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2006年12月17日 - 2006年12月23日

2006年12月23日 (土)

“司法権の独立”が意味したもの①(戦前期日本の司法と政治①)

【はじめに】

 戦前期日本における司法制度の背景としてどのような思想史的な流れを読み取ることができるのかというテーマに関心がある。平沼騏一郎がキーパーソンとなるであろうことは見当がついていた。しかし、平沼については右翼政治家としての側面に重点を置いた議論がほとんどで、司法という観点から正面きって論じた文献は驚くほどに少ない。

 そうした中、三谷太一郎『政治制度としての陪審制』(東京大学出版会、2001年)は非常に有益であった。本書は、政党(とりわけ政友会の原敬)と司法省(とりわけ平沼騏一郎)との間で繰り広げられた政治力学的なプロセスの検証により陪審制度成立の事情を解明した研究であるが、司法をめぐる日本政治史として貴重な手引きとなっている。本書で示された構図をもとに、平沼を中心する検察の動向を概観したい。

【検察の積極的な捜査活動】

 近代国家においては立法・行政・司法の三権分立が必須の条件とされる。しかしながら、戦前期の日本で“司法権の独立”は、理念としてではなく、生臭い政治性を通して示された点に大きな特徴がある。

 明治新政府の官制では司法省のステータスは低かった。藩閥勢力は大蔵省・内務省といった主要な行政機構、もしくは陸海軍の掌握を重視し、司法省には藩閥の政治力に縁のない人々が集まってきた。そのため、司法省の政治的中立性は結果として担保されたものの、他官庁より一段格下と軽んじられていた。

 平沼騏一郎は司法省の奨学金で学業をおえたため検察官僚として出発せざるを得なかったが、大蔵省や内務省に進んだ東京帝国大学の同窓生との落差には不満を抱いていたらしい。その後の平沼たち検察グループの動きには、法的正義の追求と同時に政治的野心もないまぜになった複雑なエネルギーが駆動力として垣間見える。

 平沼がその存在感を最初に示したのは明治43(1910)年の日糖事件である。これは、大日本製糖株式会社が輸入原料砂糖戻税法、つまり原料砂糖輸入関税の一部を製糖業者に返すという保護政策的な法案を成立させるために代議士への贈賄工作を行なった事件であり、政友会13名、憲政本党6名、大同倶楽部2名、合計21名が起訴された。平沼が指揮を取った捜査陣は手心を加えず、政友会が検察を脅威として認識するきっかけとなった。

 翌明治44(1911)年には大逆事件がおこった。捜査陣は平沼をはじめ日糖事件を摘発したのと同じメンバーであった。この事件において無実を申し立てている被告がいるにも拘わらずきちんとした取調べが行なわれないまま検察から一方的な事実認定がなされたことを原敬は伝え聞き、裁判の信頼性がそこなわれることを危惧したらしい。ここから原は陪審制導入の必要を痛感したという。

 検事総長となった平沼騏一郎は軍部にもメスを入れた。大正3(1914)年のシーメンス事件である。ドイツのシーメンス社、イギリスのヴィッカース社、三井物産などが軍艦や軍需品の発注をめぐり海軍の軍人に贈賄を行なった事件であり、平沼は呉鎮守府構内への捜査を断行した。この事件を受けて、海軍出身の山本権兵衛首相は内閣総辞職に追い込まれる。

 そして大正4(1915)年には山県有朋を頂点とする官僚閥にも一撃を加えた。いわゆる大浦事件である。大正4年の総選挙における選挙法違反、贈収賄容疑で内務大臣・大浦兼武に対する捜査を行なった。大浦は山県の側近である。山県は平沼に会見を申し込んだが、平沼は断ったという。結局、大浦は政界引退を条件として起訴猶予となったが、検察の威力に例外はないことが明確に示された。

(つづく)

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2006年12月22日 (金)

「白バラの祈り」

 第二次世界大戦末期、敗色濃厚なドイツ。反戦平和を訴えるビラを配った学生グループ・白バラ抵抗運動が摘発され、即決裁判で処刑されるという事件があった。その中の一人、ゾフィー・ショルという少女の逮捕から処刑に至る四日間に焦点を当てた作品である。

 冷たい壁に囲まれた牢獄、高窓から降りそそぐ光を浴びながらゾフィーは祈る。その横顔を見ながら、むかし学生のときに観た映画をふと思い出した。

 それは、ジャンヌ・ダルクの生涯を描いた映画。よく似た構図でジャンヌが神に祈るシーンがあった。政治的な駆け引きなど思いもよらない。私はただ正しいと信じたことをしたまでのこと、どうしてこんな目に遭わなければならないのか分からない、神様どうしてですか…。そうした無垢な少女が政治の動きに翻弄されながら葛藤する姿を描いていたように記憶している。

 ただし、ジャンヌとゾフィーとを、政治の犠牲となった哀れな聖女として引き比べるつもりはない。私が思いを巡らせたのはもっと別なことだ。

 この映画の大半は、ゲシュタポによる尋問や法廷での審理(と言っても、裁判長が一人でナチズム・イデオロギーをまくし立てるだけだが)に時間が割かれている。いずれにしても、被疑者と告発者とが双方の主張を論理で戦わせる場面のはずなのだが、全くかみあわない。ゲシュタポの取調官も裁判官もナチスの正当性を声高に怒鳴るだけ。対するショル兄妹にしても、平和の大切さや言論の自由といった大義名分を訴えるにとどまり、言葉の内容自体に特段の魅力があるわけではない。相互の主張が一方通行。言葉による説得が最初から期待されない空間の中で物語が進行する。

 つまり、最初から作られた結論ありき、言葉を使ってはいてもそこに人間の顔を見ることができないおぞましさ。ジャンヌ・ダルクを思い出した理由もここにある。カギ十字の旗がひらめくいかつい石造建築の中で進行する儀式は、中世の異端審問と全く変わらない。

 だからナチスは異常だった、という結論にまとめるつもりもない。

 政治的イデオロギーを語らないところで人の顔が見えてくるシーンがいくつかあった。たとえば、法廷でのワンシーン。裁判長が反ナチス活動家は人ではないと罵り続けた後、陪席判事に「意見は?」とたずねる。彼はうんざりしたような表情で投げやりにたった一言、「ありません」。あるいは、死刑執行の直前、看守のおばさんが「これは規則違反なんだけどね」と言いながらタバコをくれる。

 何よりも次のシーンが印象に残っている。ショル兄妹は死刑直前に両親と会うことができた。面会室から出てきたところ、ゾフィーを取り調べたゲシュタポのモラーが黙って立っている。目を涙で濡らしていたゾフィーは手で拭きながら「両親に会えたからよ」と強がる。モラーは無表情にうなずいた。ゾフィーは政治犯として外部との接触を一切絶たれているわけだから、本来なら両親とだって会うことは不可能なはずだ。ひょっとすると、モラーが便宜を図ってくれたのかもしれない(モラーたちゲシュタポの事務官は、ショル兄妹に対してひそかに敬意を抱いていたらしい。C・ペトリ著、関楠生訳『白バラ抵抗運動の記録』(未来社、1971年)214-215頁を参照)。

 私は何を言おうとしているのか。言葉としては明晰な政治的イデオロギーを主張する場面には人間がいない。しかし、一定の主張から離れたごく些細な場面になって初めて人間らしい生身の顔が言葉少なに垣間見えてくる。

 モラーは職務遂行上必要だから法にのっとってナチスの正当性を語る。ナチスが正しいからではない。ナチスが法を作ったからだ。自分の心情を示すために言葉を使うことはない。モラーにも良心が残っていた、という話とは違う。ここの難しい機微は属人的に考えることはできない。彼が良い人か、悪い人か、そんなことは全く関係ないのである。

 法と自己とを明確に分け、法の決定には一切疑義を挟まず己を打ち消して服従するという倫理観こそがナチズムを成立させた。

 たとえば、ハンナ・アレントがアイヒマン裁判を傍聴して“悪の陳腐さ”と言い、同じくアイヒマン裁判を取り上げたドキュメンタリー映画「スペシャリスト」のサブタイトルに“自覚なき殺戮者”とあるのはこうした問題意識である。モラーにもまさにこの側面が窺える。

 さらに話を広げるなら、“官僚制”モデルが社会の隅々にまで行き渡った“合理的”な“近代”としてマックス・ヴェーバーが描き出した冷たいイメージ、その極限はドイツ第三帝国に見ることができる。つまり、一定のインプットがあれば各自の思惑とは全く異なる次元で自動的に遂行されるシステムが近代社会の条件である。そのインプットの内容的な価値は問題とならない。極論すれば、たまたまナチズムだったに過ぎない(なぜナチズムであったのかは大衆民主主義の病理として別に考えねばならない問題だ)。

 制度は言葉によって成り立つ。そして、言葉を自覚なしに使うと必ず無意味な虚言に堕する。ところで面白いことに、もっともらしい言葉さえあれば、その内容的な吟味が全然なされていなくとも立派にシステムは作動してしまうのだ。

 現代日本社会に生きる我々にとって、“平和”や“民主主義”は自明の前提である。一方、ナチスもまた彼らなりの文脈の中で“平和”や“民主主義”という言葉を口にした。彼らの言葉の使い方が間違っていたと言うのはたやすい。しかし、それでは単なる思考停止である。我々自身、“平和”や“民主主義”という言葉の中身をまともに考えなくとも、むしろ考えないからこそ無難に日常生活を送れるという事実を振り返ってみるべきだろう。

 正当性、法律、イデオロギー。何でもいいが、仮面として言葉のコードが一定の時代状況の中で成立する。そこに従うことが当たり前となり、本心から離れていても異議は唱えないのが“常識”とされ、そもそもそのズレに気付くことすらないかもしれない。ただ、生身の実感をたまたま言葉に出してしまった者だけが罪とされ、周囲から石つぶてを投げられる。

 それが、たとえばゾフィー・ショルであった。

 これをナチズム特有の問題と済ませてしまうのか、あるいは程度の差こそあれ現代社会においてもあり得ること、ひょっとすると“世論”と呼ばれる得体の知れぬものの問題として考えるのか。ここは各人の視点の取り方にかかってくる。

【データ】
原題:Sophie Scholl──Die Letzten Tage
監督:マルク・ローテムント
ドイツ/2005年/121分
配給:キネティック 

(2006年1月、日比谷シャンテシネにて)

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2006年12月21日 (木)

本田・内藤・後藤『「ニート」って言うな!』

 前回に引き続き、本田由紀さんの本を取り上げます。本田由紀・内藤朝雄・後藤和智『「ニート」って言うな!』(光文社新書、2006年)のレビューと、それを踏まえて「ニート」論の問題点をまとめたメモです。

【本書の構成】

 第一部では本田由紀(教育社会学、東京大学助教授)が、統計データ解釈の間違いを指摘することで、一般に流布されている「ニート」論の誤解を解きほぐし、代替的な政策提言へと話題を進める。本田の議論を踏まえて、第二部では内藤朝雄(社会学、明治大学専任講師)が、誤解された「ニート」イメージがいかにマスコミを通してばらまかれていくのか、そうしたメカニズムの解明を試みている。第三部では後藤和智(東北大学工学部在学中、若者論検証のブログを主宰)が書籍や新聞、雑誌等に登場した「ニート」論を個別に検証する作業を行っている。

 イメージ的に広まってしまった言葉の扱いは非常に難しい。論点を世間に訴える上でアトラクティヴな言葉を使うのは、当然ながら必要である。ただその一方で、言葉が独り歩きを始めてしまうと、実態からかけ離れたイメージによりかかって議論が上滑りし、下手すると、その肥大化したイメージ自体が真実とみなされてしまう。「ニート」をめぐる議論にも、そうした問題点が窺える。

 従って、そうしたイメージ的な思い込みを丁寧に解きほぐし、より実態に近づけた議論につなげるべく言葉の持つ副作用を中和する役割を誰かが果たさねばならない。その点、第一部の議論は、「ニート」という言葉について世間的に広まっている誤解を解きほぐそうという姿勢が明確で、建設的な内容を持っている。

 一般的に“働く意欲のない人”というイメージが抱かれている狭い意味での「ニート」は、統計データを丁寧に読み直してみると、実は歴史的に増減が認められないことが第一部では示された。問題となっているのは、「ニート」そのものではなく、「ニート」に対して向けられた社会的なまなざしの変化の方なのではないか? そのような問題意識を持って第二部ではメディア・リテラシーに関わる議論が試みられている。この問題意識自体は非常に興味深いのだが、残念ながら筆者の議論の進め方が紋切り型のメディア批判に終始してしまい、不消化感が残ってしまった。この論点がもっと充実していれば、本書全体が「ニート」論を素材としたメディア・リテラシー論として面白いものに仕上がっただろうに、残念である。

 第三部は「ニート」論をめぐる全体的なレビューとして参考になる。

※以下、本書を踏まえて「ニート」概念の問題点についてまとめる。

【「ニート」の定義──イギリスと日本との違い】

 「ニート」という言葉が一般に広まったのは玄田有史・曲沼美恵『ニート──フリーターでもなく失業者でもなく』(幻冬舎、2004)が話題となって以降のことである。あっという間に社会事象を表わすキーワードとして一種の流行語とも言うべき広がりを見せた。しかし、この言葉がどのような背景で用いられていたのか、意外と知られていない。

 日本では「ニート」とカタカナ表記の言葉として人口に膾炙しているが、本来は“NEET”、すなわち“Not in Education, Employment, or Training”の略語である。最初にこの言葉が用いられたイギリスでは年齢層としては16~18歳を想定し、失業者が含まれる。

 一方、日本での捉え方は年齢層に幅があって15~34歳が想定され、失業者は含まれない。従って、日本の『労働経済白書』をはじめ統計資料などで用いられる「ニート」の定義はイギリスと異なり、「15~34歳までの若者、学生ではない未婚者、求職活動をしていない者」とされている。いわゆる「家事手伝い」をここに含むかどうかは議論されている。

 この“NEET”概念は1990年代から使われ始めたという。もともとイギリスでは、「社会的排除」の対象となっている人々をどのように救い上げるのかという社会政策的なコンテクストの中でこの言葉は用いられてきた。つまり、貧困、低学歴、人種的マイノリティーなど社会的に不利な立場に立たされ、将来的に希望を持つことのできない人々の問題点を把握する必要上生み出された概念なのである。

 ところが、日本においてはいわゆる「ひきこもり」とイメージ的に重ねて用いられる傾向が強い。“余裕はあるのにやる気がない”者の甘えという心構え論に還元されてしまい、社会構造上の問題を把握するための中性的テクニカルタームとしてこの言葉を用いるのが困難になってしまった。言い換えるなら、日本においても貧困・低学歴など社会的に不利な環境要因によって生じている階級格差の問題は目立たないながらもやはり存在している。また、身体障害者なども形式上「ニート」に分類されることになる。これらの問題を把握するための思考ツールとして使いづらい風潮が醸成されてしまったこと、そこに「ニート」定義の混乱による問題点が見出される。

【日本における「ニート」論の現状】

 以上にみたように「ニート」の定義がそもそも混乱しているため、日本の労働市場に関する統計資料を読み解く上でも錯誤を引き起こす可能性が高くなった。つまり、それぞれに別個の事情を抱えている人々を、この「ニート」という一語で十把ひとからげにまとめてしまったことで、問題の多様性が見えづらくなっていることが第一に指摘される。

 第二に、先にも触れたように「ニート」には「不登校」や「ひきこもり」に近いイメージが世間的に抱かれている。しかし、「ひきこもり」は「ニート」の中のごく一部に過ぎない。ごく一部のイメージに過ぎないものが「ニート」全体にまで拡大されることで、実態からかけ離れた議論が場当たり的な印象論で語られてしまうことにも大きな問題がある。

 『青少年の就労に関する研究調査』(内閣府)の第Ⅱ部『就業構造基本調査』では、「ニート」はおおむね85万人という推計が出ている。これは「非求職型」(約43万人)と「非希望型」(約42万人)という2つのグループの合算として示された数字である。後者の「非希望型」がいわゆる“働こうにもそもそも意欲がない”という世間的な「ニート」イメージに近い層である。

 それでは、前者の「非求職型」とはどのような人々か。これは単に「現時点で仕事に就いておらず、かつ求職活動をしていない」という生活形態に着目しただけで、本人の“意欲”のあり方を指標として分類されたものではない。

 「非求職型」の内訳をさらによく見てみると、その理由としては「病気・ケガのため」や「その他」が多い。「その他」はそれぞれの個別の事情によるため一般化できない理由である。「病気・ケガのため」には、調査時点より半年前までの時期には仕事に就いていた人が多く、過酷な労働条件で体調を崩した、あるいは精神面でのケアを必要としているなどの事情が考えられる。つまり、「ニート」に分類されていても「非求職型」については本人の“意欲”に還元される問題ではなく、本人を取り巻く環境条件によって生じた問題が背景にあると言える。各自の抱える事情によって求職活動はしていないが“意欲”はあるという点で、「非求職型」の「ニート」と「求職型」(いわゆる失業者)やフリーターとの境界が曖昧なのである。

 このように異なるタイプの数字が「ニート」という一言で括られている。しかも両者の比率は半々である。「非希望型」を考慮に入れても、全く何もしていない“純粋無業”は、「ニート」全体の1/3ほど。残りの2/3は、現時点では特定の職業に就いていないというだけで、少なくとも何かはしている。つまり、「ニート」と一言で括られてはいても、「いま働いていない」という点で共通しているだけで、実は多様な人々が混在している。従って、世間的によくある「働く意欲がないのが問題だ」という議論も、対する玄田有史の「いや、働きたくても働けないのが問題なのだ」という反論も、実は水掛け論に終わるしかない。

 近年、「ニート」の統計数字における増加は著しい。マスコミを通して85万人という数字がセンセーショナルに喧伝される。しかし、その増加の内訳を見ると、ほとんど「非求職型」の増加によるものなのである。一方、“働く意欲がない”という通俗的な「ニート」イメージに合致する「非希望型」についてはまったくと言っていいほど増減がない。

 この「非希望型」のタイプは、同年齢層の約1%程度の割合で昔から存在していた。増減に変化が見られないにもかかわらず、なぜ今ごろになって社会問題としてクローズアップされるのだろうか? むしろ、「求職型」の若年失業者やフリーターが増加している労働環境悪化の方こそ数的規模においてはるかに深刻である。

 以上にみた混乱は「ニート」と呼ばれる人々の問題というよりも、「ニート」というイメージを形成するに至った、社会全体の視線の取り方自体が変化したことに理由が求められるのではないか。“働く意欲を持たない”という点では、たとえば夏目漱石の小説に登場する“高等遊民”も、宗教的な出家者や山伏も「ニート」に分類される。広く歴史的にみるならありふれた存在である。つまり、「ニート」論がこれほど騒がしくなっている背景には、社会的なスタンダードから外れた生活形態を取る者に対して不寛容な画一的視線が社会全体を覆っていることが示されていると言える。

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2006年12月19日 (火)

国末憲人『ポピュリズムに蝕まれるフランス』

【民主主義の祖国が抱える葛藤】

 シラク後をめぐるフランス大統領選挙の役者もそろそろ出揃いつつあるようだ。今回は国末憲人『ポピュリズムに蝕まれるフランス』(草思社、2005年)を取り上げよう。

 本書の題材となっているのは前回、2002年のフランス大統領選挙。大方の予想を裏切って決選投票に進出した極右・国民戦線のルペンに対し、保守派と左翼がスクラムを組んでシラク再選が決まった。

 「民主主義に敏感なフランスの感性が証明された」──選挙結果を受けてこうした論評が新聞をにぎわせた。しかし、本当にそうなのか? 本書は、“ポピュリズム”という政治学的には定義の極めて難しいキーワードを軸として、フランス革命以来「民主主義の祖国」としての誇りを抱いてきた国家が直面している混乱、具体的には選挙による代表制と政教分離という2つの柱が破綻をきたしている現状を報告する。

 テーマは非常に興味深い。ただし、本書は関係者を取材してまわった感触を通り一遍に叙述するだけで終わっており、現場を見て歩いた者ならではの考察が示されていないのが少々物足りない感じがした。

【フィクションとしての選挙】

 制度というのは一つのフィクションである。20世紀初頭の異端的な社会学者ロベルト・ミヘルスがつとに指摘していたように、民主主義という衣をかぶってはいても、実際の政治運営が字義通り「民主的」に運営されるなんてことはまずあり得ない(森博・樋口晟子訳『現代民主主義における政党の社会学』木鐸社、1973年)。

 フランスもまた例外ではなく、「民主主義」というたてまえとは裏腹に、実際に国家の舵取りを行っているのはごく少数のエリート層である。この奇妙な矛盾は薄々気づかれていながらも、選挙による政権交代という手続きを通すことで覆い隠されてきた。

 しかし、社会が成熟することで政治的争点がかつてのイデオロギー対立から身近な問題へと細分化されるにつれ、保守派と社会党との違いが見えなくなった。つまり、政治に変化が期待できなくなり、その分、保守派も社会党もトップはエリート校出身者でほとんどが占められているという事実が際立つようになってきた(保守派の中でもサルコジ内相に人気があるのは、彼がエリート出身ではないからだ)。

 倦怠感・閉塞感が漂う中、欺瞞であろうともこのシステムによって今までの社会運営がなされてきたことへの挑発的な気持ちが社会全般に行き渡るようになる。それが、極右というスタンダードから外れた勢力への得票という形で表れたと言えるだろう(無論、移民政策、治安対策などの問題も倍加的に影響を与えている)。

【政教分離という原理の矛盾】

 「政教分離」もまたフランスをはじめ近代社会を成り立たせてきたフィクションである。以前、イスラムの信仰を持つ少女がスカーフをつけて公立学校に通うことが政教分離に反するのではないかという論争が過熱したことがある。ここからいくつかの問題が露わになった。

 第一に、他者への寛容を目的とするはずの「政教分離」という原則が、結果としてイスラムに対して「不寛容」な態度を取ることになったという逆説的な事実である。

 第二に、これは本書を読んで初めて知ったのだが、実はこのスカーフの少女は生まれながらのムスリムではなかった。両親はフランス生まれのユダヤ人で、彼女は自分の意志でイスラムに改宗していたのである。彼女に何があったのかは分からない。特別な政治的背景が見られるわけでもない。思春期によぎる戸惑いの中、たまたまイスラムに魅かれたというだけのことなのかもしれない。

 問題なのは、あくまでも彼女の個人的な事情に過ぎないことが、「政教分離」という政治的論争の枠組みに無理やり押し込められ、彼女の思惑を超えた所で世論が大騒ぎすることになった経緯である。

 フランスの場合、ユグノー戦争以来繰返された宗教対立により、こうした問題への過敏なまでの反応があるのはやむを得ないのかもしれない。しかし、「政教分離」という原則論ばかりが暴走することのはらむ逆説的な意味を問い直すことは必要であろう。

 選挙による代表制と政教分離。いずれも日本にとっては欧米から輸入した観念に過ぎない。本家本元のフランスで陥っている混乱は、もし日本だったらどのような視点に立って考えることができるのか。そこを念頭に置きながら読むと興味深い。

【著者プロフィール】
朝日新聞記者。1963年岡山県生まれ。87年「アフリカの街角から」でノンフィクション朝日ジャーナル大賞優秀賞を受賞。同年パリ第2大学新聞研究所を中退し朝日新聞社入社。パリ特派員(01‐04年)などを経て外報部次長。この間ルワンダ内戦、イスラム過激派テロ、パレスチナ紛争、イラク戦争などを取材。連載「テロリストの軌跡」で02年度日本新聞協会賞を受賞。他の著作に『自爆テロリストの正体』(新潮新書、2005年)。

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2006年12月18日 (月)

「ホテル・ルワンダ」

 今年の2月頃に観た「ホテル・ルワンダ」についてのメモを掲載します。

【ストーリー】

 多数派フツ族と少数派ツチ族との深刻な内戦や、フツ族出身の独裁者ハビャリマナ大統領の圧制で疲弊しきったルワンダ。国内外からの圧力に加え、ツチ族亡命者の結成したルワンダ愛国戦線の反攻に直面し、1994年、大統領は和平協定を結ぶことにようやく同意した。

 ルワンダの首都キガリにあるベルギー資本の高級ホテル・ミルコリンホテルでは、国連関係者や報道陣が集まって祝杯をあげている。その中で、マネージャーのポール・ルセサバギナ(ドン・チードル)は忙しく立ち働いていた。

 そこへ妻の兄が不安げな顔をしてやってきた。

「フツ族民兵がツチ族虐殺の準備をしているという情報がある。政府は急進派民兵をもはや統制できない。君はフツ族だから大丈夫だが、私はツチ族だ。君には欧米人にコネがある。早く国外脱出したいんだ。」

「和平協定が結ばれるんだぞ。心配するな。」

 ポールは義兄をなだめて帰した。

 その晩、仕事が遅くなって車で帰る道すがら、どうも町の様子がおかしい。自宅に着くと、ツチ族の隣人たちが中に集まって息をひそめていた。

 ハビャリマナ大統領は和平協定の調印式場に向かう途中、乗っていたヘリコプターが何ものかによって撃墜され、それを合図にフツ族民兵が一斉に動き始めたのである。ラジオからは不吉な怒鳴り声が繰り返し流れていた。──「ゴキブリを駆除しろ、ツチ族を殺せ!」

 ポールはこうした事態に備えて高級ホテルのマネージャーとして各方面に培ってきた人脈を使い、ツチ族出身の妻だけは守り抜くつもりでいた。しかし、行きがかり上、救いを求めて集まってきた他のツチ族の人々をも救わねばならない羽目になる。

 ミルコリンホテルは外国資本であるため、民兵もおいそれとは手が出せない。しかし、ルワンダ政府は事実上崩壊した。情勢の悪化を受けて国連平和維持軍も一部を残して撤退しつつある。民兵がなだれ込んでくるのも時間の問題だ。あとは、ポールの機転で時間稼ぎをするしかない──。

【見捨てられたルワンダ】

 死体が転がっているのが当たり前な光景は、映画だとわかってはいても目を背けたくなるおぞましさだ。しかし、映画の中で交わされる会話を聞くと、これでも残虐描写は抑えているほうなのだろう。

 この大虐殺では百万人以上が殺されたと言われている。部族の従来からの風習やかつての植民地支配の負の遺産など複雑な背景が横たわっているそうだが、詳細はフィリップ・ゴーレイヴィッチ(柳下毅一郎訳)『ジェノサイドの丘』(上下、WAVE出版、2003)に譲る。

 映画の中盤、国連平和維持軍撤退の決定を聞いた指揮官のオリバー大佐(ニック・ノルティ)がヤケ酒をあおりながらポールに向かって次のように言う場面がある。

「俺につばを吐き掛けろ。超大国はルワンダを見捨てるつもりだ。なぜだか分かるか? 君たちは白人ではないからだ。」

 この映画では触れられていないが、超大国の筆頭・アメリカにも事情はあった。1993年、当時のガリ国連事務総長の提唱する積極的平和創造の方針に基づき、アメリカ軍はソマリア内戦に軍事介入した。しかし、多数の死傷者を出して撤退せざるを得なくなるという苦い経験をひきずる結果になってしまった(詳細な経緯は映画「ブラックホーク・ダウン」(2002年)がリアルに描写している)。

 これは個別の国益を離れた純粋な人道目的の軍事介入として初めてのケースであったが、失敗に終わってしまったため、「国益に関係ないのにアメリカの若者の血を流すわけにはいかない」という国内世論が根深くなり、アメリカ政府は身動きが取れなくなってしまった。アメリカが動かなければ、当然、他の国も動かない。

 アメリカの国内世論という点で、高木徹『戦争広告代理店』が一つの問題点を描き出している。なぜアメリカの国内世論は、アフリカの難民は見捨てたのに、ボスニア内戦には大きく関心を示したのか? カギとなるのは、世界中に配信された一枚の報道写真。収容所(実際は違ったのだが)の鉄条網の中に収容されているのが、黒人ではなくスラブ系の白人だったからだ。アフリカの黒人が何万と殺されてもたいした問題とはならないが、白人が虐待されているというイメージが広がると過敏なまでに反応する。

 国際世論において見捨てられかねない“マイノリティー”(人口的には決して少数派ではないのだが)に目を向けるよう注意を喚起するものとして「ホテル・ルワンダ」の意義は大きい。

 NPOを中心とした草の根運動の努力の結果として、この映画の日本上映は実現したという。実際に出かけてみると、立ち見がでるほどの盛況であった。口コミでこれだけ認知度が広がったという点でも非常に興味深い。

 映画の中で、虐殺シーンを撮影したBBCのカメラマンが「これをニュースで流しても、“あら怖いわね”と言って、ディナーを続けるだけさ」と自嘲気味に言うシーンがあった。私自身もその類型に入ることを自覚しつつ、この稿を終える。

【データ】

原題:Hotel Rwanda
監督:テリー・ジョージ
2004年/南アフリカ・イギリス・イタリア/122分/カラー
配給:メディア・スーツ、インターフィルム
協力:『ホテル・ルワンダ』日本公開を応援する会、NPO法人ピースビルダーズ・カンパニー、ジェネオン・エンタテイメント
後援:ルワンダ大使館、社団法人アムネスティ・インターナショナル日本

(2006年2月、シアターN渋谷にて)

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2006年12月17日 (日)

高木徹『戦争広告代理店』

 今回取り上げるのもまた高木徹さんの著作で『戦争広告代理店』(講談社、2002年、講談社文庫、2005年)です。

【メディア・リテラシー感覚を養うに最適の一冊】

 ユーゴスラヴィアから独立したばかりのボスニア・ヘルツェゴビナ。“新米”外務大臣シライジッチは、セルビア人が主導する新ユーゴスラヴィア連邦から軍事的脅威を受けつつある現状を打破せよという使命を帯び、国連総会に出席すべくニューヨークに降り立った。 いざやって来たものの何から手をつけたらよいやら分からず途方にくれている中、こんなアドバイスを受ける。

 ──世界を動かすにはアメリカ政府を動かせ。アメリカ政府を動かすにはアメリカの国内世論を動かせ。アメリカの国内世論を動かすにはPR会社を使え。

 バルカン半島の小国に関心を向ける人などほとんどおらず、モスレム人、セルビア人、クロアチア人が三つ巴になった複雑な政治的・歴史的背景について理解してもらうのはなかなか難しい。

 そうした中、乏しい国家予算の大半をつぎ込んで依頼したPR会社の繰り出すイメージ戦略は効果テキメン。いつの間にか「ナチスのように極悪非道なセルビア人、かわいそうなモスレム人」という勧善懲悪的な国際世論が定着してしまった。実際には、三民族ともに民間人虐殺などの戦争犯罪をおかしていた点では変わりないにもかかわらず。

 そんな単純な問題ではないと主張しようものなら「お前はセルビア人のホロコーストを許すのか!」と袋叩きにあってしまう。中立的な外交関係者や学者は黙するしかない。実際、国連平和維持軍司令官として三民族の調整に奔走したカナダの軍人は、その中立的な立場ゆえに失脚してしまった。

 セルビア側があわてて巻き返しを図っても時はすでに遅し、一度確立したイメージは崩しがたく、別のPR会社を訪れても「挽回はもう無理」と門前払いをくってしまう。結局、セルビア勢力の最高実力者ミロシェヴィッチは逮捕され、ハーグの国際軍事法廷で裁かれる最初のケースとなった。

 情報戦のディテールを再現した迫真のドキュメンタリーであり、登場人物のパーソナリティー描写にはドラマとしての盛り上がりもあり読み物として面白い。何よりも、国際情勢を読み解く上で不可欠なメディア・リテラシーの訓練として貴重な一冊である。

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