(承前)
【内戦、旱魃、国連の介入】
1991年、有力な武装勢力の一つであるアイディド将軍派が首都モガディシオに攻め込み、バーレは海外に亡命した。武装勢力各派は集まって暫定政権を樹立することに合意。暫定大統領には実業家出身のアリ・マハディが就任した。
ところが、バーレ政権を倒したのは他ならぬ俺だという自負心の強いアイディドがおさまらない。彼は自ら大統領を名乗り、マハディ派に攻撃をしかけた。バーレ派の盛り返し、北部のソマリランドの独立宣言などの事態が重なって、後継政権の枠組みが定まらないまま内戦に突入、国家としての機能は事実上消滅した。
こうした中、ソマリアを深刻な旱魃が襲うという不運が重なった。餓死者が続出し、最悪な時期には一日推定3,000人が亡くなったという。さらに悲しいことに、飢饉→食料品には希少価値→売りさばいて一部の者がぼろ儲けという利権構造が生れたとも言われる。
国連は人道援助の方法を模索した。しかし、武装勢力が割拠する無政府状態では援助団体の安全すら確保できない。1992年、国連安保理はソマリアの各武装勢力に対し停戦勧告を行ない、PKOを組織した。これは停戦監視と人道援助を目的とした従来型のPKOで第一次国連ソマリア活動(UN Operation in Somalia Ⅰ=UNOSOMⅠ)と呼ばれる。だが、この場合には当事者全てからの合意を得るのが前提となるのだが、アイディド派などいくつかの武装勢力は国連部隊の受け入れに難色を示し、所定の目的を達することはできなかった。
しかし、手をこまねいている間にも飢餓で多くの人びとが倒れつつある。早急に手段を講じなければならない。1992年12月の国連安保理決議を受けてアメリカを中心に統一タスクフォース(Unified Task Force=UNITAF)が結成された。UNITAFは援助活動を円滑に進めるためにソマリア国内の港湾・空港など各拠点を確保。アメリカ中心の圧倒的な軍事力を目の当たりにしてアイディド派は様子見を決め込んだ。この時の活動により、一日推定3,000人亡くなっていたところが1,000人にまで飢餓状態を緩和させることができた。
【国連活動の質的転換】
勿論、これだけでは抜本的な解決にはならない。UNITAFが撤退すれば、元の状態に戻ってしまうことは明らかだ。ガリ国連事務総長は援助ルートの確保ばかりでなく、そもそもソマリアの国家再建のためにも各勢力の武装解除にまで踏み込むべきだと主張し、アメリカの同意も取り付けた。その結果、翌1993年に開始されたのが第二次国連ソマリア活動(UN Operation in Somalia Ⅱ=UNOSOMⅡ)である。紛争当事者の合意を得て停戦監視に専念するという従来の方針から、紛争の積極的な解決を目指す方向へと任務の質を大きく拡大した点にUNOSOMⅡの特徴がある。
しかし、今回はアイディド派が最初から妨害の意図を明らかにしていた。UNOSOMⅡのメンバーであるパキスタン軍の兵士がアイディド派の襲撃を受け、24名が殺害されるという事件が起こった。UNOSOMⅡは反撃に出て、アイディド派のラジオ局や武器保管所を破壊。UNOSOMⅡとアイディド派との全面戦争となり、その過程で一般市民にも犠牲者が出る事態に立ち至った。
同年10月3日、アイディド将軍の身柄を拘束するためアメリカ陸軍のレインジャー部隊が動員された。しかし、情報不足からアイディド派の幹部数人を逮捕するにとどまり、肝心のアイディドは取り逃がした。そればかりか、アメリカ軍が投入した戦闘ヘリ・ブラックホーク2機が撃墜され、18名の死者を出すという深刻な失敗であった(この事件の過程はリドリー・スコット監督「ブラックホーク・ダウン」(2002年)が詳細に描写している)。
アメリカ兵の死体がモガディシオ市内で引きずりまわされる映像がテレビに流れた。アメリカの議会やマスメディアでは、アメリカの国益に必ずしもかなうわけではない軍事行動にアメリカの若者の命を危険にさらすのは問題だと批判する声が高まった。
また、モガディシオでの市街戦に発展して一般市民にも500名以上の犠牲者を出したため反米感情が高まり、「アメリカ帝国主義はソマリアを再び植民地化しようとたくらんでいる」というアイディド派のプロパガンダが浸透する下地をつくってしまった。
結局、10月のうちにクリントン大統領がソマリアからの撤退方針を表明。アイディド派もこれを受けて矛を収めた。翌1994年にソマリアの各武装勢力が集まって再び暫定政府樹立の協議が行なわれたが、アメリカ軍の撤退に乗ずる形でアイディド派が支配地域を拡大、内戦は激化の一途をたどる。
ソマリアの各勢力には国家再建への意欲がない。このままでは国連や人道援助団体の関係者が危険にさらされるだけだ。──そうした判断により、1995年3月までにUNOSOMⅡの全部隊が撤収した。
【人道的介入のディレンマ】
以上の国連によるソマリアへの介入は、個別の国益を離れた人道目的による初めての軍事介入という点で、どのように評価するかは別として画期的な出来事であった。その後、国連の調査委員会がまとめた報告書では次の三点が反省点として指摘されている。
第一に、政府が存在しない状態で国連が活動する場合、必然的に国連が統治機能を肩代わりせざるを得なくなる。しかし、それが新たな植民地主義だと誤解されてしまった。
第二に、ひとたび武力行使が行なわれると、エスカレートしやすい。この指摘を敷衍すると、軍事介入は紛争当事者のどちらかの側につく、少なくともそう受け止められてしまうという困難が伴う。純粋な中立というのはあり得ない。
第三に、国連活動に参加する国々の問題として、自国の国益につながらなければ敢えて犠牲を払おうという用意はない。実際にクリントン政権はソマリア問題の苦い記憶のためルワンダのジェノサイドへの介入に躊躇することになった。そして、国連の主要メンバーたるアメリカの支持がなければ国連の活動は成立しないという現実がある。
具体的な問題としては他に、伝統的な社会風土への理解が十分に行き届いていなかったこと、国連側の意思疎通・調整がうまくいっていなかったことも指摘される。
人道的介入の問題は、根本的には正戦論のアポリアにいきつく。深刻な人権侵害が行なわれているのを黙って見過ごすわけにはいかない。だが、第一に、歴史上のあらゆる戦争は自衛のため、“真の人道と平和”のためという名目で行なわれてきた。“正義のための武力行使”がひとたび正当化されると、その濫用を防ぐ手立ては難しくなる。
第二に、主権国家を基本アクターとした外交の伝統的な枠組みにおける内政不干渉の原則に背馳する。ソマリアの場合には、そもそも交渉当事者としての政府そのものが崩壊していたため問題を難しくした。
第三に、第二次世界大戦後の国際秩序を大きく規定している国連憲章で謳われた武力不行使の原則とぶつかってしまう。二度の大戦という惨禍を踏まえ、正・不正の基準を厳しくすることで出来うる限り戦争の可能性をなくそうという意図が国連憲章にはある。ただし国連憲章第七章には、平和を脅かす深刻な事態が発生した場合に国連が主体となって武力を組織し鎮圧することが規定されているが、ここの運用そのものが議論の対象となっており、広範なコンセンサスが得られないままである。
【参考文献】
柴田久史『ソマリアで何が?』岩波ブックレットNo.302、1993年
ベネディクト・アンダーソン(白石さや・白石隆訳)『増補 想像の共同体』NTT出版、1997年
松田竹男「ソマリアの教訓」、桐山・杉島・船尾編『転換期国際法の構造と機能』(国際書院、2000年)所収
最上敏樹『人道的介入──正義の武力行使はあるか』岩波新書、2001年
滝澤美佐子「ソマリアと人道的介入」、日本国際連合学会編『国連研究第2号 人道的介入と国連』(国際書院、2001年)
下村靖樹『ソマリア──ブラックホークと消えた国』インターメディア出版、2002年
小池政行『現代の戦争被害──ソマリアからイラクへ』岩波新書、2004年
遠藤貢「崩壊国家と国際社会:ソマリアと「ソマリランド」」、川端・落合編『アフリカ国家を再考する』(晃洋書房、2006年)所収
Jeffrey Clark, Debacle in Somalia, Foreign Affairs, America and the World 1992/3
Chester A. Crocker, The Lessons of Somalia, Foreign Affairs, May/June 1995
Walter Clarke and Jeffrey Herbst, Somalia and the Future of Humanitarian Intervention, Foreign Affairs, March/April 1996
(以上、2006年12月31日記)
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