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2007年2月 8日 (木)

川本三郎『大正幻影』

川本三郎『大正幻影』(ちくま文庫、1997年)

 近代国家建設という大目標に向かってみんなが真面目に歯を食いしばっていた明治。産業化が進展し、総力戦体制に代表される管理化が社会の隅々にまで行きわたる昭和。その一方で、こうした“表”の顔がキリキリと人をおどかすような二つの時代の狭間としての大正。そこには束の間ながらも、人間の“裏”の顔をおおらかに許容する不思議な魅力が垣間見える。

 本書には、佐藤春夫、谷崎潤一郎、永井荷風、芥川龍之介、江戸川乱歩といった大正期に独特な作品をのこした作家たちが登場する。彼らの作品を読み解きながら、東京という街の持つ風景の記憶をも浮かび上がらせようとしている。

 ところで、大正の東京は様々に両義的な都市である。江戸でもなければ、西洋的近代にもなりきれない宙ぶらりんの街。その意味で東京はすき間が特徴的な都市として描かれるが、とりわけ目が向けられるのは路地である。そこは、社会的にドロップアウトした人びとをも受け入れる。文学者たちはそうした路地のたたずまいに、明治的な“表”の論理からはみだしたアウトサイダーとして、ひっそりとした“私”の世界にとじこもろうとする繊細な“自我”の居場所を見つけようとした。

 しかし、その路地にとって、彼ら文学者はよそ者に過ぎない。感覚としてのびやかにたゆたうべき空間を描こうにも、彼ら自身の近代そのものの産物としか言いようのない意識をもってすると、あたかも蜃気楼のようにはかなく手からすべり落ちてしまう。ここにあるものとして路地の風景を描きながらも、もはや失われつつあるものとして描くしかない。そうしたもどかしさからはどうしても逃れられないし、他ならぬ彼ら自身、はっきりと自覚している。川本は、そのような醒めたロマンティシズムを幅広い教養をもとにウェットに描写している。

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