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2006年12月22日 (金)

「白バラの祈り」

 第二次世界大戦末期、敗色濃厚なドイツ。反戦平和を訴えるビラを配った学生グループ・白バラ抵抗運動が摘発され、即決裁判で処刑されるという事件があった。その中の一人、ゾフィー・ショルという少女の逮捕から処刑に至る四日間に焦点を当てた作品である。

 冷たい壁に囲まれた牢獄、高窓から降りそそぐ光を浴びながらゾフィーは祈る。その横顔を見ながら、むかし学生のときに観た映画をふと思い出した。

 それは、ジャンヌ・ダルクの生涯を描いた映画。よく似た構図でジャンヌが神に祈るシーンがあった。政治的な駆け引きなど思いもよらない。私はただ正しいと信じたことをしたまでのこと、どうしてこんな目に遭わなければならないのか分からない、神様どうしてですか…。そうした無垢な少女が政治の動きに翻弄されながら葛藤する姿を描いていたように記憶している。

 ただし、ジャンヌとゾフィーとを、政治の犠牲となった哀れな聖女として引き比べるつもりはない。私が思いを巡らせたのはもっと別なことだ。

 この映画の大半は、ゲシュタポによる尋問や法廷での審理(と言っても、裁判長が一人でナチズム・イデオロギーをまくし立てるだけだが)に時間が割かれている。いずれにしても、被疑者と告発者とが双方の主張を論理で戦わせる場面のはずなのだが、全くかみあわない。ゲシュタポの取調官も裁判官もナチスの正当性を声高に怒鳴るだけ。対するショル兄妹にしても、平和の大切さや言論の自由といった大義名分を訴えるにとどまり、言葉の内容自体に特段の魅力があるわけではない。相互の主張が一方通行。言葉による説得が最初から期待されない空間の中で物語が進行する。

 つまり、最初から作られた結論ありき、言葉を使ってはいてもそこに人間の顔を見ることができないおぞましさ。ジャンヌ・ダルクを思い出した理由もここにある。カギ十字の旗がひらめくいかつい石造建築の中で進行する儀式は、中世の異端審問と全く変わらない。

 だからナチスは異常だった、という結論にまとめるつもりもない。

 政治的イデオロギーを語らないところで人の顔が見えてくるシーンがいくつかあった。たとえば、法廷でのワンシーン。裁判長が反ナチス活動家は人ではないと罵り続けた後、陪席判事に「意見は?」とたずねる。彼はうんざりしたような表情で投げやりにたった一言、「ありません」。あるいは、死刑執行の直前、看守のおばさんが「これは規則違反なんだけどね」と言いながらタバコをくれる。

 何よりも次のシーンが印象に残っている。ショル兄妹は死刑直前に両親と会うことができた。面会室から出てきたところ、ゾフィーを取り調べたゲシュタポのモラーが黙って立っている。目を涙で濡らしていたゾフィーは手で拭きながら「両親に会えたからよ」と強がる。モラーは無表情にうなずいた。ゾフィーは政治犯として外部との接触を一切絶たれているわけだから、本来なら両親とだって会うことは不可能なはずだ。ひょっとすると、モラーが便宜を図ってくれたのかもしれない(モラーたちゲシュタポの事務官は、ショル兄妹に対してひそかに敬意を抱いていたらしい。C・ペトリ著、関楠生訳『白バラ抵抗運動の記録』(未来社、1971年)214-215頁を参照)。

 私は何を言おうとしているのか。言葉としては明晰な政治的イデオロギーを主張する場面には人間がいない。しかし、一定の主張から離れたごく些細な場面になって初めて人間らしい生身の顔が言葉少なに垣間見えてくる。

 モラーは職務遂行上必要だから法にのっとってナチスの正当性を語る。ナチスが正しいからではない。ナチスが法を作ったからだ。自分の心情を示すために言葉を使うことはない。モラーにも良心が残っていた、という話とは違う。ここの難しい機微は属人的に考えることはできない。彼が良い人か、悪い人か、そんなことは全く関係ないのである。

 法と自己とを明確に分け、法の決定には一切疑義を挟まず己を打ち消して服従するという倫理観こそがナチズムを成立させた。

 たとえば、ハンナ・アレントがアイヒマン裁判を傍聴して“悪の陳腐さ”と言い、同じくアイヒマン裁判を取り上げたドキュメンタリー映画「スペシャリスト」のサブタイトルに“自覚なき殺戮者”とあるのはこうした問題意識である。モラーにもまさにこの側面が窺える。

 さらに話を広げるなら、“官僚制”モデルが社会の隅々にまで行き渡った“合理的”な“近代”としてマックス・ヴェーバーが描き出した冷たいイメージ、その極限はドイツ第三帝国に見ることができる。つまり、一定のインプットがあれば各自の思惑とは全く異なる次元で自動的に遂行されるシステムが近代社会の条件である。そのインプットの内容的な価値は問題とならない。極論すれば、たまたまナチズムだったに過ぎない(なぜナチズムであったのかは大衆民主主義の病理として別に考えねばならない問題だ)。

 制度は言葉によって成り立つ。そして、言葉を自覚なしに使うと必ず無意味な虚言に堕する。ところで面白いことに、もっともらしい言葉さえあれば、その内容的な吟味が全然なされていなくとも立派にシステムは作動してしまうのだ。

 現代日本社会に生きる我々にとって、“平和”や“民主主義”は自明の前提である。一方、ナチスもまた彼らなりの文脈の中で“平和”や“民主主義”という言葉を口にした。彼らの言葉の使い方が間違っていたと言うのはたやすい。しかし、それでは単なる思考停止である。我々自身、“平和”や“民主主義”という言葉の中身をまともに考えなくとも、むしろ考えないからこそ無難に日常生活を送れるという事実を振り返ってみるべきだろう。

 正当性、法律、イデオロギー。何でもいいが、仮面として言葉のコードが一定の時代状況の中で成立する。そこに従うことが当たり前となり、本心から離れていても異議は唱えないのが“常識”とされ、そもそもそのズレに気付くことすらないかもしれない。ただ、生身の実感をたまたま言葉に出してしまった者だけが罪とされ、周囲から石つぶてを投げられる。

 それが、たとえばゾフィー・ショルであった。

 これをナチズム特有の問題と済ませてしまうのか、あるいは程度の差こそあれ現代社会においてもあり得ること、ひょっとすると“世論”と呼ばれる得体の知れぬものの問題として考えるのか。ここは各人の視点の取り方にかかってくる。

【データ】
原題:Sophie Scholl──Die Letzten Tage
監督:マルク・ローテムント
ドイツ/2005年/121分
配給:キネティック 

(2006年1月、日比谷シャンテシネにて)

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コメント


 アイヒマンもそうだったが、とにかく“役人根性”だよ。
 一口に説明するのは難しいが、端的に言えば、
 
 上司にへつらい、部下をいびる
 責任逃れを第一義に考える
 臆病で、恫喝に弱い

 といったところか。

投稿: | 2006年12月25日 (月) 11時43分

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