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2007年1月 6日 (土)

バウマン『リキッド・モダニティ』

 ジークムント・バウマン(森田典正訳)『リキッド・モダニティ──液状化する社会』(大月書店、2001年)を取り上げます。今回はお勉強メモです。今、病み上がりで頭が回らず、うまくまとめられませんでした。取りあえず掲載しますが、書き直すことはないでしょう。著者のバウマンは1925年、ポーランド生まれ。現在はイギリスで活躍している著名な社会学者で、リーズ大学・ワルシャワ大学名誉教授です(2007年1月2日記)。

 我々を取り巻く“近代”と呼ばれる時代状況。これを端的に言い表すのはなかなか難しいが、伝統に縛られた共同体的なつながりが解かれ、個人を単位とした社会へ移行した点が大きな特徴として挙げられるだろう。

 ただし、一言で“近代”と言っても、近年は様相が大きく変わってきた。一定の共通枠組みによる見通しの中で、規範的にも物的にも個人をまとめあげて動員してきた従来の時代を「ハードウェア」型近代とするなら、これに対して現在進行しつつある状況を本書ではLiquid Modernity=「液状化した近代」と呼ぶ。

 「われわれの生きる時代は、同じ近代でも個人、私中心の近代であり、範型と形式をつくる重い任務は個人の双肩にかかり、つくるのに失敗した場合も、責任は個人だけに帰せられる。そして、いま、相互依存の範型と形式が溶解される順番をむかえている」(本書11ページ)。横の関係が全く切り離されてバラバラとなった中、自分が何をするのかという目標も、そのために用意する手段も参照すべき模範もなく、そもそも目標を立てる上での主体となるアイデンティティ形成も含めてそうした一切を自己の責任においてなさねばならないという徹底した個人主義の時代。いわば出発点も到達点もすべてが移ろう中で個人が戸惑うイメージがこの「液状化した近代」という言葉には込められている。

「それはちょうど椅子取りゲームの椅子のようなもので、形もスタイルもまるで違い、数も場所も刻々と変化する。人間は椅子取りゲームの椅子のような場所を求めて、つねに右往左往しつづけ、そのあげく、どんな「結果」も、安息もえられず、鎧をとき、緊張を和らげ、憂いを忘れることのできる最終目的地に「到達」したという充足感ももてない。(すでに、ひさしく)解放された個人が進みつつある道の果てにも、新しい居場所はみえてこない。」(本書、44ページ)

 我々は一定の見通しがあって、はじめて自身の目標を設定し、そこへ向けて邁進できる。しかし、あらゆる物事が変転する混乱の中では立ちすくむしかない。

 こうした個人化の進展は自己責任原則の徹底をも意味する。不幸は他ならぬ自分自身のせいである、挫折したのは自分の怠け癖のせいである、努力する以外に救済手段はない、というわけである。望もうが望むまいが関係なく時代の宿命的な成り行きにあり、そんな厳しい個人主義ゲームに参加したくないと言っても、退出の自由は許されない。

 もちろん、一つの精神論としては間違っているとは言えない。ただ、ここで問題なのは、あらゆる物事について自己決定できるという前提の下での形式的なイメージとしての“個人”と、現実の人間が持つ自己実現能力との間には大きなギャップがあることだ。本人の努力ではどうにもならない問題までもが自己責任という名目の下で断罪されてしまう。

「…病気にかかると、そもそも、健康管理指導を守らなかったからだと逆に責められる。また、失業者が就職できないのは、さしづめ、技量の習得を怠ったか、仕事を真剣に探していないか、たんに、仕事がきらいだからだと勘ぐられる。個人が仕事や自分の将来に自信がもてないのも、友人をつくることや他人を説得することが苦手だからか、自己主張の術と、相手に好印象をあたえる能力を習得していないからだときめつけられる。とにかく、だれもがこうした見方の真実性を疑わないのは、これが真実だと信じさせられているからだろう。ベックがもの悲しいいい方で、いみじくも語ったように、「組織の矛盾は人間の生き方によって伝記的に解決」されるのだ。社会は危険と矛盾を生産しつづける一方、それらへの対処は個人に押しつける。」(本書、45ページ)

 こうした傾向の中、パブリックな感覚は失われつつある。個人の自己責任という教えが徹底されると、自分の目の前のできる能力の範囲内のことだけしか考えなくなり、政治や社会の問題についてまでは目を向けない。また、政治的な目標のために連帯することもなくなった。かつては社会的な矛盾がしわ寄せされた人びとが手を組んだ。いまや失敗はすべて本人のせいなのだから手を組む必然性はない。

 現代社会における特異な共同体のあり方を「クローク型共同体」としてバウマンは紹介する。

「劇場にでかける人間は、複層のそれなりの決まりにしたがって、普段着を異なる服を着る。こうした行動は劇場にでかけること自体を、「特別な出来事」とするのと同時に、劇場にあつまる観客を、劇場の外にいるときとは比べものにはならない均一な集団に変える。昼間の関心や趣味がどんなに違っていても、人びとは夜の公演になると同じ場所にあつまってくる。観客席に座るまえ、人々は外で着ていたコートやアノラックを劇場のクロークにあずける。公演中、すべての目、全員の注目は部隊にそそがれる。喜びに悲しみ、笑いに沈黙、拍手喝采、賞賛の叫び、驚きに息をのむ状況は、まるで台本に書きこまれ、指示されているかのように一斉におこる。しかし、最後の幕が降りると、観客たちはクロークから預けたものをうけとり、コートを着てそれぞれの日常の役割にもどり、数分後には、数時間まえにでてきた町の雑踏のなかへ消えていくのである。
 クローク型共同体はばらばらな個人の、共通の興味に訴える演目を上演し、一定期間、かれらの関心をつなぎとめておかなければならない。その間、人々の他の関心は一時的に棚上げされ、後回しにされ、あるいは、完全に放棄される。劇場的見世物はつかのまのクローク型共同体を成立させるが、個々の関心を融合し、混ぜあわせ、「集団的関心」に統一するようなことはない。関心はただ集められただけで、新しい特性を獲得することもなく、演目がつくりだす共通の幻想は、公演の興奮がさめると雲散霧消する。」(本書、257-258ページ)

 徹底した個人化の流れの中にあって、現実の人間はその矛盾に苛まれている。共同性を回復しようというかりそめの努力も、所詮はガス抜きに過ぎない。適宜なガス抜きを繰返すことで、個人化の傾向をむしろ永続化させる。

 バウマンの議論からは、ではどうすればいいのかという具体的な処方箋は見えてこない。しかし、様々なスタンスに立つ社会学者の議論を丁寧に消化した上で、以上に紹介したものに限らず現代社会を取り巻くおびただしくも豊かな論点が盛り込まれているので知的刺戟に満ちた一冊だと言える。

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