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2006年12月21日 (木)

本田・内藤・後藤『「ニート」って言うな!』

 前回に引き続き、本田由紀さんの本を取り上げます。本田由紀・内藤朝雄・後藤和智『「ニート」って言うな!』(光文社新書、2006年)のレビューと、それを踏まえて「ニート」論の問題点をまとめたメモです。

【本書の構成】

 第一部では本田由紀(教育社会学、東京大学助教授)が、統計データ解釈の間違いを指摘することで、一般に流布されている「ニート」論の誤解を解きほぐし、代替的な政策提言へと話題を進める。本田の議論を踏まえて、第二部では内藤朝雄(社会学、明治大学専任講師)が、誤解された「ニート」イメージがいかにマスコミを通してばらまかれていくのか、そうしたメカニズムの解明を試みている。第三部では後藤和智(東北大学工学部在学中、若者論検証のブログを主宰)が書籍や新聞、雑誌等に登場した「ニート」論を個別に検証する作業を行っている。

 イメージ的に広まってしまった言葉の扱いは非常に難しい。論点を世間に訴える上でアトラクティヴな言葉を使うのは、当然ながら必要である。ただその一方で、言葉が独り歩きを始めてしまうと、実態からかけ離れたイメージによりかかって議論が上滑りし、下手すると、その肥大化したイメージ自体が真実とみなされてしまう。「ニート」をめぐる議論にも、そうした問題点が窺える。

 従って、そうしたイメージ的な思い込みを丁寧に解きほぐし、より実態に近づけた議論につなげるべく言葉の持つ副作用を中和する役割を誰かが果たさねばならない。その点、第一部の議論は、「ニート」という言葉について世間的に広まっている誤解を解きほぐそうという姿勢が明確で、建設的な内容を持っている。

 一般的に“働く意欲のない人”というイメージが抱かれている狭い意味での「ニート」は、統計データを丁寧に読み直してみると、実は歴史的に増減が認められないことが第一部では示された。問題となっているのは、「ニート」そのものではなく、「ニート」に対して向けられた社会的なまなざしの変化の方なのではないか? そのような問題意識を持って第二部ではメディア・リテラシーに関わる議論が試みられている。この問題意識自体は非常に興味深いのだが、残念ながら筆者の議論の進め方が紋切り型のメディア批判に終始してしまい、不消化感が残ってしまった。この論点がもっと充実していれば、本書全体が「ニート」論を素材としたメディア・リテラシー論として面白いものに仕上がっただろうに、残念である。

 第三部は「ニート」論をめぐる全体的なレビューとして参考になる。

※以下、本書を踏まえて「ニート」概念の問題点についてまとめる。

【「ニート」の定義──イギリスと日本との違い】

 「ニート」という言葉が一般に広まったのは玄田有史・曲沼美恵『ニート──フリーターでもなく失業者でもなく』(幻冬舎、2004)が話題となって以降のことである。あっという間に社会事象を表わすキーワードとして一種の流行語とも言うべき広がりを見せた。しかし、この言葉がどのような背景で用いられていたのか、意外と知られていない。

 日本では「ニート」とカタカナ表記の言葉として人口に膾炙しているが、本来は“NEET”、すなわち“Not in Education, Employment, or Training”の略語である。最初にこの言葉が用いられたイギリスでは年齢層としては16~18歳を想定し、失業者が含まれる。

 一方、日本での捉え方は年齢層に幅があって15~34歳が想定され、失業者は含まれない。従って、日本の『労働経済白書』をはじめ統計資料などで用いられる「ニート」の定義はイギリスと異なり、「15~34歳までの若者、学生ではない未婚者、求職活動をしていない者」とされている。いわゆる「家事手伝い」をここに含むかどうかは議論されている。

 この“NEET”概念は1990年代から使われ始めたという。もともとイギリスでは、「社会的排除」の対象となっている人々をどのように救い上げるのかという社会政策的なコンテクストの中でこの言葉は用いられてきた。つまり、貧困、低学歴、人種的マイノリティーなど社会的に不利な立場に立たされ、将来的に希望を持つことのできない人々の問題点を把握する必要上生み出された概念なのである。

 ところが、日本においてはいわゆる「ひきこもり」とイメージ的に重ねて用いられる傾向が強い。“余裕はあるのにやる気がない”者の甘えという心構え論に還元されてしまい、社会構造上の問題を把握するための中性的テクニカルタームとしてこの言葉を用いるのが困難になってしまった。言い換えるなら、日本においても貧困・低学歴など社会的に不利な環境要因によって生じている階級格差の問題は目立たないながらもやはり存在している。また、身体障害者なども形式上「ニート」に分類されることになる。これらの問題を把握するための思考ツールとして使いづらい風潮が醸成されてしまったこと、そこに「ニート」定義の混乱による問題点が見出される。

【日本における「ニート」論の現状】

 以上にみたように「ニート」の定義がそもそも混乱しているため、日本の労働市場に関する統計資料を読み解く上でも錯誤を引き起こす可能性が高くなった。つまり、それぞれに別個の事情を抱えている人々を、この「ニート」という一語で十把ひとからげにまとめてしまったことで、問題の多様性が見えづらくなっていることが第一に指摘される。

 第二に、先にも触れたように「ニート」には「不登校」や「ひきこもり」に近いイメージが世間的に抱かれている。しかし、「ひきこもり」は「ニート」の中のごく一部に過ぎない。ごく一部のイメージに過ぎないものが「ニート」全体にまで拡大されることで、実態からかけ離れた議論が場当たり的な印象論で語られてしまうことにも大きな問題がある。

 『青少年の就労に関する研究調査』(内閣府)の第Ⅱ部『就業構造基本調査』では、「ニート」はおおむね85万人という推計が出ている。これは「非求職型」(約43万人)と「非希望型」(約42万人)という2つのグループの合算として示された数字である。後者の「非希望型」がいわゆる“働こうにもそもそも意欲がない”という世間的な「ニート」イメージに近い層である。

 それでは、前者の「非求職型」とはどのような人々か。これは単に「現時点で仕事に就いておらず、かつ求職活動をしていない」という生活形態に着目しただけで、本人の“意欲”のあり方を指標として分類されたものではない。

 「非求職型」の内訳をさらによく見てみると、その理由としては「病気・ケガのため」や「その他」が多い。「その他」はそれぞれの個別の事情によるため一般化できない理由である。「病気・ケガのため」には、調査時点より半年前までの時期には仕事に就いていた人が多く、過酷な労働条件で体調を崩した、あるいは精神面でのケアを必要としているなどの事情が考えられる。つまり、「ニート」に分類されていても「非求職型」については本人の“意欲”に還元される問題ではなく、本人を取り巻く環境条件によって生じた問題が背景にあると言える。各自の抱える事情によって求職活動はしていないが“意欲”はあるという点で、「非求職型」の「ニート」と「求職型」(いわゆる失業者)やフリーターとの境界が曖昧なのである。

 このように異なるタイプの数字が「ニート」という一言で括られている。しかも両者の比率は半々である。「非希望型」を考慮に入れても、全く何もしていない“純粋無業”は、「ニート」全体の1/3ほど。残りの2/3は、現時点では特定の職業に就いていないというだけで、少なくとも何かはしている。つまり、「ニート」と一言で括られてはいても、「いま働いていない」という点で共通しているだけで、実は多様な人々が混在している。従って、世間的によくある「働く意欲がないのが問題だ」という議論も、対する玄田有史の「いや、働きたくても働けないのが問題なのだ」という反論も、実は水掛け論に終わるしかない。

 近年、「ニート」の統計数字における増加は著しい。マスコミを通して85万人という数字がセンセーショナルに喧伝される。しかし、その増加の内訳を見ると、ほとんど「非求職型」の増加によるものなのである。一方、“働く意欲がない”という通俗的な「ニート」イメージに合致する「非希望型」についてはまったくと言っていいほど増減がない。

 この「非希望型」のタイプは、同年齢層の約1%程度の割合で昔から存在していた。増減に変化が見られないにもかかわらず、なぜ今ごろになって社会問題としてクローズアップされるのだろうか? むしろ、「求職型」の若年失業者やフリーターが増加している労働環境悪化の方こそ数的規模においてはるかに深刻である。

 以上にみた混乱は「ニート」と呼ばれる人々の問題というよりも、「ニート」というイメージを形成するに至った、社会全体の視線の取り方自体が変化したことに理由が求められるのではないか。“働く意欲を持たない”という点では、たとえば夏目漱石の小説に登場する“高等遊民”も、宗教的な出家者や山伏も「ニート」に分類される。広く歴史的にみるならありふれた存在である。つまり、「ニート」論がこれほど騒がしくなっている背景には、社会的なスタンダードから外れた生活形態を取る者に対して不寛容な画一的視線が社会全体を覆っていることが示されていると言える。

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コメント


  日本で使われている「ニート」って、二十年前くらいに流行した、「新人類」みたいな感覚で使われていると思う。
  特別な社会学的意味は無いんじゃないか。
  ただ、流行っているから使っているだけで。
  それと、差別的なニュアンスもあるね。
  「○ョン」とか「○ャンコロ」というのと同じで。

投稿: | 2006年12月25日 (月) 11時47分

 本来、社会学的意味を持っていたものが、単なる流行語になってしまって混乱しているのが問題だね。去年の今頃、玄田有史さんの講演を聞く機会があった。冗談めかしてだが、流行語大賞にもれて残念みたいな話をしていた。
 もう一つ問題がある。やはり去年、玄田さんが組織学会で行なった講演では、①ニートと同世代の若者にニート支援をさせる、②政府の補助が見込めるからビジネスとして成り立つという趣旨の話があった。
 本田由紀さんがこういう批判をしている。ニートと言えば政府は補助金をくれる、玄田さんの最近の行動には補助金狙いのために「ニート」概念をやたらと拡大しているとしか見えない、という。
 土曜日にNHK教育テレビの番組で組まれたニート特集をみていたら、大阪のNPOが、玄田さんが講演で語っていた構想をまさにそのまま実践に移していた。
 玄田さんの議論には傾聴すべきものが確かにあるのだが、ニート概念がやたらと大手を振っている昨今の状況をみると、少々首をかしげざるを得ない。

投稿: トゥルバドゥール→みつぼ氏 | 2006年12月25日 (月) 12時31分

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