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2007年1月27日 (土)

進藤榮一『東アジア共同体をどうつくるか』

進藤榮一『東アジア共同体をどうつくるか』(ちくま新書、2007年)

 本格的な地域統合に途をつけた先駆例としては、現在のところEUしか見当たらない。本書は、「歴史政策学」というスタンスに立ち、EU統合の過程から地域統合に必要な条件をいくつか類推的に引き出す。それを議論の叩き台として踏まえた上で、東アジア独自の地域統合の道筋を模索する。

 EUの場合、かつてのソ連共産主義という脅威への対処から同盟関係が生まれ、同時に第二次世界大戦の反省から、域内での紛争を物理的にも防止しようという意図も含意されて経済統合が進められた。著者によると、東アジア共同体の場合には、共通の脅威としてアメリカ一極支配による「カジノ資本主義」が想定されるという。その上で、東アジア統合の可能性について、膨大なデータや先行研究の成果を渉猟しながら緻密な議論を行なっている。煩瑣な論点にまであちこち飛び回り、新書という体裁にしては読みづらい本ではあるが、東アジア共同体の成立根拠について一定の枠組みを示している点では有益であろう。

 しかし、これほど能弁に語りながらも、説得力に欠けるという印象は最後まで拭えなかった。

 第一に、安全保障上の枠組みを考える上で議論を濁している部分がある。中国脅威論に対しては一定の紙幅を割いてきちんと根拠を示した反論を行なっており、傾聴に値する。しかし、肝心の北朝鮮について軽くスルーしてしまうのは問題だろう。食糧危機による負の悪循環には触れているものの、核問題についての著者の見解が不明瞭で、北朝鮮を東アジア共同体に取り込めるかどうか、その可能性については全く論じていない。

 第二に、東アジア共同体全体でまとまったアイデンティティーのあり方について考える上で、多様な文化的差異の中でどのように共通項を築き上げるかという問題を避けて通ることはできない。しかし、政治・経済的な枠組みについてはデータをいちいち挙げて緻密な議論を展開してきたのとは打って変わって、こちらについては理念先行、抽象的な話でお茶を濁すだけ。惨めなほどに内容が薄い。

 都市中間層のライフスタイルが脱国境的に拡がっていることを指摘して地域共同体の一つの基盤になるだろうと言う。ライフスタイルの越境的な均質化は確かだろうが、それは東アジアという地域に限るものではない。欧米も含めての拡がりの中で、都市中間層は、自国内の貧困層よりも、他国の中間層の方に親近感を持つことがつとに指摘されている。これはむしろ域内で階層的な断絶を生み出すことになり、東アジア共同体全体としてのアイデンティティー形成を阻害する要因になるのではないか?

 「儒教文化」を東アジア共通の文化的基層として取り上げ、フランシス・フクヤマの言う「社会的信頼」(Trust)やロバート・パットナムの「社会関係資本」(Social Capital)と結びつけて論じている。社会関係資本が重要であることは全く同感だ。しかし、経済的効率化があらゆる局面で進展している中、「儒教文化」も含めた伝統的価値意識は崩され、個人同士を結びつける紐帯がなくなりつつある、従って社会関係資本が機能しなくなりつつあることがむしろ現代の問題なのではないか? パットナム『孤独なボウリング』(邦訳、柏書房、2006年)の問題意識は社会関係資本の衰退に向けられており、それは他ならぬ日本にとっても切実な問題ではないのか? そもそも「儒教文化」などという括り方自体、大雑把で説得力ゼロ。社会的・文化的背景をステレオタイプで決め付けてしまう安直な物言いには本当にイライラする。

(2007年1月23日記)

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コメント

東アジア共同体など、所詮無理ではないか?

投稿: みつぼ | 2007年1月29日 (月) 08時57分

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