帝人事件──もう一つのクーデター②(戦前期日本の司法と政治④)
(承前)
【帝人事件の経過】
昭和九年、「番町会を暴く」という記事が『時事新報』に掲載された。政財界に張りめぐらされた人脈を通して、台湾銀行の処理をめぐり鈴木商店傘下にあった帝国人造絹糸株式会社の株式が不法に授受されたという内容である(なお、この直後に『時事新報』社長で実業家・代議士の武藤山治が暗殺された。当時の『時事新報』は暴露的な記事を頻繁に掲載しており、中にはガセネタも多かったらしく、この武藤暗殺は別の記事絡みの怨恨だったという)。
この報道を鵜呑みにした検察はここぞとばかりに捜査に乗り出す。台湾銀行の元頭取や帝人の役員、さらには大蔵次官や銀行局長など5人の現役官僚が逮捕されたばかりか、足利尊氏問題で辞任したばかりの中島・前商工相までもが身柄を拘束された。
彼らに対しては拷問も含めた厳しい取調べが行われ、自白が強要されたと言われている。実は、この授受されたとされる時点において、当該株式は金融機関に担保として保管されており、外部に動かされた形跡はなかった。つまり、物証が何もないまま、自白のみを根拠にして事件の罪状が構成されたことが後になって判明する。そもそも検事たちは簿記の基本的な知識すら欠いたまま強引に辻褄合わせをして調書をでっち上げたらしい。
検察の手は現職閣僚の三土忠造にも及んだ。彼は任意出頭を求められて取調室に入ると、自身にも疑惑がかけられていることを告げられる。検事の語る“ストーリー”の矛盾点を逐一指摘しながら身に覚えのないことを主張したところ、検事は先に逮捕された中島を部屋に入れた。
慣れぬ拘置所暮らしの上、取調べのあまりの厳しさに中島は憔悴しきっていた。驚いたことに中島は「検事の言うことをそのまま認めて欲しい、そうすれば罪は軽くなる」などと言う。おそらく拘禁症であろう、中島は早く外に出たいと気持ちが焦るあまり、検事の言いなりになってしまったようだ。三土は中島の気弱を責め、知らないものは知らないと頑強に自分の主張を曲げなかった(野中盛隆『帝人疑獄』千倉書房、1935年)。
業を煮やした検察は方針を変えた。検察の作った筋立てに従わない→三土は嘘をついているという論法で、偽証罪で起訴したのである。なお、中島はこの時の自身の心理状況について、生涯で一番の恥辱であり、話すのは避けたいと後悔している(中島久万吉『政財界五十年』まつ出版、2004年)。
さらには、逮捕された大蔵次官・黒田英雄が検事正の岩村通世(後に司法次官、検事総長、第三次近衛内閣・東条英機内閣の司法大臣を歴任)宛に出した嘆願書が問題を一層深刻なものとした。それによると、受けとった株券は換金して政友会、三土、高橋是清の息子・是賢に渡したとされる。
実は、この嘆願書は捜査の指揮を取っていた黒田越郎検事の強制的な指示によって書かされたものだった。ところが、関係先を調べても何も出てこず、結局、検事調書すら作成できなかったような代物である。しかし、当初はそうした裏事情は分からず、各方面に与えた衝撃は大きかった。
事実がどうであれ、検察は動き、新聞はセンセーショナルに書きたてている。閣僚に疑惑がかかり、大蔵省にまで捜査が入ってしまった以上、政権の維持はもはや困難である。結局、高橋蔵相が辞表を提出し、齋藤内閣は総辞職を決めた。代わって、斉藤と同様に穏健派の海軍大将・岡田啓介が首相となった(昭和9~11年)。予算成立の責任を考えて高橋は蔵相に留任したが、疑惑を受けている三土は閣外に去った。
この頃、宮中にいた木戸幸一は大蔵省理財局長・青木一夫が来訪したのを受けて「三土氏に対する尋問を中心として大蔵省事件なるものの大蔵省側の観察を聴く。益々此の事件には不可解なる疑点の多きを感ず」(『木戸幸一日記』東京大学出版会、1966年)と記している。青木は学生の頃から三土と懇意にしていたことから彼のために各方面へと奔走しており、後に岡田啓介首相のもとへも訪れて直訴している(青木一夫『聖山随想』日本経済新聞社、1959年)。
根拠薄弱なまま無理な捜査が検察によって強行されていることはすでに政官界でささやかれていた。貴族院において東京帝国大学教授・美濃部達吉や弁護士出身の岩田宙造が検察の捜査手法に問題はなかったかと質問に立っている。こうした検察に対する疑念は元老・西園寺公望にも伝わっており(原田熊雄『西園寺公と政局 第2巻』岩波書店、1950年)、おそらく天皇の耳にも届いていたであろう。
三土は閣僚を歴任した大物政治家として前官礼遇、つまり大臣をやめて身分的には公職になくとも大臣同様の待遇を受けることとなっていた。前官礼遇者を起訴するには事前に天皇に知らせておく必要がある。司法大臣・小原直も岡田首相もこれには消極的で、三土逮捕の件について見合わせるよう司法省内で再調査をさせた。しかし、下からあがってくる結論はやはり変わらなかった。やむを得ず岡田は天皇のもとに参内した(『小原直回顧録』中公文庫、1986年)。
天皇は内閣から上ってきた案件についてはそのまま承認するのが慣わしとなっている。しかし、天皇自身が納得のいかない場合には、書類をしばらく机の上に置いたまま手に取らず、無言の意思表示をしたらしい。岡田の回想によると、この三土の件についても天皇は書類を手に取らず、暗に反対の意思を示したようである(『岡田啓介回顧録』中公文庫、1987年)。しかし、天皇は自分に意見があったとしても政治問題への介入はさし控えねばならない。三土は収監された。
(つづく)
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