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2006年12月12日 (火)

はじめに

 こんな方針でブログを運営しようと思います。
① 話題は読書と映画を中心とする(他に趣味がないもので…)。
② 身辺雑記は書かない(書いたって、どうせドラマはありませんから…)。
③ 格好つけずに率直に。批判を恐れず、思いつきでも書いてみる(書き込みへの批判に備えた言い訳です…)。

 私はブログ初心者です。書くのは無論初めてですが、他の方々のブログを読むこともあまりありませんでした。

 また、これからブログを開くに当って、実は読んでもらうことを期待していません。そんなに面白いことを書けるわけがありませんから。

 それなのに、なぜブログなんか始めたのか? 友人から慫慂を受けたというきっかけが直接にはありましたが、それだけではありません。

 ここのところ、自分の思考力が衰えているのを感じています。それは、文章を書く習慣が薄れたせいだと考えています。そこで、最近、ノートを用意して日記をつけようと試みたのですが、3日もすると面倒になってほったらかし。書こうという意欲が湧かないのです。

 書くことは、ものを考える上で不可欠な行為です。自分の意見と思っているものでも意外と他人からの受け売りは多いものですが、それを再吟味するためにも自分自身で文章をつづる作業が有効です。

 言葉には二つの役割があると思います。

 第一に、意見の伝達道具としての言葉。自分の考えを根拠とロジックに基づいて整理し、相手を説得します。

 第二に、自らを映し出す鏡としての言葉。モヤモヤと自分の中にわだかまっているアモルファスな流れ、自分の中に渦巻いているのに、自分でもよく分からないという苛立ちをふと感ずることがあります。そうした表現しがたい何かに、少しずつでも形を与える試行錯誤を通して、自分の生身の感覚を追体験的に意識化する。そうした作業のためにも言葉は効果的です。

 つまり、自身を映し出す鏡として言葉を使ってみる。それは同時に、他人へのコミュニケーション・ツールでもあります。すると、きっかけは自分一人の自己満足のためであったとしても、文章をつづるにはどうしても相手が必要なのです。日記のようにひっそりと自己完結的にまとめるのが可能な表現手段であっても、読まれるという前提がなければ書き進めることができないのです。

 読まれることを期待していないのに、読まれることを前提に書く。何だか妙な話ですよね。ディスプレイの向こうに広がるネットの世界に、私を見ている人が誰かいるのか、ひょっとしたら誰もいないのか、実感的には確証できません。たとえ誰もいなくとも、あたかもいるかのような緊張感を自分に強いると言ったらいいでしょうか。何だか、フーコーが『監獄の誕生』で取り上げたパノプティコンみたいですが(ちょっと違うか…)。

 ブログのタイトルは、「ものろぎや・そりてえる」。寂しき独白、とでも言いましょうか。私は辻潤という人が好きで、彼の文章から拝借しました。

 モノローグとは言っても、特に構えてコミュニケーションを拒絶するつもりはありません。コメントをつけていただけるのは大歓迎です。

 それでは、よろしくお願いします。

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コメント

「ものろぎや・そりてえる」開設オメデトウ。
これから楽しみに読ませて頂く。

投稿: みつぼ | 2006年12月14日 (木) 09時45分

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