワンに選ばれたのを記念した再上映らしい。観そびれていたし、入場料金も千円だったので入った。評判に違わず、なかなか良かった。

 炭鉱からの連想だが、「ブラス!」と「Shall We ダンス?」を足して二で割った感じと言えば大雑把ながらもイメージがつくだろうか? 閉山が間近に迫った福島県の炭鉱街が舞台。町おこしのため、湧き出る温泉を利用してハワイアン・センターを作ることになった。一番の目玉はフラダンスだが、地元の雇用が最優先の条件。そこで、娘たちにフラダンスを習わせるため、東京からプロのダンサーが呼ばれてきた。最初は冷たい視線を浴びせていた炭鉱の人々。しかし、彼女たちが一所懸命に頑張っている姿を見ているうちに徐々に共感していく様子は、コメディータッチということもあり嫌味なく描けている。

 東京から来たダンサー役の松雪泰子は、どこか崩れた訳あり女性が彼女たちとの交流を通してシャキッとしていく姿をよく演じている。何よりも驚いたのは蒼井優だ。福島弁をしゃべる素朴なあどけなさと、ダンスをしている時の凛々しさとをきちんと演じ分けていた。彼女が一人でダンスの練習をしている姿を見て、それまで反対していた母親(富司純子)が考えを変えるシーンがあるのだが、蒼井の踊る凛々しさにはそれだけの説得力があった。

 去年の暮れ、たまたま宮台真司と宮崎哲弥との対談をラジオで聞いていたら、最近の日本映画ファンの間には蒼井優派と宮崎あおい派とがいると宮台が話していた。宮台は蒼井優派らしい。私自身は断然宮崎あおい派だったのだが、「フラガール」を観て少々ゆらいできた(だけど、ユニクロの店舗前の写真にいま宮崎あおいが登場しているが、彼女のうつむき加減にかげりを感じさせる表情はすごくいい)。

【データ】
監督:李相日
出演:松雪泰子、豊川悦司、富司純子、蒼井優、岸部一徳、他
2006年/120分
(2007年3月3日、新宿、シネマスクエアとうきゅうにて)

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「墨攻」

「墨攻」

 酒見賢一の原作、これを基にした漫画版ともに好きだったので楽しみにしていた作品だ。原作が好きな場合、映像化されると色々と不満が出てくることが多いが、この作品では期待を裏切られなかった。

 戦乱の時代、実践的な活動を通じて平和主義(非攻説、兼愛説)を唱えていた技術家集団・墨家。趙の大軍に攻め寄せられた梁王は墨家に救援を求めた。やって来たのは革離(アンディ・ラウ)ただ一人。城内の者たちは半信半疑ながらも、彼の繰り出す知恵と巧みな統率力で、四千人の梁は十万人の趙軍をはね返した。しかし、革離の高まる声望に猜疑心を募らせた梁王は彼に謀反の罪を着せる。梁が内輪もめしている間にも、趙の知将・巷淹中(アン・ソンギ)は再攻の秘策を練っている…。

 火攻めに水攻め、トンネル戦に空中戦と、様々な場面に人民解放軍の協力も得ているようで壮大な戦闘シーンは見応え十分。単に戦闘スペクタクルというだけでなく、戦いの凄惨なあり様を描き出すことで、墨家の思想にも光を当てている。日本・中国・韓国の合作。原作は日本、舞台は中国、主役の革離は香港のスター、アンディ・ラウが務め、対する趙の将軍・巷淹中は韓国の名優、アン・ソンギが冷静沈着な知将というイメージを巧みに表現している。

【データ】
監督:ジェイコブ・C・L・チャン
音楽:川井憲次
2006年/日本・中国・韓国/133分
(2007年3月3日、新宿ジョイシネマにて)

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蔵研也『リバタリアン宣言』についてもう一度

 先日、蔵研也『リバタリアン宣言』についてコメントしたところ(http://barbare.cocolog-nifty.com/blog/2007/02/post_17ed.html)、そのページだけ急にアクセスが集中し始めた。いぶかしく思って調べたところ、著者がホームページ上で私のコメントを引きながら反論していた(反論と言っても、「普通の人を馬鹿にするから政府が必要になる」とか「そういう人生哲学なのだ」といった感じで論理が破綻していたが)。http://www.gifu.shotoku.ac.jp/kkura/rev_lib_manifesto.htm

 「教養がない」「勉強不足だ」と私が書いたことに過敏に反応しているようで、カタカナ術語やら学者の名前やらを並べ立てて“私は勉強不足ではありませんよ”とアピールしている。この人は本当に何もわかっていないのだなあと驚いた。知識の問題ではなく、“自由”を論じてもそこに奥行きの広がりが見えてこない点で、この人の思考の質そのものにクエスチョンをつけているんだけどね。

 本書では、著者自身が盲導犬協会に寄付をしていることを以て、リバタリアンは決して利己主義者ではない、と言う。少なくともそう受け止められる箇所がある。はっきり言って噴飯ものだ。所詮そんなのは、心の奥底にひそむ“自分は良いことをしている”という傲慢さの表われに過ぎないのに、そうした機微がこの人には分からない。そもそも、そういうことは人には言わずにやるべきものと思うのだが、倫理観の違いなのでおいておこう。

 私が気にかけているのは、“自由”と“秩序”とがいかに両立するのかという論拠が本書では明示されていないことだ。寄付云々は誰が考えたって通用する話ではないだろう。そこで、人の内面に刻み込まれた価値規範を大切にすることで外的強制とは違った内発的な秩序を期待するコミュニタリアニズムや、利己心を前提としつつも自身が不利益を被る可能性への想像的配慮を重視するロールズ的な“公正”論、さらにはオーソドックスな社会契約説モデルに対してのリバタリアンからの批判を期待したわけだ。これは政治哲学の核心と言ってもいいくらいで、紙幅の制限は言い訳にならない。

 本書の著者は、ホームページ上での反論の仕方をみると礼儀正しい。おそらく個人的に付き合う分には良い人なのだと思う。しかし、書籍という形で市場に出てきた場合、著者の人柄は関係ない。内容的なクオリティーだけが勝負である。一般読者は決して馬鹿ではない。リバタリアニズムが思想として日本社会に受け容れられるかどうかとは関係なく、単純に議論の質という点で本書は市場から淘汰されるであろう。

 あとがきに、リバタリアニズムの伝道者になるとか書いてあるが、“自由”という固定観念(非常にアイロニカルな言い回しだが)にとり憑かれたカルトみたいで、ちょっと不気味だ。本書には他にも突っ込み所が満載だが、あまり関わり合いたくないのでこれでやめておく。

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