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2006年12月23日 (土)

“司法権の独立”が意味したもの①(戦前期日本の司法と政治①)

【はじめに】

 戦前期日本における司法制度の背景としてどのような思想史的な流れを読み取ることができるのかというテーマに関心がある。平沼騏一郎がキーパーソンとなるであろうことは見当がついていた。しかし、平沼については右翼政治家としての側面に重点を置いた議論がほとんどで、司法という観点から正面きって論じた文献は驚くほどに少ない。

 そうした中、三谷太一郎『政治制度としての陪審制』(東京大学出版会、2001年)は非常に有益であった。本書は、政党(とりわけ政友会の原敬)と司法省(とりわけ平沼騏一郎)との間で繰り広げられた政治力学的なプロセスの検証により陪審制度成立の事情を解明した研究であるが、司法をめぐる日本政治史として貴重な手引きとなっている。本書で示された構図をもとに、平沼を中心する検察の動向を概観したい。

【検察の積極的な捜査活動】

 近代国家においては立法・行政・司法の三権分立が必須の条件とされる。しかしながら、戦前期の日本で“司法権の独立”は、理念としてではなく、生臭い政治性を通して示された点に大きな特徴がある。

 明治新政府の官制では司法省のステータスは低かった。藩閥勢力は大蔵省・内務省といった主要な行政機構、もしくは陸海軍の掌握を重視し、司法省には藩閥の政治力に縁のない人々が集まってきた。そのため、司法省の政治的中立性は結果として担保されたものの、他官庁より一段格下と軽んじられていた。

 平沼騏一郎は司法省の奨学金で学業をおえたため検察官僚として出発せざるを得なかったが、大蔵省や内務省に進んだ東京帝国大学の同窓生との落差には不満を抱いていたらしい。その後の平沼たち検察グループの動きには、法的正義の追求と同時に政治的野心もないまぜになった複雑なエネルギーが駆動力として垣間見える。

 平沼がその存在感を最初に示したのは明治43(1910)年の日糖事件である。これは、大日本製糖株式会社が輸入原料砂糖戻税法、つまり原料砂糖輸入関税の一部を製糖業者に返すという保護政策的な法案を成立させるために代議士への贈賄工作を行なった事件であり、政友会13名、憲政本党6名、大同倶楽部2名、合計21名が起訴された。平沼が指揮を取った捜査陣は手心を加えず、政友会が検察を脅威として認識するきっかけとなった。

 翌明治44(1911)年には大逆事件がおこった。捜査陣は平沼をはじめ日糖事件を摘発したのと同じメンバーであった。この事件において無実を申し立てている被告がいるにも拘わらずきちんとした取調べが行なわれないまま検察から一方的な事実認定がなされたことを原敬は伝え聞き、裁判の信頼性がそこなわれることを危惧したらしい。ここから原は陪審制導入の必要を痛感したという。

 検事総長となった平沼騏一郎は軍部にもメスを入れた。大正3(1914)年のシーメンス事件である。ドイツのシーメンス社、イギリスのヴィッカース社、三井物産などが軍艦や軍需品の発注をめぐり海軍の軍人に贈賄を行なった事件であり、平沼は呉鎮守府構内への捜査を断行した。この事件を受けて、海軍出身の山本権兵衛首相は内閣総辞職に追い込まれる。

 そして大正4(1915)年には山県有朋を頂点とする官僚閥にも一撃を加えた。いわゆる大浦事件である。大正4年の総選挙における選挙法違反、贈収賄容疑で内務大臣・大浦兼武に対する捜査を行なった。大浦は山県の側近である。山県は平沼に会見を申し込んだが、平沼は断ったという。結局、大浦は政界引退を条件として起訴猶予となったが、検察の威力に例外はないことが明確に示された。

(つづく)

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コメント

戦前は司法試験という独立した制度がなく、高等官試験の中に“司法科”というのがあったに過ぎないんじゃなかったかな。
そして、さらに歴史をさかのぼれば、帝大の法科を出れば、自動的に弁護士にはなれたとか何とかどこかで読んだ気がする。

投稿: みつぼ | 2006年12月19日 (火) 20時25分

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