帝人事件──もう一つのクーデター③(戦前期日本の司法と政治⑤)
(承前)
【法律によるクーデター】
帝人の監査役として事件に連座した河合良成(戦後、幣原内閣で農林次官、第一次吉田内閣で厚生大臣を歴任)は当時彼の取調べを担当した検事がもらした次のような発言を書き留めている。
「俺達が天下を革正しなくては何時迄経っても世の中は綺麗にはならぬのだ、腐って居らぬのは大学教授と俺達だけだ、大蔵省も腐って居る、鉄道省も腐って居る、官吏はもう頼りにならぬ、だから俺は早く検事総長になりたい、さうして早く理想を行ひたい」(河合良成『帝人事件──三十年目の証言』講談社、1970年)。
社会を良くするためには君たちに多少の犠牲があったとしてもやむを得ないとその検事は明言したらしい。
この帝人事件をめぐっては司法省出身の大物政治家のそそのかしによって若手検察官が動いた形跡がある。捜査の陣頭指揮を取っていた黒田検事はこの事件の最中に過労のためであろうか病死したのだが、彼の葬儀に右翼団体や憲兵隊司令官から花輪が贈られていたことは、彼がなんらかの勢力とつながっていたことを推測させると複数の当事者が指摘している。
事件当時警視総監だった藤沼庄平は、検察が警視庁刑事部に何の相談もなく動き出したことへの不快感を示しながら、事件の背後には塩野季彦(司法官僚出身の政治家。近衛文麿内閣・平沼騏一郎内閣・林銑十郎内閣で司法大臣)がいたと回想している(藤沼庄平『私の一生』1957年。なお、藤沼は戦後の幣原内閣で三土が内務大臣として復活した際、東京府知事兼警視総監という異例のポジションに抜擢される)。
また、河合は「司法部内における最大の巨峰平沼騏一郎氏を中心として、ときどき会合を催し、帝人問題、あるいはこれに対する方針を論議していた事実は確実にあったと私は信ずる。私は今でも証人を持っている。それは最近(昭和42年ごろ)にいたり、私の一友がそういう会議の席に列していたことを私に告白したのである」(河合、前掲書)と記している。
平沼も塩野も司法省出身の政治家である。とりわけ事件当時枢密院副議長の地位にあった平沼は検事総長、大審院長(現在の最高裁判所長官に相当)、司法大臣と司法関係の最高職をすべて歴任した大物で、首相候補の一人と目されていた。しかし、右翼結社・国本社の主宰者でもあり(塩野も国本社メンバー)、元老・西園寺から「平沼のような神がかりを天皇のお側に近づけてはいけない」と嫌われていたため、枢密院議長や首相への道が阻まれていた。そこで、平沼グループが倒閣運動の一環としてこの事件を画策したという噂がささやかれている。
昭和十二年十二月十六日、東京地方裁判所は帝人事件の被告に対して全員無罪の判決を下した。判決文中には事件そのものが「空中の楼閣」であったと記され、裁判長は「今日の無罪は証拠不十分による無罪ではない。全く犯罪の事実が存在しなかったためである。この点は間違いのないようにされたい」と語った。
すでに政権はいくつも移り変わり第一次近衛文麿内閣が発足していた。時の司法大臣・塩野季彦は控訴しないとの談話を発表せざるを得なかった。衆議院では弁護士の齋藤隆夫(民政党)の発議により帝人事件の人権蹂躙を批判する決議が上程され、同じく弁護士の片山哲(社会大衆党)の賛成討論を経て可決された。
この間、昭和十一年二月二十六日、高橋是清・蔵相や齋藤実・前首相らが陸軍の青年将校によって射殺された。首相官邸も襲撃され、岡田首相は人違いによって一命を取り留めた。いわゆる二・二六事件である。
以上の経緯を時系列的に整理すると、まず昭和七年の五・一五事件で犬養毅が殺され、政党政治は事実上息の根を止められた。次の齋藤内閣は昭和九年の帝人事件で倒れた。続く岡田内閣も昭和十一年の二・二六事件によって倒されてしまう。事件後に成立した廣田弘毅内閣(昭和11~12年)において軍部大臣現役武官制が復活したほか、馬場鍈一・大蔵大臣により軍事費重視の予算が組まれることになる。また、帝人事件の翌昭和十年には天皇機関説問題で美濃部達吉が貴族院議員の辞職に追い込まれている。
帝人事件の捜査にあたった若手検察官たちの発言をみると、社会改革のためには手段を選ばないという点で陸海軍の青年将校たちと共通の論理が見られる。つまり、五・一五事件が海軍の青年将校によって、二・二六事件が陸軍の青年将校によって銃剣を以て行われたクーデターであったとするなら、帝人事件は検察内部の“青年将校”が法律を以て行ったもう一つのクーデターであったと言うことができる。
三土は裁判で次のような弁論を行なっている。
「若し本件の如くに何等の根拠なきに拘らず、捜査権を悪用し、人間の弱点を利用し、事件を作為的に捏造して政変までも引起すことが許されるならば、内閣の運命も二、三の下級検事の術策に左右せられることになりますが、国家の為め是程危険な事がありませうか。実に司法権の濫用は「ピストル」よりも、銃剣よりも、爆弾よりも、恐しいのであります。現に此一事件に依って司法「ファッショ」の起雲を満天下に低迷せしめたのであります」(野中、前掲書)
【補足】
帝人事件については意外なほどに研究が少なく、真相はいまだに解明されていない。
事件の概要を知るのに役立つものとしては、東京日日新聞政治部記者の野中盛隆『帝人疑獄』(千倉書房、1935年)、事件の当事者であった河合良成『帝人事件──三十年目の証言』(講談社、1970年)あたりが挙げられる。ただし、前者は事件が結審する前に書かれたので内容的に不十分である。後者は当事者の記したものなので資料的には貴重だが、第三者の視点を経たものではない。事件の弁護にあたった今村力三郎の訴訟記録も重要な資料だが、当然ながら一般読者には向かない。
今月刊行されたばかりの保阪正康『検証・昭和史の焦点』(文藝春秋、2006年)に「帝人事件は検察ファッショを促したか」が収められている。これが現時点では一番読みやすくまとまったものだろう。
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