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2006年12月24日 - 2006年12月30日

2006年12月30日 (土)

帝人事件──もう一つのクーデター①(戦前期日本の司法と政治③)

【政党不信の時代状況】

 昭和七年五月十五日、犬養毅首相が青年将校の放った銃弾により頭部に重傷を負い、翌日絶命した。いわゆる五・一五事件である。この銃弾は、老宰相の命を縮めたばかりでなく政党政治の息の根までも止めてしまった。

 大蔵大臣であると同時に政友会の前総裁でもあった高橋是清が臨時に首相代理となったものの、程なくして総辞職する。後継首相の人選は難航を極めたが、元老・西園寺公望や重臣たちの思惑により、大命は海軍大将・斎藤実に降った(昭和7~9年)。

 時代の空気は革新を叫ぶ勢力になびきつつあり、人々の政党に対する不信感は根深いものとなっていた。西園寺は政党中心の組閣はもはや不可能との判断を前提とせざるを得なかった。ただし、枢密院副議長の平沼騏一郎など右翼や軍部の強硬派とつながる勢力の政権掌握は何としても避けなければならない。そこで、海軍の長老だが穏健派の齋藤に白羽の矢が立てられ、政友・民政両党からも入閣させることで挙国一致の体裁を整えることとした。

 とりわけ経済問題への取組みには前政権からの継続性が求められ、高橋是清が大蔵大臣に留任した。経済政策には詳しいが根回しの苦手な高橋の補佐役として三土忠造も逓信大臣から鉄道大臣に横滑りして閣内に残った。三土は教育家出身、伊藤博文の知遇を得たのをきっかけに政友会入りした生粋の政党人である。

 世上には政党排撃の声が高く響いていた。斎藤内閣に代わってからも議会外から政党政治家に対する攻撃は依然としてやまず、倒閣運動はますます激しくなってゆく。まず狙われたのは商工大臣・中島久万吉であった。中島の書いた足利尊氏についての論文が右翼勢力によって取り上げられ、かつての南北朝正閏問題を再燃させる形で不毛な歴史論争が貴族院を舞台として繰り広げられた。

 南北朝正閏問題とは、南北朝時代は王朝が並列していたものと考えるのか、それとも皇統は万世一系というイデオロギーにより南北朝の分立を認めず南朝を正統とするのかをめぐる歴史論争だが、学問的というよりも政治的に議論が過熱した。南朝を正統とする場合には、北朝を後ろ盾として幕府を開いた足利尊氏は“逆賊”となる。結局、中島は辞任を余儀なくされた。

 さらに政友会内部の内紛により、文部大臣・鳩山一郎が対立する中島知久平グループの手によって汚職疑惑を衝かれた。こうした混乱の延長線上で齋藤内閣にとどめを刺すことになったのが帝人事件である。

(つづく)

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2006年12月29日 (金)

「好きだ、」

 ──どうにもならない壁にぶつかったとき、君ならどうする?

 ヨースケ(西島秀俊)がたずねた。何もないがらんどうの部屋の中。引越し先に決めたものの、荷物を入れるのが億劫。まるで彼自身の心象風景を示しているかのようだ。

 ──じっと目をつぶるわ。そして、好きだったときの自分を思い出す。そうすると、ちょっと元気が出るの。

 ──そう…。でも、俺には好きだった自分なんてあるんだろうか…。

 高校生の頃のヨースケ(瑛太)は、将来、音楽で身を立てようと川辺でいつも下手くそなギターの練習をしていた。自分で曲を作ろうとしても同じフレーズを繰り返すばかりで先に進まない。ユウ(宮崎あおい)はバカにしながらもいつもそばで聞いていた。

 ──同じとこばっかり繰り返すから覚えちゃった。全部できたらいつか聞かせてよ。

 17年後、ヨースケはレコードメーカーの営業として働いている。ある日、レコーディングに来た女性が、聞き覚えのあるフレーズをギターで弾き始めた。ユウ(永作博美)との偶然の再会。素人っぽい音を録るために、レコード制作会社で事務をしていた彼女がアルバイトで来たのだった。しかし、ヨースケがギターはもう弾いてないことを知って、ユウの表情はくもる。

 タイトルになっている「好きだ、」という言葉、これは観る人によって捉え方が違ってくるかもしれない。時を隔てた思春期、好きだった異性に色々と想いをめぐらす中、伝えたくてももどかしくそのまま飲み込んでしまった言葉として。あるいは、現実の日常生活に追われる中で忘れてしまったかつての情熱を記憶の深みから掘り起こし、肯定するために呼びかける言葉として。

 川べりにしゃがむユウとヨースケ。草むらがそよそよと風になびき、ユウの髪が静かにたなびく。カメラアングルは土手を歩く彼ら二人の姿を下から上へと捉える。青く澄んだり、たなびく雲に憂鬱な黄昏色が映えたり、場面に応じて表情を変えながら大きく映し出される空の色合いが実に美しい。
 
 石川寛の監督デビュー作「tokyo.sora」(2002)という映画を観たとき、我ながら不思議なくらいに強い思い入れを持った。

 人の息づかいが織り成す広い海のような東京の狭間、ひっそりと自身の抱えるものを模索する六人の女性。彼女たちはお互いのことをよくは知らないままに、微妙にすれ違いながら日々を過ごしてゆく。

 六人を結びつける明確なストーリーはない。むしろ、彼女たちのさり気ない生活光景の中でほの見えるふとした表情、その一つ一つを丁寧に切り取り、より合わせながら、東京という都市が一面において持つ静かな情感を、抑制的なタッチで醸し出していた。洗濯機が音を立てて回るコインランドリー、ビルの裏側にある非常階段、一人暮らしの殺風景な部屋、そうした普段なら気にも留めないシーンでも、どこか人の体温を感じられるような気持ちになってくる、そんな魅力にあふれる作品だった。

 いずれにせよ、ストーリーの運び方というよりも、映像そのものの発する静かなイメージが抒情詩と言うべき感情のゆらめきを観客の胸に引き起こす。そこに石川寛が作る映画の魅力を感じている。

【データ】

監督・脚本・撮影・編集:石川寛
音楽:菅野よう子
製作:アンデスフィルム、レントラックジャパン
配給:ビターズ・エンド
「好きだ、」製作委員会/2005/カラー/104分
(2006年3月、渋谷・アミューズCQNにて)

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2006年12月28日 (木)

「ギミー・ヘブン」

 “共感覚”という言葉をこの映画で初めて知った。

 通常、人々の知覚能力は、目で色彩を把握し、耳で音を聴き取るという具合に、いわゆる五官の機能が働くことで成り立っている。しかし、稀にこの感官機能の作用の仕方が他とは異なる人がいるという。

 たとえば、ランボー。「俺は母音の色を発明した。──Aは黒、Eは白、Iは赤、Oは青、Uは緑」(小林秀雄訳『地獄の季節』)。これは比喩ではなく、ランボーは実際にそのように感じ取っていたという説もあるらしい。あるいは、ロシアの作曲家・スクリャービンの作品「プロメテウス」に色彩のイメージが反映されていることも知られている。

 感覚経路が他の人とは異なるというだけで、治療の必要な病気ではない。ただ、他の人と物事の感じ取り方が違うだけ。日常生活を送る上で支障はない。ところが、大人になるにつれ、自身も周囲も、何かが変だと気付き始める。しかし、どこが変なのか、それを伝えること自体が不可能なのだ。いつしか共感覚者は自分の感じたことを素直に語るのをやめる。うわべでは周囲に合わせるが、それにつれて疎外感はいっそう深まり、自分自身の内面世界にこもることを余儀なくされてしまう。共感覚者にも色々なタイプがあり、自分と全く同じ感じ方をする人間に出会える確率はほとんどない。周囲に人々の息づかいは感じられるのに、完全な孤独…。

 ところが、ほとんどあり得ないはずの偶然が起こった──。先回りして言うと、それがこの映画の結末である。

 共感覚の少女・麻里(宮崎あおい)の周辺で不可解な連続殺人事件が起こる。ホラー・サスペンス風のタッチで始まるが、徐々に事件と関わりを持つ人々の抱える問題が明らかになってゆく。

 少女の兄(松田龍平)の倒錯した勘違い。妹の感覚を理解したつもりになって、彼女のためと称して次々と事件を起こす。もう一人の共感覚者・新介(江口洋介)は、自分の感覚が分かってもらえないというもどかしさを感じながらも恋人(小島聖)と付き合っている。以上、二人の共感覚者を軸とした関係の他に、自分が生きているリアリティーがないと悩む青年(安藤政信)や事件を追いながら自分自身のトラウマを思い出していく女性警部(石田ゆり子)、どこか頭の切れているヤクザ(鳥肌実)が絡んでストーリーは展開する。

 それぞれ立場は違う。しかし共通しているのは、“何かを感じ取る”という手ごたえがないままにさまよい続けているという点だ。作品全体に通底するこうしたもどかしさが、“共感覚”というモチーフによってシンボリックに表現されている。

 一人の人間が別の人間の感覚を理解できるなんてことがそもそもあり得るのだろうか?

 リベラリズムを基本とする現代社会では、価値観の多様性を容認することに大きなプライオリティーが置かれている。よく言えば、思想信条の自由、言論の自由、諸々の自由…。しかしこれを裏返すと、自明なものとして共有されていた暗黙の価値観が失われ、島宇宙的に並列する一人ひとりの価値観の寄せ集めとして社会を組み立てなおさねばならないという問題が露わとなっている。その応急措置的な対策として“自由”という言葉が使われているに過ぎないとも言える。

 “言論の自由”が保障されているから我々は理解しあえるきっかけが与えられているのではない。むしろ逆だ。我々は互いに理解しあえないからこそ、棲み分けのために“価値観の自由”というルールが必要なのである。

 要するに“分かりあえない”という感覚は成熟した近代社会において決して不自然なものではない。むしろ、そのもどかしさを前提としてこの世の中は成り立っている。あとは、そのもどかしさを引き受けるか、目を背けるかのどちらかである。

 映画のラスト、麻里が自分と全く同じ感受性を持った共感覚者であることを新介は知る。しかし、彼は分かりあえないもどかしさを抱えながらも恋人と結婚すると決めたばかりであった。

 彼らがその後どうなったのか、映画では明らかにされない。しかし、“分かりあえない”という前提を踏まえながらもなおかつ互いを受け容れあう覚悟を持つのか、それとも、絶望的なほどに確率は低くとも“分かりあえる”相手を果てしなく探し続けるのか。この作品を通じて観客は突きつけられている。

【データ】
・監督:松浦徹
・脚本:坂元裕二
・製作:アートポート、松竹、ユーロスペース、関西テレビ放送
・カラー/121分

(2006年1月、新宿武蔵野館にて)

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2006年12月24日 (日)

“司法権の独立”が意味したもの②(戦前期日本の司法と政治②)

(承前)

【“司法権の独立”が意味したもの】

 以上の経過をまとめると、日糖事件で政党、シーメンス事件で軍部、大浦事件で山県系官僚閥が打撃を受け、平沼をリーダーとする検察権は独自の存在感を認知された。つまり、政治的な捜査活動を通して“司法権の独立”を力ずくで勝ち取ったとも言える。こうした検察の容赦ない動きは各方面で脅威として受け止められた。

 原敬は検察を政治システム面で牽制するために陪審制の導入を目指し、他方で平沼グループを人的に自らの陣営に取り込もうと働きかけた。その結果、司法省内で平沼に次ぐポジションにあった鈴木喜三郎の政友会入りが実現した。これは、明治憲法体制において行政から独立した存在であった軍部を政党政治の枠組みに取り込むため陸軍から田中義一を政友会に迎え入れたのと同じ構図である。つまり、“統帥権の独立”と同じ問題構造を“司法権の独立”もはらんでいたことを原は鋭敏に察知していたのである。

 また、検察の過酷な捜査活動はしばしば深刻な人権蹂躙を伴った。大逆事件が冤罪であったことは現在では周知の事実である。この点も意識して原は陪審制の実現に向けて力を入れた。これは大正デモクラシーという時代風潮の中、国民の司法参加として政友会のイメージアップにもつながった。

 平沼たち検察の活動を軸に据えて振り返ると、大逆事件の位置付けも微妙に変わってくるのではなかろうか。大逆事件については、国家権力が社会主義者・無政府主義者を狙い撃ちした事件として特筆大書されるのが通例である。しかし、実際には政府関係者の足並みはそろっていなかった。検察の動向を時系列的に整理すると、検察の自己主張として政党、軍部、山県閥と各方面にわたって捜査活動が展開される中で大逆事件もまた同一地平に並べることができる。鵜沢総明、花井卓蔵、磯部四郎など政友会系の法曹家が弁護を引き受け、原敬が大逆事件の成り行きに危惧を抱いていたことも考え合わせると、国家による左翼への弾圧という側面ばかりでなく、検察活動自体がはらむ問題として捉え返す視点も必要であろう。

 こうした検察権力の問題を、理論的・思想的にはどのように考えるべきだろうか。平沼たちが“司法権の独立”を目指して積極的な捜査活動を展開する直前の明治40年に刑法が改正されていた。この改正刑法に影響を与えた新派刑法理論に注目したい。

 新派刑法理論の代表者・牧野英一は罪刑法定主義を否定し、“社会の必要”に応じて司法家は判断すべきだと主張していた。法律というタガを外した上で司法家が判断するとなれば、その恣意的な暴走は一体誰が食い止めるのか? “司法権の独立”が昭和に入って“検察ファッショ”と呼ばれる事態を惹き起こしたことの背景をもう一度洗いなおす必要がある。

 なお、牧野英一については、精神障害と犯罪というテーマで思想史家の芹沢一也が興味深い論考を発表しているので、別の機会に紹介したい(『〈法〉から解放される権力』新曜社、2001年。『狂気と犯罪』講談社、2005年)。

【取り上げた本について】
三谷太一郎『政治制度としての陪審制──近代日本の司法権と政治』東京大学出版会、2001年。旧版は『近代日本の司法権と政党──陪審制成立の政治史』塙書房、1980年。著者は成蹊大学法学部教授、東京大学名誉教授。主要著書として『二つの戦後』(筑摩書房、1988年)、『新版 大正デモクラシー論』(東京大学出版会、1995年)、『増補 日本政党政治の形成』(東京大学出版会、1995年)、『近代日本の戦争と政治』(岩波書店、1997年)などがある。

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