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2007年2月19日 (月)

南直哉『老師と少年』を読みながら

南直哉(みなみ・じきさい)『老師と少年』(新潮社、2006年)

 私はよく、自分の心境を表現しようとして言葉につまり、「自分は自分であって、自分ではない」と矛盾した言い回しを使わざるを得なくなり、相手に妙な顔をされてしまうことがある。このように私が言わんとした感覚は、本書からおのずと浮かび上がっているように思う。

 自分が“生きる”ことの意味を考えることと、いわゆる“私探し”とでは、根本的に発想が異なる。そもそも“私”とは何だろうか? 「刹那滅」的な感覚をもとにすると、“いま、ここにある”何かをかりそめに“私”と名づけているに過ぎない。しかし、巷間よくみられる“私探し”は、実体としての“本当の私”なるものがどこかにあるという前提から離れることができない。どうしたって空回りするしかないわけだ。

 もし、「本当の私」があるとすれば、それは「私」という物語を作らせる病、としか言えない。あるいは、「あなた」や「彼」と共にいる中で経験される、「嘘の私」へのいらだちとしか言えない。「ぼくは本当のぼくではない」と君は言う。人にそう言わせる、この亀裂、この裂け目、この痛みとしか言えない。(三十一頁)

 私は“生きる”ことが基本的に好きではない。青春期には、「自殺」という言葉が四六時中、頭の中にこびりついているような暗い日々を過ごしていた。

 ただ、ある日から、こういうふうに考えるようになった。“生の否定”は、“生きる”ことの意味を否定しているのではない。“生きる”ことに伴う煩わしさから逃避しようとしているに過ぎない。それは裏返すと、“生きる”ことに何がしかの価値を認めている。物事が自分の思う通りにならないことにすねて、世界から裏切られたような逆恨みをしているだけのこと。哲学的なカッコいい悩みのように見えて、実は極めて打算的で薄汚い迷いであった。

 “生の否定”は、同時に“死の否定”でもあらねばならない。つまり、“生きる”ことに意味はないと観ずるならば、反転して死を選ぶのではなく、生も死も共にあるがままに引き受けること。ちょっと独特な弁証法だが、それが最も自然な振舞いであり、実は最もラディカルな深みで“生”を超克することだと思うようになった。生にも死にも意味を認めないならば、ことさら望む必要はないだけでなく、逆に忌避すべき理由もないのだから。

 ゆえに、私は死が向こうから訪れるまで生き続ける。死に限らず、自分に降りかかってくるあらゆる出来事を自分に与えられたものだと思って引き受ける、少なくともそのように心がけている(実際にはなかなか難しいのだが)。

 大切なのは答えではなく、答えがわからなくともやっていけることだと、彼はどこかで感じたのだ。(一一○頁)

 読みながら、ニーチェの『ツァラトゥストラ』を思い出していた。もちろん内容は全く違う。ただ、寓話的な背景の下で対話が行なわれるという点で何となく。

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