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2006年12月28日 (木)

「ギミー・ヘブン」

 “共感覚”という言葉をこの映画で初めて知った。

 通常、人々の知覚能力は、目で色彩を把握し、耳で音を聴き取るという具合に、いわゆる五官の機能が働くことで成り立っている。しかし、稀にこの感官機能の作用の仕方が他とは異なる人がいるという。

 たとえば、ランボー。「俺は母音の色を発明した。──Aは黒、Eは白、Iは赤、Oは青、Uは緑」(小林秀雄訳『地獄の季節』)。これは比喩ではなく、ランボーは実際にそのように感じ取っていたという説もあるらしい。あるいは、ロシアの作曲家・スクリャービンの作品「プロメテウス」に色彩のイメージが反映されていることも知られている。

 感覚経路が他の人とは異なるというだけで、治療の必要な病気ではない。ただ、他の人と物事の感じ取り方が違うだけ。日常生活を送る上で支障はない。ところが、大人になるにつれ、自身も周囲も、何かが変だと気付き始める。しかし、どこが変なのか、それを伝えること自体が不可能なのだ。いつしか共感覚者は自分の感じたことを素直に語るのをやめる。うわべでは周囲に合わせるが、それにつれて疎外感はいっそう深まり、自分自身の内面世界にこもることを余儀なくされてしまう。共感覚者にも色々なタイプがあり、自分と全く同じ感じ方をする人間に出会える確率はほとんどない。周囲に人々の息づかいは感じられるのに、完全な孤独…。

 ところが、ほとんどあり得ないはずの偶然が起こった──。先回りして言うと、それがこの映画の結末である。

 共感覚の少女・麻里(宮崎あおい)の周辺で不可解な連続殺人事件が起こる。ホラー・サスペンス風のタッチで始まるが、徐々に事件と関わりを持つ人々の抱える問題が明らかになってゆく。

 少女の兄(松田龍平)の倒錯した勘違い。妹の感覚を理解したつもりになって、彼女のためと称して次々と事件を起こす。もう一人の共感覚者・新介(江口洋介)は、自分の感覚が分かってもらえないというもどかしさを感じながらも恋人(小島聖)と付き合っている。以上、二人の共感覚者を軸とした関係の他に、自分が生きているリアリティーがないと悩む青年(安藤政信)や事件を追いながら自分自身のトラウマを思い出していく女性警部(石田ゆり子)、どこか頭の切れているヤクザ(鳥肌実)が絡んでストーリーは展開する。

 それぞれ立場は違う。しかし共通しているのは、“何かを感じ取る”という手ごたえがないままにさまよい続けているという点だ。作品全体に通底するこうしたもどかしさが、“共感覚”というモチーフによってシンボリックに表現されている。

 一人の人間が別の人間の感覚を理解できるなんてことがそもそもあり得るのだろうか?

 リベラリズムを基本とする現代社会では、価値観の多様性を容認することに大きなプライオリティーが置かれている。よく言えば、思想信条の自由、言論の自由、諸々の自由…。しかしこれを裏返すと、自明なものとして共有されていた暗黙の価値観が失われ、島宇宙的に並列する一人ひとりの価値観の寄せ集めとして社会を組み立てなおさねばならないという問題が露わとなっている。その応急措置的な対策として“自由”という言葉が使われているに過ぎないとも言える。

 “言論の自由”が保障されているから我々は理解しあえるきっかけが与えられているのではない。むしろ逆だ。我々は互いに理解しあえないからこそ、棲み分けのために“価値観の自由”というルールが必要なのである。

 要するに“分かりあえない”という感覚は成熟した近代社会において決して不自然なものではない。むしろ、そのもどかしさを前提としてこの世の中は成り立っている。あとは、そのもどかしさを引き受けるか、目を背けるかのどちらかである。

 映画のラスト、麻里が自分と全く同じ感受性を持った共感覚者であることを新介は知る。しかし、彼は分かりあえないもどかしさを抱えながらも恋人と結婚すると決めたばかりであった。

 彼らがその後どうなったのか、映画では明らかにされない。しかし、“分かりあえない”という前提を踏まえながらもなおかつ互いを受け容れあう覚悟を持つのか、それとも、絶望的なほどに確率は低くとも“分かりあえる”相手を果てしなく探し続けるのか。この作品を通じて観客は突きつけられている。

【データ】
・監督:松浦徹
・脚本:坂元裕二
・製作:アートポート、松竹、ユーロスペース、関西テレビ放送
・カラー/121分

(2006年1月、新宿武蔵野館にて)

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コメント


 政治の世界というのは、良くも悪くも社会の縮図だと思う
が、私の、いわば“政治の師匠”が最近こんなことを言って
いた(というのを聞いた)。
 「この世界はな、白黒つけようとすると前へ進まん時が
あるんや。決着つけたらあかんねん」
 森羅万象がこの言葉に当てはまるわけでは無論ないが、
人と人とが“分かり合える”というのも、所詮はそんなものでは
ないだろうか・・・ね?

投稿: | 2006年12月28日 (木) 09時16分

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