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2007年2月

2007年2月27日 (火)

増田義郎『コロンブス』

増田義郎『コロンブス』(岩波新書、1979年)

 コロンブスが西に向けての航海に乗り出すに際しては、“新キリスト教徒”と呼ばれた改宗ユダヤ人が、資金援助やスペイン女王イサベルへの口利きなど様々な助力をしたという。私はいわゆる“大航海時代”に宗教的背景があることは世界史の常識として知っていたが、改宗ユダヤ人や神秘主義思想など複雑な問題が伏在していることにまでは考えが及んでいなかった。

 改宗ユダヤ人とは何者か? 初期イスラムに“啓典の民”の存在を許容する寛容さがあったことは一般に意外と知られていないが、もともとイベリア半島にいたユダヤ人はイスラム勢力の支配下でも彼らと共存していた。しかし、北アフリカのベルベル人を中心としたムワッヒド朝は異教徒に対して厳格な態度を取る傾向があり、そうした彼らの台頭と共にユダヤ人はキリスト教圏へと逃げ込んだ。当初はキリスト教徒ともうまくやっていたが、やがてユダヤ人の経済的・社会的成功をねたむ雰囲気が漂い始める。反ユダヤ暴動が勃発するなど不穏な情勢の中、一部のユダヤ人はカトリックに改宗し、“新キリスト教徒”と呼ばれた。

 彼ら“新キリスト教徒”には、当面の便宜のため形式だけ改宗した者と自発的に改宗した者とが混在していた。後者にとっては、ユダヤ教を捨てきっていないのではないかという疑惑の眼差しにさらされるのがつらい。そのため、後者の人々が前者の“偽”キリスト教徒に対してつらく当たるという一種の防衛機制が働いた。中世の異端審問はとりわけスペインで激しかったことは知られているが、“偽”のキリスト教徒をあぶり出そうとするユダヤ人同士の葛藤として深刻であったことは興味深い。この熱心な“新キリスト教徒”は豊かな経済力をバックに国王や大貴族ともつながりを持っており、彼らがコロンブスを支援したのである。

 当時のスペインを含めたヨーロッパ世界の知識人にはエラスムスの思想が影響を与えていた。心の奥底においてこそ神は求められるという神秘主義的傾向が強まり、反転してキリスト教会内での腐敗を批判するモメントとなった。他の地域とは違ってそれがスペインにおいては宗教改革の運動には結びつかず(イスラム勢力との戦いでローマ教会との密接なつながりがあったため)、むしろカトリック再建のために教義の厳格化という方向に進んだことは周知の通りである。

 こうした傾向はコロンブスの手記からも見えてくるらしい。彼の航海には、単なる冒険心という以上に、宗教的使命感が強く作用していた。“神の摂理”の中に自分の事業が組み込まれているという歴史観の下で彼は生きていた。“新大陸”にあるはずの黄金も、イェルサレムの聖墓再建のために使うべきと考えており、そうした点で信仰心篤いイサベル女王と精神的に響きあっていたはずだと著者は指摘する。

 歴史を振り返るにあたっては、どうしても現代の我々自身の持っている歴史観のフィルターを通して観てしまいがちだ。コロンブスという人物を考えるにしても、未知のものへの挑戦が大事だ、ベンチャーだ云々という通俗化した見方がどうしても耳目に入りやすくなる。だが、それはコロンブスという過去の人物に仮託しながら現代の我々の価値観を映し出しているだけで、ことはそんなに単純な話ではない。当時の人々と我々とでは物事に取り組む考え方にも大きな違いがあり得る。そこの機微に思いを致し、逆に現代に生きる自分自身のものの見方を相対化して捉えかえす。そのように頭を解きほぐすきっかけが得られるところに歴史の細部をみつめる醍醐味がある。

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2007年2月26日 (月)

増田義郎『黄金郷に憑かれた人々』

増田義郎『黄金郷に憑かれた人々』(NHKブックス、1989年)

 イマジネーションが人間を駆り立てる力というのは本当におもしろい。それは、当人たちの思惑とは違った結果をもたらし、ひいては世界史の趨勢に大きく影響を与えてしまうことがある。いわゆる“大航海時代”に活躍した冒険者たちにもそうした幻影に翻弄された姿が浮かび上がってくる。

 豊かな富への渇望はエルドラド(黄金郷)のイメージを肥大化させ、果てはソロモン王の財宝を求めて“新大陸”を通り越して太平洋にまで漕ぎ出していった者すらいた(メラネシアにあるソロモン諸島の名前の由来である)。ただし、苦心惨憺の上にたどり着いた町が貧しかったので、逆ギレして住民を虐殺してしまうなどの悲劇が伴った。

 また、イスラム勢力から圧迫されているという自意識からは“プレスター・ジョン”(法王ヨハネ)伝説が生れた。これが、東にモンゴル帝国との通商を求める動きにつながったことはよく知られているが、西の海へと乗り出す動機の一つとしても働いていた。

 いずれにせよ、物質的な意味での欲望、宗教的な使命感、未知なる土地(テラ・インコグニタ)への憧れなどがないまぜになった群像劇には、粗野で目を背けたくなるような残虐さを伴いながらも強い魅力がある。

 ヴァスコ・ダ・ガマが初めてインドに到着した時のこと。彼が見せた贈り物を、現地の領主やムスリム商人たちは貧弱だとせせら笑い、相手にされなかったらしい。そこで、武威を示さねばしめしがつかないと判断し、本国から武装船団が送り込まれ、力ずくで領土を奪い取ることになったという。

 冒険者には一クセも二クセもある輩が多い。現地で指揮官たちが対立して内戦が起こったり、本国への反逆を疑われて追討軍が派遣されたりすることも珍しくなかった。コルテスはそうした追討軍をむしろ自軍に編入してアステカ征服に成功したが、後に本国に召還され、失意の余生を過ごした。インカを征服したピサロは政争に巻き込まれて暗殺され、ピサロの弟もまた反乱を起して処刑された。

 とりわけ、ロペ・デ・アギレという人物に興味を持った。彼は本国に対して不満を持つ者たちをまとめ上げ、本国派遣の査察官を殺した。そして貴族出身の者を王として担ぎ上げ、スペイン王国に対し独立を宣言(1561年)。しかし、疑いを持つ者や聖職者、さらには担ぎ上げたばかりの王までも容赦なく殺すなど恐怖政治をしいたため逃亡者が続出、最後は部下によって射殺されてしまった。狂的な誇大妄想に駆り立てられて未開地に独立王国を作ってしまうというあたり、コッポラの「地獄の黙示録」を髣髴とさせておもしろい。これだけでも小説のネタになりそうだと思う。

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2007年2月23日 (金)

蔵研也『リバタリアン宣言』

蔵研也『リバタリアン宣言』(朝日新書、2007年)

 リバタリアンの議論には思考実験としての刺戟があって興味を持っているのだが、本書はつっこみがあまい。はっきり言って愚書である。教養のない学者が本を書くとこんなブザマな代物が出来上がるという典型的な例だ。

 それから、現代の社会哲学的なコンテクストにおいて“自由”を論じているにも拘わらず、コミュニタリアニズムやロールズの“公正としての正義”論に言及がないのも奇妙なことである。巻末の参考文献一覧を見る限り、著者は勉強不足のように思う。

 アトム的個人を前提とし、その集積体として人間社会を捉え、資源配分の効率の問題として国家の必要・不必要を論じるのが本書の骨格となっている。個人に許されるべき裁量に制限をかけている点で、国家に頼る社会設計は“道徳的”ではないとされる。

 よく分からないのだが、この著者は何を以て個人の“自由”と想定しているのだろうか? たとえば、こういう問題がある。効率の論理に従った経済学的な考え方で人間行動を捉えようとする場合、意思決定に際して参照すべき情報が質・量ともに均質であることを前提とし、その上で競争モデルが構築される。しかし、複雑化した社会においては、①情報へのアクセスのしやすさによって出発点で格差が生じる、②情報量があまりに膨大なので個人では処理しきれない、といった問題が出てくる。従って、個人の意思決定がスムーズに行なわれることはあり得ないという意味で、“自己決定”を保障すべき前提が担保できない。このような“情報の非対称性”という問題に対し、リバタリアンはどのように考えるのだろうか?

 著者の議論の背景には、あらゆる選択肢を検討した上で自分の責任において選んだのだから、結果について引き受けるのは当然だ、という倫理観がある。この考え方自体はまっとうだと思う。しかし、出発点の段階から選択肢が限られているとき、こんな楽観的な“自由”論を展開されたところで、“公正”の観点から果たして説得的と言えるだろうか? 

 ハイエクの思想の理解があまいのではないか? ハイエクの自由主義の背景としては、“知”に溺れやすい人間の傲慢を戒め、社会設計において人間のでっち上げた不自然な理屈が暴走することへの懸念がある。その具体例として、ファシズムや共産主義が俎上にのせられた。しかし、彼の全体主義批判で示された問題意識は、単に制度の問題に限られるものではない。ある特定の理論が“正しい”とみなされ、その理論を社会全体に一貫させようと考え始めた時点で、実は人知の傲慢が表われている。そして、効率モデルに基づく自由“原理”主義もまたその傲慢の罠にはまっていると言える。

 身を切るように切実な試行錯誤を通して勝ち取られた“自由”は何にも代えがたく貴重だ。しかし、本書の著者のように、机上ででっちあげた理屈だけで“自由”を論じているのは、そのこと自体がハイエクの思想からすると戒めるべき傲慢さの表われであろう。こうした逆説が本書の著者に理解できるだろうか?

 “自由”を効率の問題に還元して考えること自体、別の観念の奴隷となっていると言えないだろうか。我々は、我々の欲求を、我々自身の“意志”に基づいて作り出しているのではない。効率的な経済システムで運営される社会にあっては、むしろこのシステムの方が各自の中に欲求を映し出していく。“自由”を求める主体が各自の内面にあってその集合体として社会が組み立てられているのではない。まず、社会があって、その中で“自由”を求める(と錯覚している)我々自身の価値観が規定されている。

 効率モデルの中で個人の“自由”を徹底させたところで、システムから発せられた指令が個人というゲートを通過して再びシステムに還っていく、そうした循環を純化させるだけのことであろう。個人はシステムに吸収されて個性をますます失い、従属化されていく。こうした逆説が本書の著者には理解できるだろうか?

 本書の基本的な主張は、笠井潔『国家民営化論』(光文社・知恵の森文庫、2000年)と変わらない。笠井の場合には、自己責任における自殺も認めるため安楽死を制度化せよという主張からも分かるように、人間の生き死にも含めてどこか突き放してしまう、ニヒルで確信犯的なすごみが魅力であった。これに比べると、本書の著者は平板でつまらない。その人の人生観のにじみ出てこない“自由”論など、そもそも論ずべき価値すらない。また、先に述べたように著者の勉強不足は明らかで、学説整理という点では森村進『自由はどこまで可能か』(講談社現代新書、2001年)の方をおすすめする。

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2007年2月22日 (木)

増田義郎『古代アステカ王国』

増田義郎『古代アステカ王国』(中公新書、1963年)

 スペイン・ポルトガルによって先鞭のつけられた大航海時代の背景としてキリスト教、とりわけカトリックの熱情が動因として強く働いていたことはよく知られている。コロンブスがパロス港を出帆したのと、イベリア半島におけるイスラム勢力最後の拠点グラナダが陥落したのとが同じ1492年の出来事であったのは偶然ではない。

 イスラム勢力から領土を奪い返す、いわゆる失地回復運動(レコンキスタ)の先頭に立ったのがスペイン(カスティリャ及びアラゴン)とポルトガルであった。彼らはローマ教会から精神的支援を受けたため、異教徒に対する戦いは、同時にカトリックへのリゴリスティックなまでの帰依をも意味していた。それは、やはり同時代に勃興しつつあった宗教改革への対抗意識をもたらし(ルターがローマ教会批判の口火をきったのは1517年)、イエズス会の宣教師は大海原へと乗り出す冒険者たちの船に同乗して世界各地へと散って行った。

 以上が、大雑把ながら古代アステカ王国滅亡を取り巻く時代背景である。本書の主人公エルナン・コルテスが宣教師を従軍させて、征服した各地でカトリックを押し付けようとした理由が分かるだろう。

 スペインとアステカ、二つの異文化の接触が、それぞれの宗教的宇宙観のあり方をはからずも浮き彫りにしているのが興味深い。コルテスを含め当時のスペイン人にとって、キリスト教徒と異教徒とを画然と分けるのは当然であった。長年にわたってイスラム勢力と戦ってきた経験を踏まえて異教を信ずる者がこの世にはあり得ると考えていた点で、実は多元的な世界認識があった。その上で異教徒征伐という使命感が成り立っていた。

 ところが、異文化と衝突した経験が全くなかったアステカ人は、あくまでも自分たちの宇宙観に基づいて相手を認識するしかなかった。アステカの神話には、ケツァルコアトルという白い顔をした神がいる。スペイン人がやって来たとき、アステカ王モンテスマは彼らをケツァルコアトルの再来と信じて抵抗をあきらめてしまった。モンテスマの死後、クワウテモク王が徹底抗戦の方針に転じてコルテスを窮地に追い詰めたときにも、スペイン人捕虜を生け贄に捧げる儀式に熱中して追撃の好機を逸したり、占いが外れて戦意を喪失したりということが続く。強権的な軍事帝国であったさしものアステカも、1521年、わずかなスペイン人によってあっという間に崩されてしまった。

 歴史を読む面白さは、登場する人物像の陰影が描きこまれているかどうかで違ってくる。アステカ王モンテスマとクワウテモクのパーソナリティーの違い。奸智に長けたコルテス。そして、登場頻度は少ないが、マリンチェと呼ばれた謎の女性に興味が引かれた。彼女は、コルテス軍に敗れた現地勢力から降伏の印に送られた奴隷の一人。もとは別部族の貴族の出身だったらしい。現地のいくつかの言葉に通じているので、スペイン語も覚えた後に通訳として活躍。アステカ王国への進撃に際しても自ら積極的な役割を果たしたという。後にコルテスの子供を生み、その子は混血児であったにも拘らずコルテスの後継者に指名されたそうだ。慣れ親しんだ土地へ進撃する異邦人に協力した心境には何があったのだろうか? 彼女の数奇な人生もまた一つの物語の題材になりそうだ。そうしたエピソードを拾い集めるのも歴史を読む醍醐味である。

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2007年2月21日 (水)

増田義郎『太平洋──開かれた海の歴史』

増田義郎『太平洋──開かれた海の歴史』(集英社新書、2004年)

 日本地図をパッと見たとき、その地図の外側にどのような広がりを想像するだろうか? 私の不明をさらけ出すと、九州・沖縄方面は中国大陸・朝鮮半島とのつながりが思い出されて、西へとつながるルートのイメージがすぐにわく。これに対して太平洋側については、そこで行き止まりという感じ。

 しかし、サブタイトルにあるように、実は太平洋は四方八方に開けた海である。本書はこうした観点に立ち、有史以前から現代に至るまでに太平洋を舞台に織り成された人類の軌跡を大きく通観する。

 世界史の教科書などには、「1513年、スペイン人のバルボアが太平洋を発見した」という記述がある(なお、前回紹介した増田義郎『インカ帝国探検記』との関わりで言うと、インカ帝国を征服したピサロはかつてバルボアの部下だったことがある)。だが、スペイン人は太平洋を“発見”したのではなく、“発明”したのだ、と著者は言う。

 16世紀のいわゆる大航海時代、スペインは香料の産出するモルッカ諸島への道を探していた。ところが、ポルトガルとの取り決め(トルデシリャス条約)によってインド経由のアジア航路を取ることはできず、大西洋、さらにはアメリカ大陸を越えて西へと進まねばならない。その結果、太平洋を横切り、メキシコからマニラへと至る航路が確定された。太平洋は広い。しかし、スペイン人にはこの航路以外の海域には全くと言っていいほど関心がなかった。それは当時描かれた世界地図にもはっきり示されている。つまり、その時の自分たちの必要や願望によって地理観、ひいては世界観を固定化させてしまう傾向が、太平洋をめぐる問題から見え隠れするのだ。

 大航海時代以降、太平洋における利権を求めて列国は覇権を争った。先行したのはスペイン・ポルトガル、とりわけフェリペ2世の時代は歴史上にも希なほど巨大な帝国を築き上げた。しかし、アルマダ海戦をきっかけに没落。一時オランダが優勢となったが、やがてイギリスとフランスとの抗争が太平洋上でも繰り広げられた。20世紀に入るとイギリス・フランスはやや後退、かわって日本とアメリカが雌雄を決する。

 いずれにせよ、ヨーロッパからやって来た白人は、太平洋の島々に暮らす人びとに大きな災厄をもたらした。伝染病や性病が蔓延し、免疫のなかった原住民の人口は極端なほどに減少した。銃火器の使用を覚えたことで、土着世界内での抗争が激化、ヨーロッパ人はそこにつけこむ。キリスト教が押し付けられて伝統的な文化を失い、強制労働に駆り立てられる。無力感を苛む彼らの心に対しては酒や阿片という習慣も用意された。初めにヨーロッパ人が来航した時には暖かく迎えられたので「高貴な野蛮人」という肯定的なイメージが生れた(このイメージがフランス啓蒙思想のディドロやルソーに影響を与えたことは周知のことだろう)のに対し、その後に乗り込んできたキリスト教の宣教師たちの眼には、原住民の風習は不道徳なものとしか映らない。白人は原住民を蔑視する。原住民は屈辱の中に滅んでいく。こうした悲劇は、著者の別のフィールドであるラテンアメリカの古代文明がたどった道と全く同じであった。

 幅広いタイムスパンで描き出された通史だが、新書サイズなので内容的に濃淡の差が出てしまうのは仕方ない。しかし、航海者の行動と異文化接触を取り上げた箇所では叙述に力が入っている。クックの航海記を散文作品として読み直したり、モーム、スティーヴンソン、メルヴィル、中島敦など文学者の描写を随所で引用しているのも面白い。

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2007年2月20日 (火)

増田義郎『インカ帝国探検記』

増田義郎『インカ帝国探検記──ある文化の滅亡の歴史』(中公文庫BIBLIO、2001年)

 サブタイトルから分かるように、インカ帝国滅亡の過程を、著者自身の現地踏査や膨大なスペイン語原資料の渉猟によって描き出している。本書が初めに刊行されたのは1961年(1975年に中公文庫の一冊となり、2001年には若干の補訂をほどこした上で中公文庫BIBLIOシリーズとして再刊された)。それから半世紀近くもの月日が経っているが、読み物としての面白さは全然色あせていない。

 インカ帝国についての考古学的研究は着実に積み重ねられ、新事実も色々と発見されていることと思う。しかし、歴史学的に事実を把捉することと、読み物として歴史を読むこととでは、おのずと読み手の態度は違う。やはり、登場人物の息づかいがヴィヴィッドに伝わってくるかどうか、本としての魅力はそこにかかってくる。

 スペイン人のコンキスタドーレス(征服者)がやって来たとき、インカ帝国内部もまた大きな転機を迎えていた。エクアドル方面に領土拡張のため陣頭指揮に当たっていたワナイ・カパック帝が急死。嫡男だが文弱のワスカールと、庶子だが軍事的才能に恵まれ先帝から気に入られていたアタワルパとの二派に分かれての抗争が始まった。いったんワスカールが帝位を継いだものの、軍事力を握るアタワルパには強い警戒感を示し、機会を捉えて抑圧策を弄する。アタワルパは反撃に出て、ワスカール派をたたきつぶした。

 ピサロがペルーに上陸したのは、アタワルパが帝位を奪い取った直後の時期であった。ピサロ一行はわずか200名の小勢。予想とは裏腹に高度な文明を誇るインカ帝国の威容に恐れをなす者もいた。対するアタワルパは自信に満ちている。異邦人がやって来ても余裕を崩さず、変なまねをしようものならいつでも殺してやるという態度を取った。

 まともに戦っては勝ち目がない。そこでピサロは作戦を練り、アタワルパを生け捕りにした。インカ帝国のシステムは太陽神崇拝に基づく絶対専制君主制であった。“日の御子”(インカ)の命令には絶対服従という倫理規範が人びとの皮膚感覚にまで染み付いていた。逆に言うと、インカの命令がなければ組織的な反抗を行なうという発想すら出てこない。ワスカール派の残党がアタワルパの悲運に快哉を叫び、この機会を利用しようとしたことも背景にある。いずれにせよ、インカ帝国はあっという間に瓦解してしまった。

 ピサロはしばらくアタワルパを傀儡として統治を行なったが、やがて邪魔となったため処刑してしまう。皇族が後継を名乗って独立政権を形成し、スペイン人が押し付けようとするキリスト教をはねつけながら昔ながらの祭祀を維持した。コンキスタドーレスによる制圧後も三十年以上にもわたってスペイン人を翻弄し続ける(彼らが根拠地としていた“幻の都”が、世界遺産にも登録された有名なマチュピチュである)。とりわけトゥパク・アマルは先住民による抵抗のシンボルとなり、ペルーの日本大使館占拠事件を起した「トゥパク・アマル革命運動」の名前の由来として記憶している人もいるだろう。

 世界史の教科書を読むだけでは、「1533年、ピサロがインカ帝国を滅ぼす」という簡単な記述で終ってしまう。しかし、その背景には複雑なドラマが織り成していることを一つ一つ読み取っていくと、歴史をみる視点に奥行きがでてくる。様々に輻輳する事実連関がタテにヨコに拡がっていくのが見えてきて、面白い。

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2007年2月19日 (月)

南直哉『老師と少年』を読みながら

南直哉(みなみ・じきさい)『老師と少年』(新潮社、2006年)

 私はよく、自分の心境を表現しようとして言葉につまり、「自分は自分であって、自分ではない」と矛盾した言い回しを使わざるを得なくなり、相手に妙な顔をされてしまうことがある。このように私が言わんとした感覚は、本書からおのずと浮かび上がっているように思う。

 自分が“生きる”ことの意味を考えることと、いわゆる“私探し”とでは、根本的に発想が異なる。そもそも“私”とは何だろうか? 「刹那滅」的な感覚をもとにすると、“いま、ここにある”何かをかりそめに“私”と名づけているに過ぎない。しかし、巷間よくみられる“私探し”は、実体としての“本当の私”なるものがどこかにあるという前提から離れることができない。どうしたって空回りするしかないわけだ。

 もし、「本当の私」があるとすれば、それは「私」という物語を作らせる病、としか言えない。あるいは、「あなた」や「彼」と共にいる中で経験される、「嘘の私」へのいらだちとしか言えない。「ぼくは本当のぼくではない」と君は言う。人にそう言わせる、この亀裂、この裂け目、この痛みとしか言えない。(三十一頁)

 私は“生きる”ことが基本的に好きではない。青春期には、「自殺」という言葉が四六時中、頭の中にこびりついているような暗い日々を過ごしていた。

 ただ、ある日から、こういうふうに考えるようになった。“生の否定”は、“生きる”ことの意味を否定しているのではない。“生きる”ことに伴う煩わしさから逃避しようとしているに過ぎない。それは裏返すと、“生きる”ことに何がしかの価値を認めている。物事が自分の思う通りにならないことにすねて、世界から裏切られたような逆恨みをしているだけのこと。哲学的なカッコいい悩みのように見えて、実は極めて打算的で薄汚い迷いであった。

 “生の否定”は、同時に“死の否定”でもあらねばならない。つまり、“生きる”ことに意味はないと観ずるならば、反転して死を選ぶのではなく、生も死も共にあるがままに引き受けること。ちょっと独特な弁証法だが、それが最も自然な振舞いであり、実は最もラディカルな深みで“生”を超克することだと思うようになった。生にも死にも意味を認めないならば、ことさら望む必要はないだけでなく、逆に忌避すべき理由もないのだから。

 ゆえに、私は死が向こうから訪れるまで生き続ける。死に限らず、自分に降りかかってくるあらゆる出来事を自分に与えられたものだと思って引き受ける、少なくともそのように心がけている(実際にはなかなか難しいのだが)。

 大切なのは答えではなく、答えがわからなくともやっていけることだと、彼はどこかで感じたのだ。(一一○頁)

 読みながら、ニーチェの『ツァラトゥストラ』を思い出していた。もちろん内容は全く違う。ただ、寓話的な背景の下で対話が行なわれるという点で何となく。

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2007年2月 8日 (木)

川本三郎『大正幻影』

川本三郎『大正幻影』(ちくま文庫、1997年)

 近代国家建設という大目標に向かってみんなが真面目に歯を食いしばっていた明治。産業化が進展し、総力戦体制に代表される管理化が社会の隅々にまで行きわたる昭和。その一方で、こうした“表”の顔がキリキリと人をおどかすような二つの時代の狭間としての大正。そこには束の間ながらも、人間の“裏”の顔をおおらかに許容する不思議な魅力が垣間見える。

 本書には、佐藤春夫、谷崎潤一郎、永井荷風、芥川龍之介、江戸川乱歩といった大正期に独特な作品をのこした作家たちが登場する。彼らの作品を読み解きながら、東京という街の持つ風景の記憶をも浮かび上がらせようとしている。

 ところで、大正の東京は様々に両義的な都市である。江戸でもなければ、西洋的近代にもなりきれない宙ぶらりんの街。その意味で東京はすき間が特徴的な都市として描かれるが、とりわけ目が向けられるのは路地である。そこは、社会的にドロップアウトした人びとをも受け入れる。文学者たちはそうした路地のたたずまいに、明治的な“表”の論理からはみだしたアウトサイダーとして、ひっそりとした“私”の世界にとじこもろうとする繊細な“自我”の居場所を見つけようとした。

 しかし、その路地にとって、彼ら文学者はよそ者に過ぎない。感覚としてのびやかにたゆたうべき空間を描こうにも、彼ら自身の近代そのものの産物としか言いようのない意識をもってすると、あたかも蜃気楼のようにはかなく手からすべり落ちてしまう。ここにあるものとして路地の風景を描きながらも、もはや失われつつあるものとして描くしかない。そうしたもどかしさからはどうしても逃れられないし、他ならぬ彼ら自身、はっきりと自覚している。川本は、そのような醒めたロマンティシズムを幅広い教養をもとにウェットに描写している。

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2007年2月 6日 (火)

佐野眞一『私の体験的ノンフィクション術』

 このブログを始めるにあたり、一日につき必ず一本は載せるという原則を自分に課した。が、やばくなってきた。忙しかったり病気で倒れたりしたときには、時間のあるときに書き溜めたり、以前につけておいたメモを切り貼りしたりしてしのいできたが、そろそろネタが底をつきそう。いや、取り上げたい本や映画はまだまだたくさんあるのだが、それをつたないながらも一つの文章にまとめるにはやはり時間が足りない。できれば浩瀚で読み応えのある学術書も取り上げたいのだが、そういう本ほど、読むばかりでなく内容を吟味するのに時間がかかるし…。

 なんて言い訳している間にも、どんどん時間が過ぎてゆく。今回は、佐野眞一『私の体験的ノンフィクション術』(集英社新書、2001年)を取り上げる。

 私はノンフィクション作品をよく読むが、佐野眞一は現在活躍しているノンフィクション作家の中でも尊敬する一人だ。タイトルだけをみるとハウツー本のように見えるかもしれないが、そういうのとはちょっと違う。佐野が取材をしながらどんな苦労をしたのか、そしてなぜ書こうという動機が生まれたのか、今までに発表した作品ごとに背景をつづっている。とりわけ、足で書き、人々の胸に飛び込んで自然に話を聞きだし、目前の風景からそこで生活を営む人間の意思を読み取るという点で、民俗学者の宮本常一にノンフィクション作家としてのあるべき姿を見出しているのが興味深かった。

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2007年2月 4日 (日)

「悪夢探偵」

 刃物で自分の体をズダズダに切り裂く自殺者が相次いで発見された。キャリアとしての出世コースを捨てて現場を志願した霧島(hitomi)は若宮(安藤政信)と共に捜査を行なう。手がかりをつかめないでいたとき、自殺者が死ぬ直前に同じ番号に電話していたことに若宮が気付いた。どうやら、その番号にかけた後でうなされる悪夢に事件のカギが潜んでいるらしい。霧島は、異常な感受性を持ち他人の夢に入り込めるという陰気な青年・影沼(松田龍平)に協力を依頼したが…。

 私は塚本晋也の作品では、「鉄男」(1989年)、「東京フィスト」(1995年)、「バレット・バレエ」(1999年)といったあたりを観たことがある。それこそ生理的な意味での痛さがヒリヒリするようなやり場のない苛立ちをぶちまける感じが印象に強い。この「悪夢探偵」でも、サイコ・ホラーの形を取りながら、そうした焦燥感をあおり立てるムードが観る者の胸をかき乱す。とりわけ、映像の激しいブレとつんざくような金属音との組み合わせで、得体の知れぬ恐怖感を演出するあたりはさすがだと思う。ただし、ストーリーにはあまり感心していない。受け止め方は人それぞれだと思うが、「死にたい…」「いや、死ぬのは怖い」というセリフのやり取りはどうも興ざめしてしてしまう。

 安藤政信や大杉漣はそれぞれいい味を出している。何よりも松田龍平の不気味さはとりわけ目を引く。しかし、肝心のhitomiがよろしくない。足はきれいだが、表情もセリフも大根じゃないか。続編が決まっているらしいが、主役がこれではなあ…。

 私が観に行ったとき、最後のあたりで映像がピンボケしていた。てっきりそういう演出なのかと思っていたら、映写時のミスだったらしい。おわびとしてテアトル系列の無料招待券を一枚もらった。言われなければ気付かなかったのに、得した気分。

【データ】
監督・脚本・撮影・編集・出演:塚本晋也
出演:松田龍平、hiotmi、安藤政信、大杉漣、原田芳雄
企画・製作:海獣シアター
日本/2006年/106分

(2007年2月3日、シネセゾン渋谷にて)

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2007年2月 3日 (土)

適当に4冊

◆工藤庸子『宗教vs.国家──フランス〈政教分離〉と市民の誕生』(講談社現代新書、2007年)
 著者はフローベールやコレットなどについて研究のあるフランス文学者。19世紀フランスの小説を読み解きながら、その背景として見える、政教分離原則をめぐって火花をちらした教会と国家とのせめぎ合いを描き出す。理屈だけで骨ばった政治思想史とは視座が異なり、具体的な社会状況を取り上げているので、当時の人びとにとっての切実なインパクトが垣間見えるのが興味深い。

◆黒沢清『黒沢清の映画術』(新潮社、2006年)
 映画術とは大げさなタイトルで、映画作りのノウハウを明かしてくれるわけではない。むしろ、そんなのにはこだわらず映画と取っ組み合ってきた黒沢清の半生が語られる。私は「CURE」(1998年)や「カリスマ」(1999年)を観て以来の黒沢清ファンだが、不可解なシーンがあると、つい観念的なテーマを読み取ろうとしてしまう悪い癖がある。しかし、黒沢は必ずしも何かのテーマ性を持たせて映画を作っているわけではないらしい。ただ、たとえばホラー映画を作るにしても、「幽霊とは何か」「怖さとは何か」と、作りながら考えざるを得ない。つまり、初めにテーマを設定してから作るのではなく、作りながら考える。その分、作り終わった時には、たとえばホラー映画を作っていたなら幽霊について人一倍考えたことは胸をはれる、という言い方をしていた。そういう衒いのないところが黒沢清の良さだろう。

◆重松清『哀愁的東京』(角川文庫、2006年)
 新作が書けなくなった絵本作家。フリーライターとして糊口をしのぎながら、東京で様々に息づく人々との出会いを描いた連作短編集。タイトルにひかれて買ったのだが、重松清の器用な文章は読ませるものの、私はそんなに感じ入るところはなかった。

◆吉村昭『遅れた時計』(中公文庫、1990年)
 先日お亡くなりになった吉村昭の小説がふと読みたくなって本棚から引っ張り出した。吉村の作品では、たとえば『ニコライ遭難』『ポーツマスの旗』をはじめ徹底した取材に基づいて緻密に描き出された歴史小説は実に読み応えがあるが、現代の人間模様をしっとりと描いた短編も捨てがたい。何気ないきっかけで人生の歯車がおかしくなってしまった人の抱える哀しみや葛藤、そこを冷静に、しかし少々の感傷をまじえて描く筆致が私は好きだ。結核でズダズダになった病身を抱え、色々と肩身の狭い思いをした実体験が反映されているのだろう。

(2007年2月2日記)

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2007年2月 2日 (金)

韓国映画雑感②

(承前)

 その後も韓国映画はエンタテイメントとしても良質な作品を次々と生み出している。たとえば、南北首脳会談の陰で暗躍する北のスパイと公安との攻防を描いた「シュリ」(1999年)。軍事境界線をはさんだ南北の兵士の許されざる交流を描いた「JSA」(2000年)。いずれもポリティカル・サスペンスとして秀逸だった(他にも「ブラザーフッド」や「シルミド」なども公開されたが、私は未見)。

 政治問題をテーマに取り上げると、肯定的なスタンスから体制賛美をするか、批判的なスタンスから風刺作品となるか、いずれにしても政治論争に絡め取られ、どうしてもこわばった疲れを観客に残してしまう。ところが、「シュリ」も「JSA」も、政治を題材としながら、ストーリーの面白さを前面に押し出し、政治を後景に追いやることに成功している。政治と娯楽の分離、政教分離ならぬ政樂分離とでも言おうか。それだけ政治的民主主義が韓国社会で成熟していることの証拠である。

 「八月のクリスマス」のように感情の微妙な機微を描いた作品としては、「Interview」(2000年)、「イル・マーレ」(2000年)、「春の日は過ぎゆく」(ホ・ジノ監督、2001年)などが好きだ。毛色が違うが、「友へ──チング」(2001年)という作品も印象に残っている(「イル・マーレ」はアメリカでリメイクされたが未見)。

 その一方で、いわゆる“冬ソナ”ブームの流れに合わせて公開されているベタなラブストーリーは実は好きではない。韓国映画が大きく注目されるに従って私は逆に遠ざかるようになった。とは言いながら、最近にもいくつかの作品は観ている。映画ではないが、NHKで放映されていたドラマ「チャングムの誓い」は毎週欠かさず観ていた。

 「大統領の理髪師」(イム・チャンサン監督、2005年)は、図らずも大統領専属となってしまった街の理髪師(ソン・ガンホ)の物語。朴正熙の人柄、政権内部の抗争、朴政権下における言論弾圧などを、それぞれ等分な距離をおいて、時にはコミカルに描いている。この作品も政治を後景に追いやり、理髪師の視点を通して60年代から現代に至るまでの韓国社会の移り変わりを捉えているのが興味深い(2006年、渋谷・BUNKAMURAル・シネマにて)。

 「サマリア」(キム・ギドク監督、2004年)はいわゆる“援助交際”少女の気持ちの揺れとそれを見つめる父親の葛藤を描く。しかし、社会派的な力みかえりはなく、むしろ叙情的な美しさを湛えているのが印象深い。ヨジンとチェヨンは仲良し二人組みの女子高生。いつかヨーロッパに行こうとヨジンは体を売っていたのだが、警察の手入れから逃げようとして窓から落ち、息絶えてしまった。その瞬間を見てしまったチェヨンはヨジンの出会った男たち一人ひとりに会いに行く。そして、その跡をつけてゆく父親の哀しげな後姿…。サティのジムノペディ、ノクターンが流れ、けだるいメロディーに合わせてヨジンはまどろむ。映像の静かな美しさは、胸に抱えた痛みをうずかせる。私はこの作品になぜか強い思い入れを持った(2005年、恵比寿ガーデンシネマにて)。

 「うつせみ」(キム・ギドク監督、2004年)。自分の気配を消すことのできる青年テソク。彼は定職・住いを持たず、留守宅を物色しながら暮らしている。他人の家で過ごし、そこの住人の気持ちになりきることで様々な人生を体感することに生きがいを感じているかのようだ。ある日、夫から暴力を振るわれている女性ソナと出会う。テソクは、違う人生を渇望する彼女を連れて放浪の生活に出ることになる。家庭はそれぞれに様々な事情、幸不幸を抱えている。現代都市における一戸建ての塀、マンションの壁によって完全にシャットアウトされた生活空間では、他人が抱える家庭的な葛藤を窺い知るきっかけがない。その分だけ、自分にはもっと別の人生があり得たはずだという一方的な思いを強めやすい。そうした気持ちの振幅を寓話的に描いた不思議な作品である(2006年、恵比寿ガーデンシネマにて)。

(2007年1月8日記)

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2007年2月 1日 (木)

韓国映画雑感①

 いわゆる“韓流”ブームがおこるよりも少し前の頃、韓国映画を意識的に観ていた時期がある。2000年前後だったと思うから、6,7年くらい前のことだ。きっかけは「八月のクリスマス」(ホ・ジノ監督、1998年)。就職の面接を受けた帰り、ささくれ立った気分を変えたいと思い、普段は観ないタイプの映画を観ようと映画館に入ったのがこの作品だった。確か新宿のシネマスクエア東急だったと思う。

 写真館を営む若主人(ハン・ソッキュ)は不治の病を抱えており、死期が近い。しかし、それを隠して無理に明るく振舞っている。写真館をよく訪れる交通整理の婦警(シム・ウナ)はそんな事情を知らず、ふざけ合いながら、互いに抱くほのかな想いを言い出すきっかけがつかめないまま。いつも穏やかな笑顔を浮かべているハン・ソッキュが時折見せるつらそうな表情が妙に胸を打った。舞台となっている街並みが一昔前の日本を思わせたことも、自然と感情移入するのに一役買っていたと思う。

 「八月のクリスマス」以前にもいくつか韓国映画を観たことはあった。学生の頃、すでに閉館間際の時期だったが池袋の旧文芸坐へリバイバル上映をたまに観に行っていた。そこで「西便制──風の丘を越えて」(イム・グォンテク監督、1993年)を観た。フランス・ヴェトナム合作の「青いパパイヤの香り」(トラン・アン・ユン監督、1993年)と併映されていたのでアジアの文芸映画という括りだったのだろう。「西便制」は名作の誉れが高いが、私には少々つらかった。韓国の伝統民謡パンソリをうたう旅回りの親娘が主役。パンソリの凋落を憂う父は自分の芸を何とか娘に伝えようと、ついには耳の感覚を研ぎ澄ますため娘の両目をつぶしてしまう。芸への執念と親娘の愛憎が絡み合うじっとりと重苦しい映画だった。

 同じくイム・グォンテク監督の「太白山脈」(1994年)というやはり評判になった作品をビデオで観たこともある。舞台は韓国独立直後の山あいの村。政府軍と共産ゲリラが入れかわり立かわりやって来て村人を脅すという筋立てで、イデオロギーに振り回される悲劇を描いていた。また、「我らの歪んだ英雄」(パク・チョンウォン監督、1992年)というのも観たが、小学生のグループ争いを権力抗争のカリカチュアとして描くというこれもまた極めて政治色の濃厚な作品だった(パク・チョンウォンの作品は他にも「永遠なる帝国」(1995年)という李朝を舞台とした時代劇も観たことがある。いずれも、昔のユーロスペースで韓国映画特集を組んだ時に観たように記憶している)。

 いずれにせよ、濃厚な情念を描いた文芸映画か、さもなくば政治的メッセージの強い社会派映画というイメージを韓国映画に対して私は強く持っていた。どちらも作品としての完成度は高いのだが、どこかスマートさに欠けるというか、観ていて疲れるのだ。そうした印象で凝り固まっていた時に「八月のクリスマス」を観た。感情移入が素直にでき、新鮮な驚きを感じた。このような作品を作っている韓国の現状に眼をみはった。

 飛躍的な経済発展、政治的民主化の進展により韓国が先進国入りしつつあることは当然ながら知っていた。しかし、社会的な成熟にはまだ時間がかかると思っていた。感情がひだをなして輻輳する奥行きを丁寧に描き、そしてそれを鑑賞する観客層が現れるには社会的な安定が不可欠である。そのように韓国社会が質的に大きく変化していることを私は「八月のクリスマス」によって知った。

 こうした傾向は韓国ばかりでなく、中国・台湾も含めて着実に拡がりつつある。たとえば、ウォン・カーウァイの作品などもいい例だろう。大文字の政治として「東アジア共同体」の可能性が議論されているが、映画という形で心情表現における共通の文法が醸成されつつあることは特筆大書されていいと思う。

(つづく)

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