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2006年12月

2006年12月31日 (日)

帝人事件──もう一つのクーデター②(戦前期日本の司法と政治④)

(承前)

【帝人事件の経過】

 昭和九年、「番町会を暴く」という記事が『時事新報』に掲載された。政財界に張りめぐらされた人脈を通して、台湾銀行の処理をめぐり鈴木商店傘下にあった帝国人造絹糸株式会社の株式が不法に授受されたという内容である(なお、この直後に『時事新報』社長で実業家・代議士の武藤山治が暗殺された。当時の『時事新報』は暴露的な記事を頻繁に掲載しており、中にはガセネタも多かったらしく、この武藤暗殺は別の記事絡みの怨恨だったという)。

 この報道を鵜呑みにした検察はここぞとばかりに捜査に乗り出す。台湾銀行の元頭取や帝人の役員、さらには大蔵次官や銀行局長など5人の現役官僚が逮捕されたばかりか、足利尊氏問題で辞任したばかりの中島・前商工相までもが身柄を拘束された。

 彼らに対しては拷問も含めた厳しい取調べが行われ、自白が強要されたと言われている。実は、この授受されたとされる時点において、当該株式は金融機関に担保として保管されており、外部に動かされた形跡はなかった。つまり、物証が何もないまま、自白のみを根拠にして事件の罪状が構成されたことが後になって判明する。そもそも検事たちは簿記の基本的な知識すら欠いたまま強引に辻褄合わせをして調書をでっち上げたらしい。

 検察の手は現職閣僚の三土忠造にも及んだ。彼は任意出頭を求められて取調室に入ると、自身にも疑惑がかけられていることを告げられる。検事の語る“ストーリー”の矛盾点を逐一指摘しながら身に覚えのないことを主張したところ、検事は先に逮捕された中島を部屋に入れた。

 慣れぬ拘置所暮らしの上、取調べのあまりの厳しさに中島は憔悴しきっていた。驚いたことに中島は「検事の言うことをそのまま認めて欲しい、そうすれば罪は軽くなる」などと言う。おそらく拘禁症であろう、中島は早く外に出たいと気持ちが焦るあまり、検事の言いなりになってしまったようだ。三土は中島の気弱を責め、知らないものは知らないと頑強に自分の主張を曲げなかった(野中盛隆『帝人疑獄』千倉書房、1935年)。

 業を煮やした検察は方針を変えた。検察の作った筋立てに従わない→三土は嘘をついているという論法で、偽証罪で起訴したのである。なお、中島はこの時の自身の心理状況について、生涯で一番の恥辱であり、話すのは避けたいと後悔している(中島久万吉『政財界五十年』まつ出版、2004年)。

 さらには、逮捕された大蔵次官・黒田英雄が検事正の岩村通世(後に司法次官、検事総長、第三次近衛内閣・東条英機内閣の司法大臣を歴任)宛に出した嘆願書が問題を一層深刻なものとした。それによると、受けとった株券は換金して政友会、三土、高橋是清の息子・是賢に渡したとされる。

 実は、この嘆願書は捜査の指揮を取っていた黒田越郎検事の強制的な指示によって書かされたものだった。ところが、関係先を調べても何も出てこず、結局、検事調書すら作成できなかったような代物である。しかし、当初はそうした裏事情は分からず、各方面に与えた衝撃は大きかった。

 事実がどうであれ、検察は動き、新聞はセンセーショナルに書きたてている。閣僚に疑惑がかかり、大蔵省にまで捜査が入ってしまった以上、政権の維持はもはや困難である。結局、高橋蔵相が辞表を提出し、齋藤内閣は総辞職を決めた。代わって、斉藤と同様に穏健派の海軍大将・岡田啓介が首相となった(昭和9~11年)。予算成立の責任を考えて高橋は蔵相に留任したが、疑惑を受けている三土は閣外に去った。

 この頃、宮中にいた木戸幸一は大蔵省理財局長・青木一夫が来訪したのを受けて「三土氏に対する尋問を中心として大蔵省事件なるものの大蔵省側の観察を聴く。益々此の事件には不可解なる疑点の多きを感ず」(『木戸幸一日記』東京大学出版会、1966年)と記している。青木は学生の頃から三土と懇意にしていたことから彼のために各方面へと奔走しており、後に岡田啓介首相のもとへも訪れて直訴している(青木一夫『聖山随想』日本経済新聞社、1959年)。

 根拠薄弱なまま無理な捜査が検察によって強行されていることはすでに政官界でささやかれていた。貴族院において東京帝国大学教授・美濃部達吉や弁護士出身の岩田宙造が検察の捜査手法に問題はなかったかと質問に立っている。こうした検察に対する疑念は元老・西園寺公望にも伝わっており(原田熊雄『西園寺公と政局 第2巻』岩波書店、1950年)、おそらく天皇の耳にも届いていたであろう。

 三土は閣僚を歴任した大物政治家として前官礼遇、つまり大臣をやめて身分的には公職になくとも大臣同様の待遇を受けることとなっていた。前官礼遇者を起訴するには事前に天皇に知らせておく必要がある。司法大臣・小原直も岡田首相もこれには消極的で、三土逮捕の件について見合わせるよう司法省内で再調査をさせた。しかし、下からあがってくる結論はやはり変わらなかった。やむを得ず岡田は天皇のもとに参内した(『小原直回顧録』中公文庫、1986年)。

 天皇は内閣から上ってきた案件についてはそのまま承認するのが慣わしとなっている。しかし、天皇自身が納得のいかない場合には、書類をしばらく机の上に置いたまま手に取らず、無言の意思表示をしたらしい。岡田の回想によると、この三土の件についても天皇は書類を手に取らず、暗に反対の意思を示したようである(『岡田啓介回顧録』中公文庫、1987年)。しかし、天皇は自分に意見があったとしても政治問題への介入はさし控えねばならない。三土は収監された。

(つづく)

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2006年12月30日 (土)

帝人事件──もう一つのクーデター①(戦前期日本の司法と政治③)

【政党不信の時代状況】

 昭和七年五月十五日、犬養毅首相が青年将校の放った銃弾により頭部に重傷を負い、翌日絶命した。いわゆる五・一五事件である。この銃弾は、老宰相の命を縮めたばかりでなく政党政治の息の根までも止めてしまった。

 大蔵大臣であると同時に政友会の前総裁でもあった高橋是清が臨時に首相代理となったものの、程なくして総辞職する。後継首相の人選は難航を極めたが、元老・西園寺公望や重臣たちの思惑により、大命は海軍大将・斎藤実に降った(昭和7~9年)。

 時代の空気は革新を叫ぶ勢力になびきつつあり、人々の政党に対する不信感は根深いものとなっていた。西園寺は政党中心の組閣はもはや不可能との判断を前提とせざるを得なかった。ただし、枢密院副議長の平沼騏一郎など右翼や軍部の強硬派とつながる勢力の政権掌握は何としても避けなければならない。そこで、海軍の長老だが穏健派の齋藤に白羽の矢が立てられ、政友・民政両党からも入閣させることで挙国一致の体裁を整えることとした。

 とりわけ経済問題への取組みには前政権からの継続性が求められ、高橋是清が大蔵大臣に留任した。経済政策には詳しいが根回しの苦手な高橋の補佐役として三土忠造も逓信大臣から鉄道大臣に横滑りして閣内に残った。三土は教育家出身、伊藤博文の知遇を得たのをきっかけに政友会入りした生粋の政党人である。

 世上には政党排撃の声が高く響いていた。斎藤内閣に代わってからも議会外から政党政治家に対する攻撃は依然としてやまず、倒閣運動はますます激しくなってゆく。まず狙われたのは商工大臣・中島久万吉であった。中島の書いた足利尊氏についての論文が右翼勢力によって取り上げられ、かつての南北朝正閏問題を再燃させる形で不毛な歴史論争が貴族院を舞台として繰り広げられた。

 南北朝正閏問題とは、南北朝時代は王朝が並列していたものと考えるのか、それとも皇統は万世一系というイデオロギーにより南北朝の分立を認めず南朝を正統とするのかをめぐる歴史論争だが、学問的というよりも政治的に議論が過熱した。南朝を正統とする場合には、北朝を後ろ盾として幕府を開いた足利尊氏は“逆賊”となる。結局、中島は辞任を余儀なくされた。

 さらに政友会内部の内紛により、文部大臣・鳩山一郎が対立する中島知久平グループの手によって汚職疑惑を衝かれた。こうした混乱の延長線上で齋藤内閣にとどめを刺すことになったのが帝人事件である。

(つづく)

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2006年12月29日 (金)

「好きだ、」

 ──どうにもならない壁にぶつかったとき、君ならどうする?

 ヨースケ(西島秀俊)がたずねた。何もないがらんどうの部屋の中。引越し先に決めたものの、荷物を入れるのが億劫。まるで彼自身の心象風景を示しているかのようだ。

 ──じっと目をつぶるわ。そして、好きだったときの自分を思い出す。そうすると、ちょっと元気が出るの。

 ──そう…。でも、俺には好きだった自分なんてあるんだろうか…。

 高校生の頃のヨースケ(瑛太)は、将来、音楽で身を立てようと川辺でいつも下手くそなギターの練習をしていた。自分で曲を作ろうとしても同じフレーズを繰り返すばかりで先に進まない。ユウ(宮崎あおい)はバカにしながらもいつもそばで聞いていた。

 ──同じとこばっかり繰り返すから覚えちゃった。全部できたらいつか聞かせてよ。

 17年後、ヨースケはレコードメーカーの営業として働いている。ある日、レコーディングに来た女性が、聞き覚えのあるフレーズをギターで弾き始めた。ユウ(永作博美)との偶然の再会。素人っぽい音を録るために、レコード制作会社で事務をしていた彼女がアルバイトで来たのだった。しかし、ヨースケがギターはもう弾いてないことを知って、ユウの表情はくもる。

 タイトルになっている「好きだ、」という言葉、これは観る人によって捉え方が違ってくるかもしれない。時を隔てた思春期、好きだった異性に色々と想いをめぐらす中、伝えたくてももどかしくそのまま飲み込んでしまった言葉として。あるいは、現実の日常生活に追われる中で忘れてしまったかつての情熱を記憶の深みから掘り起こし、肯定するために呼びかける言葉として。

 川べりにしゃがむユウとヨースケ。草むらがそよそよと風になびき、ユウの髪が静かにたなびく。カメラアングルは土手を歩く彼ら二人の姿を下から上へと捉える。青く澄んだり、たなびく雲に憂鬱な黄昏色が映えたり、場面に応じて表情を変えながら大きく映し出される空の色合いが実に美しい。
 
 石川寛の監督デビュー作「tokyo.sora」(2002)という映画を観たとき、我ながら不思議なくらいに強い思い入れを持った。

 人の息づかいが織り成す広い海のような東京の狭間、ひっそりと自身の抱えるものを模索する六人の女性。彼女たちはお互いのことをよくは知らないままに、微妙にすれ違いながら日々を過ごしてゆく。

 六人を結びつける明確なストーリーはない。むしろ、彼女たちのさり気ない生活光景の中でほの見えるふとした表情、その一つ一つを丁寧に切り取り、より合わせながら、東京という都市が一面において持つ静かな情感を、抑制的なタッチで醸し出していた。洗濯機が音を立てて回るコインランドリー、ビルの裏側にある非常階段、一人暮らしの殺風景な部屋、そうした普段なら気にも留めないシーンでも、どこか人の体温を感じられるような気持ちになってくる、そんな魅力にあふれる作品だった。

 いずれにせよ、ストーリーの運び方というよりも、映像そのものの発する静かなイメージが抒情詩と言うべき感情のゆらめきを観客の胸に引き起こす。そこに石川寛が作る映画の魅力を感じている。

【データ】

監督・脚本・撮影・編集:石川寛
音楽:菅野よう子
製作:アンデスフィルム、レントラックジャパン
配給:ビターズ・エンド
「好きだ、」製作委員会/2005/カラー/104分
(2006年3月、渋谷・アミューズCQNにて)

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2006年12月28日 (木)

「ギミー・ヘブン」

 “共感覚”という言葉をこの映画で初めて知った。

 通常、人々の知覚能力は、目で色彩を把握し、耳で音を聴き取るという具合に、いわゆる五官の機能が働くことで成り立っている。しかし、稀にこの感官機能の作用の仕方が他とは異なる人がいるという。

 たとえば、ランボー。「俺は母音の色を発明した。──Aは黒、Eは白、Iは赤、Oは青、Uは緑」(小林秀雄訳『地獄の季節』)。これは比喩ではなく、ランボーは実際にそのように感じ取っていたという説もあるらしい。あるいは、ロシアの作曲家・スクリャービンの作品「プロメテウス」に色彩のイメージが反映されていることも知られている。

 感覚経路が他の人とは異なるというだけで、治療の必要な病気ではない。ただ、他の人と物事の感じ取り方が違うだけ。日常生活を送る上で支障はない。ところが、大人になるにつれ、自身も周囲も、何かが変だと気付き始める。しかし、どこが変なのか、それを伝えること自体が不可能なのだ。いつしか共感覚者は自分の感じたことを素直に語るのをやめる。うわべでは周囲に合わせるが、それにつれて疎外感はいっそう深まり、自分自身の内面世界にこもることを余儀なくされてしまう。共感覚者にも色々なタイプがあり、自分と全く同じ感じ方をする人間に出会える確率はほとんどない。周囲に人々の息づかいは感じられるのに、完全な孤独…。

 ところが、ほとんどあり得ないはずの偶然が起こった──。先回りして言うと、それがこの映画の結末である。

 共感覚の少女・麻里(宮崎あおい)の周辺で不可解な連続殺人事件が起こる。ホラー・サスペンス風のタッチで始まるが、徐々に事件と関わりを持つ人々の抱える問題が明らかになってゆく。

 少女の兄(松田龍平)の倒錯した勘違い。妹の感覚を理解したつもりになって、彼女のためと称して次々と事件を起こす。もう一人の共感覚者・新介(江口洋介)は、自分の感覚が分かってもらえないというもどかしさを感じながらも恋人(小島聖)と付き合っている。以上、二人の共感覚者を軸とした関係の他に、自分が生きているリアリティーがないと悩む青年(安藤政信)や事件を追いながら自分自身のトラウマを思い出していく女性警部(石田ゆり子)、どこか頭の切れているヤクザ(鳥肌実)が絡んでストーリーは展開する。

 それぞれ立場は違う。しかし共通しているのは、“何かを感じ取る”という手ごたえがないままにさまよい続けているという点だ。作品全体に通底するこうしたもどかしさが、“共感覚”というモチーフによってシンボリックに表現されている。

 一人の人間が別の人間の感覚を理解できるなんてことがそもそもあり得るのだろうか?

 リベラリズムを基本とする現代社会では、価値観の多様性を容認することに大きなプライオリティーが置かれている。よく言えば、思想信条の自由、言論の自由、諸々の自由…。しかしこれを裏返すと、自明なものとして共有されていた暗黙の価値観が失われ、島宇宙的に並列する一人ひとりの価値観の寄せ集めとして社会を組み立てなおさねばならないという問題が露わとなっている。その応急措置的な対策として“自由”という言葉が使われているに過ぎないとも言える。

 “言論の自由”が保障されているから我々は理解しあえるきっかけが与えられているのではない。むしろ逆だ。我々は互いに理解しあえないからこそ、棲み分けのために“価値観の自由”というルールが必要なのである。

 要するに“分かりあえない”という感覚は成熟した近代社会において決して不自然なものではない。むしろ、そのもどかしさを前提としてこの世の中は成り立っている。あとは、そのもどかしさを引き受けるか、目を背けるかのどちらかである。

 映画のラスト、麻里が自分と全く同じ感受性を持った共感覚者であることを新介は知る。しかし、彼は分かりあえないもどかしさを抱えながらも恋人と結婚すると決めたばかりであった。

 彼らがその後どうなったのか、映画では明らかにされない。しかし、“分かりあえない”という前提を踏まえながらもなおかつ互いを受け容れあう覚悟を持つのか、それとも、絶望的なほどに確率は低くとも“分かりあえる”相手を果てしなく探し続けるのか。この作品を通じて観客は突きつけられている。

【データ】
・監督:松浦徹
・脚本:坂元裕二
・製作:アートポート、松竹、ユーロスペース、関西テレビ放送
・カラー/121分

(2006年1月、新宿武蔵野館にて)

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2006年12月24日 (日)

“司法権の独立”が意味したもの②(戦前期日本の司法と政治②)

(承前)

【“司法権の独立”が意味したもの】

 以上の経過をまとめると、日糖事件で政党、シーメンス事件で軍部、大浦事件で山県系官僚閥が打撃を受け、平沼をリーダーとする検察権は独自の存在感を認知された。つまり、政治的な捜査活動を通して“司法権の独立”を力ずくで勝ち取ったとも言える。こうした検察の容赦ない動きは各方面で脅威として受け止められた。

 原敬は検察を政治システム面で牽制するために陪審制の導入を目指し、他方で平沼グループを人的に自らの陣営に取り込もうと働きかけた。その結果、司法省内で平沼に次ぐポジションにあった鈴木喜三郎の政友会入りが実現した。これは、明治憲法体制において行政から独立した存在であった軍部を政党政治の枠組みに取り込むため陸軍から田中義一を政友会に迎え入れたのと同じ構図である。つまり、“統帥権の独立”と同じ問題構造を“司法権の独立”もはらんでいたことを原は鋭敏に察知していたのである。

 また、検察の過酷な捜査活動はしばしば深刻な人権蹂躙を伴った。大逆事件が冤罪であったことは現在では周知の事実である。この点も意識して原は陪審制の実現に向けて力を入れた。これは大正デモクラシーという時代風潮の中、国民の司法参加として政友会のイメージアップにもつながった。

 平沼たち検察の活動を軸に据えて振り返ると、大逆事件の位置付けも微妙に変わってくるのではなかろうか。大逆事件については、国家権力が社会主義者・無政府主義者を狙い撃ちした事件として特筆大書されるのが通例である。しかし、実際には政府関係者の足並みはそろっていなかった。検察の動向を時系列的に整理すると、検察の自己主張として政党、軍部、山県閥と各方面にわたって捜査活動が展開される中で大逆事件もまた同一地平に並べることができる。鵜沢総明、花井卓蔵、磯部四郎など政友会系の法曹家が弁護を引き受け、原敬が大逆事件の成り行きに危惧を抱いていたことも考え合わせると、国家による左翼への弾圧という側面ばかりでなく、検察活動自体がはらむ問題として捉え返す視点も必要であろう。

 こうした検察権力の問題を、理論的・思想的にはどのように考えるべきだろうか。平沼たちが“司法権の独立”を目指して積極的な捜査活動を展開する直前の明治40年に刑法が改正されていた。この改正刑法に影響を与えた新派刑法理論に注目したい。

 新派刑法理論の代表者・牧野英一は罪刑法定主義を否定し、“社会の必要”に応じて司法家は判断すべきだと主張していた。法律というタガを外した上で司法家が判断するとなれば、その恣意的な暴走は一体誰が食い止めるのか? “司法権の独立”が昭和に入って“検察ファッショ”と呼ばれる事態を惹き起こしたことの背景をもう一度洗いなおす必要がある。

 なお、牧野英一については、精神障害と犯罪というテーマで思想史家の芹沢一也が興味深い論考を発表しているので、別の機会に紹介したい(『〈法〉から解放される権力』新曜社、2001年。『狂気と犯罪』講談社、2005年)。

【取り上げた本について】
三谷太一郎『政治制度としての陪審制──近代日本の司法権と政治』東京大学出版会、2001年。旧版は『近代日本の司法権と政党──陪審制成立の政治史』塙書房、1980年。著者は成蹊大学法学部教授、東京大学名誉教授。主要著書として『二つの戦後』(筑摩書房、1988年)、『新版 大正デモクラシー論』(東京大学出版会、1995年)、『増補 日本政党政治の形成』(東京大学出版会、1995年)、『近代日本の戦争と政治』(岩波書店、1997年)などがある。

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2006年12月23日 (土)

“司法権の独立”が意味したもの①(戦前期日本の司法と政治①)

【はじめに】

 戦前期日本における司法制度の背景としてどのような思想史的な流れを読み取ることができるのかというテーマに関心がある。平沼騏一郎がキーパーソンとなるであろうことは見当がついていた。しかし、平沼については右翼政治家としての側面に重点を置いた議論がほとんどで、司法という観点から正面きって論じた文献は驚くほどに少ない。

 そうした中、三谷太一郎『政治制度としての陪審制』(東京大学出版会、2001年)は非常に有益であった。本書は、政党(とりわけ政友会の原敬)と司法省(とりわけ平沼騏一郎)との間で繰り広げられた政治力学的なプロセスの検証により陪審制度成立の事情を解明した研究であるが、司法をめぐる日本政治史として貴重な手引きとなっている。本書で示された構図をもとに、平沼を中心する検察の動向を概観したい。

【検察の積極的な捜査活動】

 近代国家においては立法・行政・司法の三権分立が必須の条件とされる。しかしながら、戦前期の日本で“司法権の独立”は、理念としてではなく、生臭い政治性を通して示された点に大きな特徴がある。

 明治新政府の官制では司法省のステータスは低かった。藩閥勢力は大蔵省・内務省といった主要な行政機構、もしくは陸海軍の掌握を重視し、司法省には藩閥の政治力に縁のない人々が集まってきた。そのため、司法省の政治的中立性は結果として担保されたものの、他官庁より一段格下と軽んじられていた。

 平沼騏一郎は司法省の奨学金で学業をおえたため検察官僚として出発せざるを得なかったが、大蔵省や内務省に進んだ東京帝国大学の同窓生との落差には不満を抱いていたらしい。その後の平沼たち検察グループの動きには、法的正義の追求と同時に政治的野心もないまぜになった複雑なエネルギーが駆動力として垣間見える。

 平沼がその存在感を最初に示したのは明治43(1910)年の日糖事件である。これは、大日本製糖株式会社が輸入原料砂糖戻税法、つまり原料砂糖輸入関税の一部を製糖業者に返すという保護政策的な法案を成立させるために代議士への贈賄工作を行なった事件であり、政友会13名、憲政本党6名、大同倶楽部2名、合計21名が起訴された。平沼が指揮を取った捜査陣は手心を加えず、政友会が検察を脅威として認識するきっかけとなった。

 翌明治44(1911)年には大逆事件がおこった。捜査陣は平沼をはじめ日糖事件を摘発したのと同じメンバーであった。この事件において無実を申し立てている被告がいるにも拘わらずきちんとした取調べが行なわれないまま検察から一方的な事実認定がなされたことを原敬は伝え聞き、裁判の信頼性がそこなわれることを危惧したらしい。ここから原は陪審制導入の必要を痛感したという。

 検事総長となった平沼騏一郎は軍部にもメスを入れた。大正3(1914)年のシーメンス事件である。ドイツのシーメンス社、イギリスのヴィッカース社、三井物産などが軍艦や軍需品の発注をめぐり海軍の軍人に贈賄を行なった事件であり、平沼は呉鎮守府構内への捜査を断行した。この事件を受けて、海軍出身の山本権兵衛首相は内閣総辞職に追い込まれる。

 そして大正4(1915)年には山県有朋を頂点とする官僚閥にも一撃を加えた。いわゆる大浦事件である。大正4年の総選挙における選挙法違反、贈収賄容疑で内務大臣・大浦兼武に対する捜査を行なった。大浦は山県の側近である。山県は平沼に会見を申し込んだが、平沼は断ったという。結局、大浦は政界引退を条件として起訴猶予となったが、検察の威力に例外はないことが明確に示された。

(つづく)

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2006年12月22日 (金)

「白バラの祈り」

 第二次世界大戦末期、敗色濃厚なドイツ。反戦平和を訴えるビラを配った学生グループ・白バラ抵抗運動が摘発され、即決裁判で処刑されるという事件があった。その中の一人、ゾフィー・ショルという少女の逮捕から処刑に至る四日間に焦点を当てた作品である。

 冷たい壁に囲まれた牢獄、高窓から降りそそぐ光を浴びながらゾフィーは祈る。その横顔を見ながら、むかし学生のときに観た映画をふと思い出した。

 それは、ジャンヌ・ダルクの生涯を描いた映画。よく似た構図でジャンヌが神に祈るシーンがあった。政治的な駆け引きなど思いもよらない。私はただ正しいと信じたことをしたまでのこと、どうしてこんな目に遭わなければならないのか分からない、神様どうしてですか…。そうした無垢な少女が政治の動きに翻弄されながら葛藤する姿を描いていたように記憶している。

 ただし、ジャンヌとゾフィーとを、政治の犠牲となった哀れな聖女として引き比べるつもりはない。私が思いを巡らせたのはもっと別なことだ。

 この映画の大半は、ゲシュタポによる尋問や法廷での審理(と言っても、裁判長が一人でナチズム・イデオロギーをまくし立てるだけだが)に時間が割かれている。いずれにしても、被疑者と告発者とが双方の主張を論理で戦わせる場面のはずなのだが、全くかみあわない。ゲシュタポの取調官も裁判官もナチスの正当性を声高に怒鳴るだけ。対するショル兄妹にしても、平和の大切さや言論の自由といった大義名分を訴えるにとどまり、言葉の内容自体に特段の魅力があるわけではない。相互の主張が一方通行。言葉による説得が最初から期待されない空間の中で物語が進行する。

 つまり、最初から作られた結論ありき、言葉を使ってはいてもそこに人間の顔を見ることができないおぞましさ。ジャンヌ・ダルクを思い出した理由もここにある。カギ十字の旗がひらめくいかつい石造建築の中で進行する儀式は、中世の異端審問と全く変わらない。

 だからナチスは異常だった、という結論にまとめるつもりもない。

 政治的イデオロギーを語らないところで人の顔が見えてくるシーンがいくつかあった。たとえば、法廷でのワンシーン。裁判長が反ナチス活動家は人ではないと罵り続けた後、陪席判事に「意見は?」とたずねる。彼はうんざりしたような表情で投げやりにたった一言、「ありません」。あるいは、死刑執行の直前、看守のおばさんが「これは規則違反なんだけどね」と言いながらタバコをくれる。

 何よりも次のシーンが印象に残っている。ショル兄妹は死刑直前に両親と会うことができた。面会室から出てきたところ、ゾフィーを取り調べたゲシュタポのモラーが黙って立っている。目を涙で濡らしていたゾフィーは手で拭きながら「両親に会えたからよ」と強がる。モラーは無表情にうなずいた。ゾフィーは政治犯として外部との接触を一切絶たれているわけだから、本来なら両親とだって会うことは不可能なはずだ。ひょっとすると、モラーが便宜を図ってくれたのかもしれない(モラーたちゲシュタポの事務官は、ショル兄妹に対してひそかに敬意を抱いていたらしい。C・ペトリ著、関楠生訳『白バラ抵抗運動の記録』(未来社、1971年)214-215頁を参照)。

 私は何を言おうとしているのか。言葉としては明晰な政治的イデオロギーを主張する場面には人間がいない。しかし、一定の主張から離れたごく些細な場面になって初めて人間らしい生身の顔が言葉少なに垣間見えてくる。

 モラーは職務遂行上必要だから法にのっとってナチスの正当性を語る。ナチスが正しいからではない。ナチスが法を作ったからだ。自分の心情を示すために言葉を使うことはない。モラーにも良心が残っていた、という話とは違う。ここの難しい機微は属人的に考えることはできない。彼が良い人か、悪い人か、そんなことは全く関係ないのである。

 法と自己とを明確に分け、法の決定には一切疑義を挟まず己を打ち消して服従するという倫理観こそがナチズムを成立させた。

 たとえば、ハンナ・アレントがアイヒマン裁判を傍聴して“悪の陳腐さ”と言い、同じくアイヒマン裁判を取り上げたドキュメンタリー映画「スペシャリスト」のサブタイトルに“自覚なき殺戮者”とあるのはこうした問題意識である。モラーにもまさにこの側面が窺える。

 さらに話を広げるなら、“官僚制”モデルが社会の隅々にまで行き渡った“合理的”な“近代”としてマックス・ヴェーバーが描き出した冷たいイメージ、その極限はドイツ第三帝国に見ることができる。つまり、一定のインプットがあれば各自の思惑とは全く異なる次元で自動的に遂行されるシステムが近代社会の条件である。そのインプットの内容的な価値は問題とならない。極論すれば、たまたまナチズムだったに過ぎない(なぜナチズムであったのかは大衆民主主義の病理として別に考えねばならない問題だ)。

 制度は言葉によって成り立つ。そして、言葉を自覚なしに使うと必ず無意味な虚言に堕する。ところで面白いことに、もっともらしい言葉さえあれば、その内容的な吟味が全然なされていなくとも立派にシステムは作動してしまうのだ。

 現代日本社会に生きる我々にとって、“平和”や“民主主義”は自明の前提である。一方、ナチスもまた彼らなりの文脈の中で“平和”や“民主主義”という言葉を口にした。彼らの言葉の使い方が間違っていたと言うのはたやすい。しかし、それでは単なる思考停止である。我々自身、“平和”や“民主主義”という言葉の中身をまともに考えなくとも、むしろ考えないからこそ無難に日常生活を送れるという事実を振り返ってみるべきだろう。

 正当性、法律、イデオロギー。何でもいいが、仮面として言葉のコードが一定の時代状況の中で成立する。そこに従うことが当たり前となり、本心から離れていても異議は唱えないのが“常識”とされ、そもそもそのズレに気付くことすらないかもしれない。ただ、生身の実感をたまたま言葉に出してしまった者だけが罪とされ、周囲から石つぶてを投げられる。

 それが、たとえばゾフィー・ショルであった。

 これをナチズム特有の問題と済ませてしまうのか、あるいは程度の差こそあれ現代社会においてもあり得ること、ひょっとすると“世論”と呼ばれる得体の知れぬものの問題として考えるのか。ここは各人の視点の取り方にかかってくる。

【データ】
原題:Sophie Scholl──Die Letzten Tage
監督:マルク・ローテムント
ドイツ/2005年/121分
配給:キネティック 

(2006年1月、日比谷シャンテシネにて)

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2006年12月21日 (木)

本田・内藤・後藤『「ニート」って言うな!』

 前回に引き続き、本田由紀さんの本を取り上げます。本田由紀・内藤朝雄・後藤和智『「ニート」って言うな!』(光文社新書、2006年)のレビューと、それを踏まえて「ニート」論の問題点をまとめたメモです。

【本書の構成】

 第一部では本田由紀(教育社会学、東京大学助教授)が、統計データ解釈の間違いを指摘することで、一般に流布されている「ニート」論の誤解を解きほぐし、代替的な政策提言へと話題を進める。本田の議論を踏まえて、第二部では内藤朝雄(社会学、明治大学専任講師)が、誤解された「ニート」イメージがいかにマスコミを通してばらまかれていくのか、そうしたメカニズムの解明を試みている。第三部では後藤和智(東北大学工学部在学中、若者論検証のブログを主宰)が書籍や新聞、雑誌等に登場した「ニート」論を個別に検証する作業を行っている。

 イメージ的に広まってしまった言葉の扱いは非常に難しい。論点を世間に訴える上でアトラクティヴな言葉を使うのは、当然ながら必要である。ただその一方で、言葉が独り歩きを始めてしまうと、実態からかけ離れたイメージによりかかって議論が上滑りし、下手すると、その肥大化したイメージ自体が真実とみなされてしまう。「ニート」をめぐる議論にも、そうした問題点が窺える。

 従って、そうしたイメージ的な思い込みを丁寧に解きほぐし、より実態に近づけた議論につなげるべく言葉の持つ副作用を中和する役割を誰かが果たさねばならない。その点、第一部の議論は、「ニート」という言葉について世間的に広まっている誤解を解きほぐそうという姿勢が明確で、建設的な内容を持っている。

 一般的に“働く意欲のない人”というイメージが抱かれている狭い意味での「ニート」は、統計データを丁寧に読み直してみると、実は歴史的に増減が認められないことが第一部では示された。問題となっているのは、「ニート」そのものではなく、「ニート」に対して向けられた社会的なまなざしの変化の方なのではないか? そのような問題意識を持って第二部ではメディア・リテラシーに関わる議論が試みられている。この問題意識自体は非常に興味深いのだが、残念ながら筆者の議論の進め方が紋切り型のメディア批判に終始してしまい、不消化感が残ってしまった。この論点がもっと充実していれば、本書全体が「ニート」論を素材としたメディア・リテラシー論として面白いものに仕上がっただろうに、残念である。

 第三部は「ニート」論をめぐる全体的なレビューとして参考になる。

※以下、本書を踏まえて「ニート」概念の問題点についてまとめる。

【「ニート」の定義──イギリスと日本との違い】

 「ニート」という言葉が一般に広まったのは玄田有史・曲沼美恵『ニート──フリーターでもなく失業者でもなく』(幻冬舎、2004)が話題となって以降のことである。あっという間に社会事象を表わすキーワードとして一種の流行語とも言うべき広がりを見せた。しかし、この言葉がどのような背景で用いられていたのか、意外と知られていない。

 日本では「ニート」とカタカナ表記の言葉として人口に膾炙しているが、本来は“NEET”、すなわち“Not in Education, Employment, or Training”の略語である。最初にこの言葉が用いられたイギリスでは年齢層としては16~18歳を想定し、失業者が含まれる。

 一方、日本での捉え方は年齢層に幅があって15~34歳が想定され、失業者は含まれない。従って、日本の『労働経済白書』をはじめ統計資料などで用いられる「ニート」の定義はイギリスと異なり、「15~34歳までの若者、学生ではない未婚者、求職活動をしていない者」とされている。いわゆる「家事手伝い」をここに含むかどうかは議論されている。

 この“NEET”概念は1990年代から使われ始めたという。もともとイギリスでは、「社会的排除」の対象となっている人々をどのように救い上げるのかという社会政策的なコンテクストの中でこの言葉は用いられてきた。つまり、貧困、低学歴、人種的マイノリティーなど社会的に不利な立場に立たされ、将来的に希望を持つことのできない人々の問題点を把握する必要上生み出された概念なのである。

 ところが、日本においてはいわゆる「ひきこもり」とイメージ的に重ねて用いられる傾向が強い。“余裕はあるのにやる気がない”者の甘えという心構え論に還元されてしまい、社会構造上の問題を把握するための中性的テクニカルタームとしてこの言葉を用いるのが困難になってしまった。言い換えるなら、日本においても貧困・低学歴など社会的に不利な環境要因によって生じている階級格差の問題は目立たないながらもやはり存在している。また、身体障害者なども形式上「ニート」に分類されることになる。これらの問題を把握するための思考ツールとして使いづらい風潮が醸成されてしまったこと、そこに「ニート」定義の混乱による問題点が見出される。

【日本における「ニート」論の現状】

 以上にみたように「ニート」の定義がそもそも混乱しているため、日本の労働市場に関する統計資料を読み解く上でも錯誤を引き起こす可能性が高くなった。つまり、それぞれに別個の事情を抱えている人々を、この「ニート」という一語で十把ひとからげにまとめてしまったことで、問題の多様性が見えづらくなっていることが第一に指摘される。

 第二に、先にも触れたように「ニート」には「不登校」や「ひきこもり」に近いイメージが世間的に抱かれている。しかし、「ひきこもり」は「ニート」の中のごく一部に過ぎない。ごく一部のイメージに過ぎないものが「ニート」全体にまで拡大されることで、実態からかけ離れた議論が場当たり的な印象論で語られてしまうことにも大きな問題がある。

 『青少年の就労に関する研究調査』(内閣府)の第Ⅱ部『就業構造基本調査』では、「ニート」はおおむね85万人という推計が出ている。これは「非求職型」(約43万人)と「非希望型」(約42万人)という2つのグループの合算として示された数字である。後者の「非希望型」がいわゆる“働こうにもそもそも意欲がない”という世間的な「ニート」イメージに近い層である。

 それでは、前者の「非求職型」とはどのような人々か。これは単に「現時点で仕事に就いておらず、かつ求職活動をしていない」という生活形態に着目しただけで、本人の“意欲”のあり方を指標として分類されたものではない。

 「非求職型」の内訳をさらによく見てみると、その理由としては「病気・ケガのため」や「その他」が多い。「その他」はそれぞれの個別の事情によるため一般化できない理由である。「病気・ケガのため」には、調査時点より半年前までの時期には仕事に就いていた人が多く、過酷な労働条件で体調を崩した、あるいは精神面でのケアを必要としているなどの事情が考えられる。つまり、「ニート」に分類されていても「非求職型」については本人の“意欲”に還元される問題ではなく、本人を取り巻く環境条件によって生じた問題が背景にあると言える。各自の抱える事情によって求職活動はしていないが“意欲”はあるという点で、「非求職型」の「ニート」と「求職型」(いわゆる失業者)やフリーターとの境界が曖昧なのである。

 このように異なるタイプの数字が「ニート」という一言で括られている。しかも両者の比率は半々である。「非希望型」を考慮に入れても、全く何もしていない“純粋無業”は、「ニート」全体の1/3ほど。残りの2/3は、現時点では特定の職業に就いていないというだけで、少なくとも何かはしている。つまり、「ニート」と一言で括られてはいても、「いま働いていない」という点で共通しているだけで、実は多様な人々が混在している。従って、世間的によくある「働く意欲がないのが問題だ」という議論も、対する玄田有史の「いや、働きたくても働けないのが問題なのだ」という反論も、実は水掛け論に終わるしかない。

 近年、「ニート」の統計数字における増加は著しい。マスコミを通して85万人という数字がセンセーショナルに喧伝される。しかし、その増加の内訳を見ると、ほとんど「非求職型」の増加によるものなのである。一方、“働く意欲がない”という通俗的な「ニート」イメージに合致する「非希望型」についてはまったくと言っていいほど増減がない。

 この「非希望型」のタイプは、同年齢層の約1%程度の割合で昔から存在していた。増減に変化が見られないにもかかわらず、なぜ今ごろになって社会問題としてクローズアップされるのだろうか? むしろ、「求職型」の若年失業者やフリーターが増加している労働環境悪化の方こそ数的規模においてはるかに深刻である。

 以上にみた混乱は「ニート」と呼ばれる人々の問題というよりも、「ニート」というイメージを形成するに至った、社会全体の視線の取り方自体が変化したことに理由が求められるのではないか。“働く意欲を持たない”という点では、たとえば夏目漱石の小説に登場する“高等遊民”も、宗教的な出家者や山伏も「ニート」に分類される。広く歴史的にみるならありふれた存在である。つまり、「ニート」論がこれほど騒がしくなっている背景には、社会的なスタンダードから外れた生活形態を取る者に対して不寛容な画一的視線が社会全体を覆っていることが示されていると言える。

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2006年12月19日 (火)

国末憲人『ポピュリズムに蝕まれるフランス』

【民主主義の祖国が抱える葛藤】

 シラク後をめぐるフランス大統領選挙の役者もそろそろ出揃いつつあるようだ。今回は国末憲人『ポピュリズムに蝕まれるフランス』(草思社、2005年)を取り上げよう。

 本書の題材となっているのは前回、2002年のフランス大統領選挙。大方の予想を裏切って決選投票に進出した極右・国民戦線のルペンに対し、保守派と左翼がスクラムを組んでシラク再選が決まった。

 「民主主義に敏感なフランスの感性が証明された」──選挙結果を受けてこうした論評が新聞をにぎわせた。しかし、本当にそうなのか? 本書は、“ポピュリズム”という政治学的には定義の極めて難しいキーワードを軸として、フランス革命以来「民主主義の祖国」としての誇りを抱いてきた国家が直面している混乱、具体的には選挙による代表制と政教分離という2つの柱が破綻をきたしている現状を報告する。

 テーマは非常に興味深い。ただし、本書は関係者を取材してまわった感触を通り一遍に叙述するだけで終わっており、現場を見て歩いた者ならではの考察が示されていないのが少々物足りない感じがした。

【フィクションとしての選挙】

 制度というのは一つのフィクションである。20世紀初頭の異端的な社会学者ロベルト・ミヘルスがつとに指摘していたように、民主主義という衣をかぶってはいても、実際の政治運営が字義通り「民主的」に運営されるなんてことはまずあり得ない(森博・樋口晟子訳『現代民主主義における政党の社会学』木鐸社、1973年)。

 フランスもまた例外ではなく、「民主主義」というたてまえとは裏腹に、実際に国家の舵取りを行っているのはごく少数のエリート層である。この奇妙な矛盾は薄々気づかれていながらも、選挙による政権交代という手続きを通すことで覆い隠されてきた。

 しかし、社会が成熟することで政治的争点がかつてのイデオロギー対立から身近な問題へと細分化されるにつれ、保守派と社会党との違いが見えなくなった。つまり、政治に変化が期待できなくなり、その分、保守派も社会党もトップはエリート校出身者でほとんどが占められているという事実が際立つようになってきた(保守派の中でもサルコジ内相に人気があるのは、彼がエリート出身ではないからだ)。

 倦怠感・閉塞感が漂う中、欺瞞であろうともこのシステムによって今までの社会運営がなされてきたことへの挑発的な気持ちが社会全般に行き渡るようになる。それが、極右というスタンダードから外れた勢力への得票という形で表れたと言えるだろう(無論、移民政策、治安対策などの問題も倍加的に影響を与えている)。

【政教分離という原理の矛盾】

 「政教分離」もまたフランスをはじめ近代社会を成り立たせてきたフィクションである。以前、イスラムの信仰を持つ少女がスカーフをつけて公立学校に通うことが政教分離に反するのではないかという論争が過熱したことがある。ここからいくつかの問題が露わになった。

 第一に、他者への寛容を目的とするはずの「政教分離」という原則が、結果としてイスラムに対して「不寛容」な態度を取ることになったという逆説的な事実である。

 第二に、これは本書を読んで初めて知ったのだが、実はこのスカーフの少女は生まれながらのムスリムではなかった。両親はフランス生まれのユダヤ人で、彼女は自分の意志でイスラムに改宗していたのである。彼女に何があったのかは分からない。特別な政治的背景が見られるわけでもない。思春期によぎる戸惑いの中、たまたまイスラムに魅かれたというだけのことなのかもしれない。

 問題なのは、あくまでも彼女の個人的な事情に過ぎないことが、「政教分離」という政治的論争の枠組みに無理やり押し込められ、彼女の思惑を超えた所で世論が大騒ぎすることになった経緯である。

 フランスの場合、ユグノー戦争以来繰返された宗教対立により、こうした問題への過敏なまでの反応があるのはやむを得ないのかもしれない。しかし、「政教分離」という原則論ばかりが暴走することのはらむ逆説的な意味を問い直すことは必要であろう。

 選挙による代表制と政教分離。いずれも日本にとっては欧米から輸入した観念に過ぎない。本家本元のフランスで陥っている混乱は、もし日本だったらどのような視点に立って考えることができるのか。そこを念頭に置きながら読むと興味深い。

【著者プロフィール】
朝日新聞記者。1963年岡山県生まれ。87年「アフリカの街角から」でノンフィクション朝日ジャーナル大賞優秀賞を受賞。同年パリ第2大学新聞研究所を中退し朝日新聞社入社。パリ特派員(01‐04年)などを経て外報部次長。この間ルワンダ内戦、イスラム過激派テロ、パレスチナ紛争、イラク戦争などを取材。連載「テロリストの軌跡」で02年度日本新聞協会賞を受賞。他の著作に『自爆テロリストの正体』(新潮新書、2005年)。

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2006年12月18日 (月)

「ホテル・ルワンダ」

 今年の2月頃に観た「ホテル・ルワンダ」についてのメモを掲載します。

【ストーリー】

 多数派フツ族と少数派ツチ族との深刻な内戦や、フツ族出身の独裁者ハビャリマナ大統領の圧制で疲弊しきったルワンダ。国内外からの圧力に加え、ツチ族亡命者の結成したルワンダ愛国戦線の反攻に直面し、1994年、大統領は和平協定を結ぶことにようやく同意した。

 ルワンダの首都キガリにあるベルギー資本の高級ホテル・ミルコリンホテルでは、国連関係者や報道陣が集まって祝杯をあげている。その中で、マネージャーのポール・ルセサバギナ(ドン・チードル)は忙しく立ち働いていた。

 そこへ妻の兄が不安げな顔をしてやってきた。

「フツ族民兵がツチ族虐殺の準備をしているという情報がある。政府は急進派民兵をもはや統制できない。君はフツ族だから大丈夫だが、私はツチ族だ。君には欧米人にコネがある。早く国外脱出したいんだ。」

「和平協定が結ばれるんだぞ。心配するな。」

 ポールは義兄をなだめて帰した。

 その晩、仕事が遅くなって車で帰る道すがら、どうも町の様子がおかしい。自宅に着くと、ツチ族の隣人たちが中に集まって息をひそめていた。

 ハビャリマナ大統領は和平協定の調印式場に向かう途中、乗っていたヘリコプターが何ものかによって撃墜され、それを合図にフツ族民兵が一斉に動き始めたのである。ラジオからは不吉な怒鳴り声が繰り返し流れていた。──「ゴキブリを駆除しろ、ツチ族を殺せ!」

 ポールはこうした事態に備えて高級ホテルのマネージャーとして各方面に培ってきた人脈を使い、ツチ族出身の妻だけは守り抜くつもりでいた。しかし、行きがかり上、救いを求めて集まってきた他のツチ族の人々をも救わねばならない羽目になる。

 ミルコリンホテルは外国資本であるため、民兵もおいそれとは手が出せない。しかし、ルワンダ政府は事実上崩壊した。情勢の悪化を受けて国連平和維持軍も一部を残して撤退しつつある。民兵がなだれ込んでくるのも時間の問題だ。あとは、ポールの機転で時間稼ぎをするしかない──。

【見捨てられたルワンダ】

 死体が転がっているのが当たり前な光景は、映画だとわかってはいても目を背けたくなるおぞましさだ。しかし、映画の中で交わされる会話を聞くと、これでも残虐描写は抑えているほうなのだろう。

 この大虐殺では百万人以上が殺されたと言われている。部族の従来からの風習やかつての植民地支配の負の遺産など複雑な背景が横たわっているそうだが、詳細はフィリップ・ゴーレイヴィッチ(柳下毅一郎訳)『ジェノサイドの丘』(上下、WAVE出版、2003)に譲る。

 映画の中盤、国連平和維持軍撤退の決定を聞いた指揮官のオリバー大佐(ニック・ノルティ)がヤケ酒をあおりながらポールに向かって次のように言う場面がある。

「俺につばを吐き掛けろ。超大国はルワンダを見捨てるつもりだ。なぜだか分かるか? 君たちは白人ではないからだ。」

 この映画では触れられていないが、超大国の筆頭・アメリカにも事情はあった。1993年、当時のガリ国連事務総長の提唱する積極的平和創造の方針に基づき、アメリカ軍はソマリア内戦に軍事介入した。しかし、多数の死傷者を出して撤退せざるを得なくなるという苦い経験をひきずる結果になってしまった(詳細な経緯は映画「ブラックホーク・ダウン」(2002年)がリアルに描写している)。

 これは個別の国益を離れた純粋な人道目的の軍事介入として初めてのケースであったが、失敗に終わってしまったため、「国益に関係ないのにアメリカの若者の血を流すわけにはいかない」という国内世論が根深くなり、アメリカ政府は身動きが取れなくなってしまった。アメリカが動かなければ、当然、他の国も動かない。

 アメリカの国内世論という点で、高木徹『戦争広告代理店』が一つの問題点を描き出している。なぜアメリカの国内世論は、アフリカの難民は見捨てたのに、ボスニア内戦には大きく関心を示したのか? カギとなるのは、世界中に配信された一枚の報道写真。収容所(実際は違ったのだが)の鉄条網の中に収容されているのが、黒人ではなくスラブ系の白人だったからだ。アフリカの黒人が何万と殺されてもたいした問題とはならないが、白人が虐待されているというイメージが広がると過敏なまでに反応する。

 国際世論において見捨てられかねない“マイノリティー”(人口的には決して少数派ではないのだが)に目を向けるよう注意を喚起するものとして「ホテル・ルワンダ」の意義は大きい。

 NPOを中心とした草の根運動の努力の結果として、この映画の日本上映は実現したという。実際に出かけてみると、立ち見がでるほどの盛況であった。口コミでこれだけ認知度が広がったという点でも非常に興味深い。

 映画の中で、虐殺シーンを撮影したBBCのカメラマンが「これをニュースで流しても、“あら怖いわね”と言って、ディナーを続けるだけさ」と自嘲気味に言うシーンがあった。私自身もその類型に入ることを自覚しつつ、この稿を終える。

【データ】

原題:Hotel Rwanda
監督:テリー・ジョージ
2004年/南アフリカ・イギリス・イタリア/122分/カラー
配給:メディア・スーツ、インターフィルム
協力:『ホテル・ルワンダ』日本公開を応援する会、NPO法人ピースビルダーズ・カンパニー、ジェネオン・エンタテイメント
後援:ルワンダ大使館、社団法人アムネスティ・インターナショナル日本

(2006年2月、シアターN渋谷にて)

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2006年12月17日 (日)

高木徹『戦争広告代理店』

 今回取り上げるのもまた高木徹さんの著作で『戦争広告代理店』(講談社、2002年、講談社文庫、2005年)です。

【メディア・リテラシー感覚を養うに最適の一冊】

 ユーゴスラヴィアから独立したばかりのボスニア・ヘルツェゴビナ。“新米”外務大臣シライジッチは、セルビア人が主導する新ユーゴスラヴィア連邦から軍事的脅威を受けつつある現状を打破せよという使命を帯び、国連総会に出席すべくニューヨークに降り立った。 いざやって来たものの何から手をつけたらよいやら分からず途方にくれている中、こんなアドバイスを受ける。

 ──世界を動かすにはアメリカ政府を動かせ。アメリカ政府を動かすにはアメリカの国内世論を動かせ。アメリカの国内世論を動かすにはPR会社を使え。

 バルカン半島の小国に関心を向ける人などほとんどおらず、モスレム人、セルビア人、クロアチア人が三つ巴になった複雑な政治的・歴史的背景について理解してもらうのはなかなか難しい。

 そうした中、乏しい国家予算の大半をつぎ込んで依頼したPR会社の繰り出すイメージ戦略は効果テキメン。いつの間にか「ナチスのように極悪非道なセルビア人、かわいそうなモスレム人」という勧善懲悪的な国際世論が定着してしまった。実際には、三民族ともに民間人虐殺などの戦争犯罪をおかしていた点では変わりないにもかかわらず。

 そんな単純な問題ではないと主張しようものなら「お前はセルビア人のホロコーストを許すのか!」と袋叩きにあってしまう。中立的な外交関係者や学者は黙するしかない。実際、国連平和維持軍司令官として三民族の調整に奔走したカナダの軍人は、その中立的な立場ゆえに失脚してしまった。

 セルビア側があわてて巻き返しを図っても時はすでに遅し、一度確立したイメージは崩しがたく、別のPR会社を訪れても「挽回はもう無理」と門前払いをくってしまう。結局、セルビア勢力の最高実力者ミロシェヴィッチは逮捕され、ハーグの国際軍事法廷で裁かれる最初のケースとなった。

 情報戦のディテールを再現した迫真のドキュメンタリーであり、登場人物のパーソナリティー描写にはドラマとしての盛り上がりもあり読み物として面白い。何よりも、国際情勢を読み解く上で不可欠なメディア・リテラシーの訓練として貴重な一冊である。

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2006年12月16日 (土)

高木徹『大仏破壊』

高木徹『大仏破壊──バーミアン遺跡はなぜ破壊されたのか』(文藝春秋、2005年)

【古参タリバンの苦悩を見据える眼差し】

 2001年3月、アフガニスタン北部にあるバーミアンの仏教遺跡がタリバンによって破壊された。世界中の非難をよそにタリバンはなぜこんな暴挙を敢えてしたのか? 本書はこの問題について丹念な取材を重ねながら、大仏破壊が実は約半年後に世界を震撼させた9/11同時多発テロの前触れであったことを立証したノンフィクションである。

 タリバン政権で情報文化次官を務めたホタクが「タリバンには大仏を破壊する意図はなかった」と証言した。一般的に受け止められているタリバンのイメージとは明らかに違う。このズレは一体何なのか、そうした疑問を抱いたところから本書は始まる。

 当時のタリバン政権は一種独特な統治形態を取っていた。政治的な実務は従来からの首都カブールで行われたが、最高指導者のオマル師は遠く離れたタリバン発祥の地カンダハルに留まり、そこから指示を飛ばしていた。

 そうした政治と権威とが切り離された指導体制が取られる中、アメリカによって包囲網がジワジワと狭められ居場所がなくなったビンラディンがアフガニスタンへ逃げ込んできた。彼は豊富な資金力をバックにオマル師を取り込み、タリバンの最高指導部をアルカイダが実質的に乗っ取ってしまう。アルカイダはアフガニスタンを反米戦争の新たな拠点にすべく準備を進め、世界に対して宣戦布告する象徴として行なわれたのが大仏破壊の決定であった。

 カブール駐在の国連関係者や外交団、考古学者たちが破壊の阻止に向けた努力を尽くす。そして、古参のタリバン・メンバーもまたこのアルカイダによる決定に反発した。アルカイダの解釈では、イスラムは偶像崇拝を禁じているので異教徒の大仏を破壊するのは正当な宗教的行為だという。だが、その一方で、バーミアンの大仏はアフガニスタンの風景にすっかり馴染んでおり、父祖たちが代々残してきたものをことさらに壊す必要はないというファトワ(イスラム法学者の見解)もかつて出されていた。

 ホタクをはじめとして情報文化省や外務省に所属する穏健派タリバンは、国連、さらにはアメリカとも連絡を取りながらオマル師の説得を試みる。しかし、ビンラディンに心酔しきったオマル師の決定はもはや覆らなかった…。

 タリバンにとって、アルカイダを動かすアラブ人は外国人である。そんな彼らが自分たちの国を好き勝手に動かそうとしているのをホタクたち古参メンバーはこころよく思っていなかった。その一方で、オマル師はタリバンの精神的支柱であり、彼の意向に背くこともできない。そうした板ばさみになったホタクたちの苦悩を、共感可能なディテールまで描き出しているところに本書の一番の魅力がある。

 アルカイダにせよ、タリバンにせよ、イスラム世界をめぐる情勢を知らないと我々は「イスラム原理主義」という枠組みに括ってレッテル貼りをすることで、あたかも分かったかのような気になってしまう。そのような思い込みを解きほぐすという点で、こうした具体的な人間の機微にまで踏み込んだノンフィクションは有益であろう。

【著者プロフィール】

1965年東京都生まれ。1990年東京大学文学部卒。同年、NHKにディレクターとして入局。福岡放送局などを経た後、報道局勤務。NHKスペシャル「民族浄化 ユーゴ・情報戦の内幕」(2000年)、「バーミアン大仏はなぜ破壊されたのか」(2003年)、「情報聖戦アルカイダ 謎のメディア戦略」(2004年)などを担当。『戦争広告代理店』(講談社文庫、2005年、)で講談社ノンフィクション賞・新潮ドキュメント賞を、本書『大仏破壊』で大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した。

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2006年12月15日 (金)

「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」

 映画も話題の柱にしたいので、もう一つおまけ。今年の二月頃に観た青山真治監督「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」の感想をつづったメモがあったので、載せておきます。

 【エリ・エリ・レマ・サバクタニ】

 青山真治の映像センスに私はしびれている。 
 吹きすさぶ風の動きと共に大きく波うつ荒々しい砂丘。強風ではためくテントの中には死体が転がり、世界の滅びを予感させる光景がまず観客の目を奪う。

 何よりも圧倒されるのは、ラスト近くの演奏シーンだ。晴れやかに澄み渡った透明感のある空の下、草原のゆるやかに広がる丘陵地帯、青と緑のコントラストは胸がすくように美しい。存在するものすべてを包み込むような壮大な空間の中、4台の音響装置がそびえ立っている。大地をゆるがすノイジーな爆音が、観客の耳と、そして胸の中にまで鋭くつんざき、音響の高揚につれて映像がぶれる。まるで、目に見えるものの輪郭をすべて打ち消そうとするかのようだ。音響と映像、さらには観る者の思考作用までもが混線し、一種のトランスともいうべき不思議な映像体験。宇宙との一体感、というと大げさだが、そうした感覚を描き出そうとしているのがよく伝わってくる。

 ストーリー云々という以前に、青山真治の繰り出す映像一つ一つに気持ちが魅きつけられた。一歩引いたスタンスから世界を俯瞰するような視線、ノイズと透明感とが共存するかわいた映像世界。どこか私自身の心象風景が呼び覚まされるようで、充実した2時間を過ごすことができた。

 2015年、“レミング病”の流行が人々を震え上がらせている近未来の世界。それは、感染すると自分の意志とは関係なく自殺してしまうという正体不明の奇病であった。

 世の中の騒ぎを尻目に、ミズイ(浅野忠信)とアスハラ(中原昌也)の二人は音の素材を集める活動に没頭し、世捨て人同然の生活を送っている。彼ら二人の奏でる音楽には“レミング病”の発症を抑える効果があるらしい──そんな噂を聞きつけた大富豪のミヤギ(筒井康隆)が、“レミング病”に感染した孫娘のハナ(宮崎あおい)を連れてミズイとアスハラのもとに現れた。

 ふとミヤギがつぶやく、「神よ、なにゆえに我を見捨てたもうや(エリ・エリ・レマ・サバクタニ)」。

 この映画に一貫するテーマは“音”である。様々な素材に秘められた独特な“音”の持ち味を活かすシーンが大半を占め、セリフは極端なまでに少ないが、そうした中でも次の2つのシーンが印象に残っている。

 まず、映画の主要舞台の一つ、ペンションでの会話。ミヤギがペンションの女主人(岡田茉莉子)に、自分の息子夫妻、つまりハナの両親が“レミング病”で死んだことについて語る。「みんな死んでしまった、だけど…」と言いかけたとき、「私の心の中にいつまでも残ってる、って言いたいんでしょ」と女主人が話の腰を折ってしまう。「…よく分かりましたね」「そんなのよくあることよ」

 一人が抱える個別的な悲しみは、無論その人にとってかえがたいものであるのは当然だ。しかし、他人にもまたその人なりの別な悲しみを背負っているわけで、自分の悲しみが自分ひとりに降りかかった特別なことであるかのように語ろうとするおこがましさ。

 もう一つ印象に残っているのは、ミズイがミヤギに向かってつぶやいた次の言葉。
 ──「自殺するのは“レミング病”のせいなのか、それとも本当に死にたいのか、区別できるんだろうか?」

 もちろん、答えはない。ただ、飛躍かもしれないが、この答えに関わることで、青山真治が以前に撮った作品「EUREKA」(2000年)をいま思い浮かべている。

 乗客のほとんどが殺されてしまったバスジャック事件で生き残った兄妹(宮崎将、宮崎あおい)と運転手(役所広司)、心に傷を負った彼ら3人は一緒に事件の現場を再訪する旅に出る。過去に起こったことを直視し、その一切を受け容れるために。旅の果てにたどり着いた山の頂で、それまで能面のように黙りこくっていた少女がハッとした表情を見せた(“何か”に気付いた=EUREKA!)。その途端、モノクロで進行していた映像が一挙にカラーに反転、彼らのたたずむ山の頂が、さらにはるか上方から俯瞰するように映し出される。つまり、自分たちのいまいる世界の広がりに気付くこと、その中に自分たちの抱える傷もあること、そうした一切を理解することが問題の“解決”につながる──。

 トラウマは“治せない”。ただ、原因となっている出来事を記憶の深みから掘り起こし、対面し、納得する。そうしたプロセスを経ることで神経症はおさまるというのが精神分析学の基本的なセオリーだが、下手すると“心理学依存症”になりかねないこの問題を、映像センスで見事に描ききっているのが私には強烈に印象的だった。

 同様のテーマ設定を、今回の「エリ・エリ・レマ・サバクタニ」の終盤近く、爆音の演奏シーンから感じている。

 原因とは? 理由とは? 特定の何かに帰属を求めようとするならば“レミング病”のせいだということにした方が話は早い。しかし、大地と音響との共振の中で「生きる希望を見出す」という寓話を通して示されているのは一体何だろうか? 原因→結果という単線的な因果関係の中に無理やりに自分をあてはめるのではなく、その一切をひっくるめた大きな広がりの中に自分のありかを感じ取ること、それが個別の意味づけを超えたところで“生きる”自覚につながるという“気付き”の瞬間ではないのか。

 青山は、この映画を通して絶望を感ずるか、希望を抱くのか、それは観る人次第だ、と語る。“気付き”のあり方もまた人次第。言葉や論理とは違った表現の可能性を映像で示してくれた点でとても魅力的な作品であった。

【データ】
監督:青山真治
プロデューサー:仙頭武則
製作:TOKYO FM、バップ、ランブルフィッシュ
2005年/カラー/107分

(2006年2月、テアトル新宿にて)

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2006年12月14日 (木)

『国家の罠』──佐藤優の深い学識、強靭な思考力②

 引き続き佐藤優さんについてです。

【佐藤の思想的背景は?】

 本書のタイトルには二つの意味合いが込められている。一つは、タイトル通りに告発本・暴露本的な感じ。ジャーナリスティックに売ろうという意図が見える。もう一つは、ちょっとひねってあり、あとがきに次のエピソードが紹介されているのが印象的だった。

 担当編集者が『旧約聖書』「伝道の書」の一節、飛ぶ鳥も罠にかかるがすべては無常、という趣旨の部分を読み上げ、これにかけて『国家の罠』としましょうと提案。これを佐藤も了承(気に入ったとみえ、『世界』で連載中の評論では「民族の罠」とつけている)。一般人向けに売り込みのためのどぎつさを出しつつ、同時に隠されたテーマをほのめかすことで著者の意図もきちんと盛り込む。うまいタイトルのつけ方だし、書き手の意図をしっかり理解している編集者との阿吽の呼吸もうらやましい。

 私としては、佐藤が何をしたかよりも、彼の物事に処する姿勢、もう少し言うなら、自分自身をも含めてあらゆる物事をどこか突き放した視点で眺めることができるのは何なのか。そうした彼のパーソナリティーに一番興味を抱いた。

 一つには、ロシアで情報収集活動に従事していた時、魑魅魍魎のような人間関係を泳ぎ渡る中で研ぎ澄ませたものがあるのだろう。

 ただ、それ以上に、神学研究を志した頃から彼の中に秘められている確信に何かがありそうだ。たとえば、プロテスタントの神学者カール・バルトの思想に見られるような、神と人間との隔絶を自覚し、人間には絶対に分からない神の論理で動かされていることを理解した感覚。

 先日、佐藤の講演会を聞きに行った時、質疑応答で「佐藤さんの人生態度の原点はキリスト教ですか?」という質問があった。それを聞いて「うれしいことを聞いてくれました。まさにその通りです」と返答。同時に「それはあくまでも私の問題であって、自分の信仰を人に押し付けるようなことは絶対にしない」と付け加えたのが印象に残っている。

 現実の動きに揉まれながらも、アカデミックな視点を両立させている彼の姿勢は、少なくとも私にとっては気持ちを大いに鼓舞されるところがあった。

 佐藤は大学時代からチェコの神学者フロマートカの研究をしており、彼の自伝を翻訳している(『なぜ私は生きているか』新教出版社、1997年)。外交官としてヨーロッパに滞在していた時も機会をみつけてはチェコを訪れていたという。

 そもそも、最初はチェコ問題の専門家になるつもりで外務省に入ったところ、勤務先の都合でロシア語コースにまわされただけで、外交という仕事にもともと関心はなかったらしい。(本書の中でも、講演会で語る時にも、しばしば「好きなことと出来ることは違う」と語るのが印象的だ)。

 フロマートカという人物について私は佐藤を通して初めて知ったのだが、共産党とキリスト教会との緊張関係の中、平和重視のスタンスから両者の和解に努めたことでキリスト教関係者の間では平和運動家として評判が高かったらしい。

 だが、佐藤はそういう当たり前な理解に疑問を持った。第二次世界大戦中、フロマートカはアメリカに亡命して反ナチスの論陣を張り、一躍有名人となった。しかし、その間、チェコに残った同僚や教え子たちはナチスによって殺されたり、投獄されたりとひどい目に遭っていた。ドイツの敗北後、チェコに帰国したものの、自分は安全な場所にいたから好きなように発言できただけだという事実に、うしろめたさという以上の激しい後悔を感じたことが、その後のフロマートカの“平和”運動の原点だ──それが佐藤の理解である。

 1948年、今度は共産党という別の全体主義勢力がチェコでクーデターを起こし、多数の亡命者が国外へ逃れた。この時、フロマートカは逃げずに踏みとどまった。一度後悔をしたからこそ、そうした筋を通す姿勢を取り得た所に佐藤は魅かれたのだろう。

 自ら訳したフロマートカ自伝の巻末に佐藤は長い解説論文を掲載している。それによると、フロマートカは死の間際、枕元に集まった人々に向かって次のようなことを語ったという。どんなに迫害されても自分の今いる場所から逃げてはいけない、もし逃げたならあなたの言葉から真実はうしなわれる──。佐藤もこの遺言で論文をしめくくる。

 佐藤は逮捕された時にも、獄中にあった時にも、かつての同僚たちが次々と“落ちて”いく中、自分は何も悪いことはしていないと突っぱね続けた。そうした彼の姿勢はマスコミの目には傲岸不遜に映り、散々に書きたてられた。しかし、フロマートカに関心を寄せる佐藤の感受性からすると、もっと別の精神的な芯の太さによることは明らかだろう。

 獄につながれ、しかも世間的にはマスコミによってあることないこと様々に書き立てられる中、佐藤をよく知る少数の人々だけが支援を続けた。彼は岩波書店の『世界』や新潮社の『フォーサイト』にロシア情勢解説の記事を寄せていたのだが、その時から付き合いのある編集者たちもそうした輪の中にあった。

 たとえば新潮社の編集者は、佐藤が汚職なんてするはずがないと思ってすぐに刑務所に連絡を取ろうとしたが、手紙を書いても佐藤の手に渡らない。それで何か裏事情があるに違いないと気付いたという。岩波書店の編集者は司馬遷『史記』列伝を獄中に差し入れた。司馬遷は漢の武帝の逆鱗に触れて刑を受けた。その屈辱をバネにして『史記』を書き上げたというエピソードをほのめかしてメッセージを伝えようとしたのだろう。

 濃密な信頼関係や、『国家の罠』のタイトルを決める際にも見られるように豊かな教養を通して含みのあるコミュニケーションを取れるような書き手と編集者との関係には、あこがれの気持ちを抑えることができない。

【補足──佐藤優さんの略歴】
 1960年生まれ。県立浦和高校卒業後、同志社大学神学部へ進み、同大学院修士課程修了(組織神学専攻)。その後、専門職(ノンキャリア)として外務省に入省。ロシア語の専門家となり、ロンドンやモスクワで勤務。主に情報収集活動に専念。外交官として働く傍ら二足のわらじを履いてキリスト教神学の研究を続けるほか、モスクワ大学哲学部非常勤講師(キリスト教神学)、東京大学教養学部非常勤講師(ユーラシア地域変動論)として大学の講義もこなした。鈴木宗男事件で逮捕されて1年半ほど獄中にあり、その経験をきっかけとして文筆活動を展開している。現在の身分は“起訴休職中国家公務員”。

 ベストセラー『国家の罠』(新潮社、2005年)の他、『国家の自縛』(産経新聞社、2005年)、『国家の崩壊』(にんげん出版、2006年)、『日米開戦の真実──大川周明著『米英東亜侵略史』を読み解く』(小学館、2006年)、『自壊する帝国』(新潮社、2006年)、『北方領土「特命交渉」』(鈴木宗男と共著、講談社、2006年)、『インテリジェンス──武器なき戦争』(手嶋龍一と共著、幻冬舎、2006年)、『ナショナリズムという迷宮』(魚住昭と共著、朝日新聞社、2006年)、『獄中記』(岩波書店、2006年)を立て続けに刊行した他、幅広いジャンルの雑誌に執筆している。

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2006年12月13日 (水)

『国家の罠』──佐藤優の深い学識、強靭な思考力①

 ここのところ、佐藤優さんの執筆活動に注目しています。去年の十月頃でしたか、ベストセラー『国家の罠』を読んで非常に驚き、佐藤さんの学識の深さ、強靭な思考力に興奮しながら書きとめたメモがあるので、ブログ開設後第一弾として掲載します。

【国家というカフカ的迷宮】

 最初はほとんど期待していなかった。友人から勧められたのでなければ、おそらく読むことはなかっただろう。

 著者は元外務省主任分析官。“外務省のラスプーチン”と呼ばれ、鈴木宗男事件で逮捕されたことでその名は広まった。私には先入観として、能力はあるのに出世のできないノンキャリアが有力政治家と結びついた、という程度の認識しかなかった。政界暴露本だろうと思い、暇つぶしに読もうというくらいの軽い気持ちで紐解いたのだが、一読して驚いた。思わぬところから思わぬ人材が現れたものだ。

 この本には様々な読み方があり得る。外交論、国家論、現代日本社会論、etc.…。私の場合には、著者のパーソナリティーとして、自分自身も含めて物事を突き放して見る態度はどのように形成されたのか、そこに一番興味を持った。

 「これは国策捜査だ!」という惹き文句が帯に踊る。ダイレクトでどぎついタイトルと相俟って、誰かの仕掛けた罠にはまってしまった、その告発という内容のように見える。ところが、実際に読んでみるとそんな単純な話ではない。

 国策捜査──著者が実際に取調べを受けた検察官から直接言われたらしいが、込められている意味合いは普通に感じ取られるものとは微妙に違う。

 検察は、時代の雰囲気を見て捜査対象を絞り込む。時代の転換点には、時代が変わったということをみんながはっきりと自覚できるように何らかの特徴的なエピソードが求められる。政治家の摘発を通してそれを示すのが、国策捜査として検察に期待される役割なのだという。今回、そのターゲットとされたのが鈴木宗男事件だった。この事件の糸口をつかもうと検察はまず手始めに佐藤の身柄を拘束した。

 冤罪と国策捜査は違う。冤罪は事件のでっちあげだが、国策捜査の場合、罪は罪である。ただ、従来ならば問題とはならず、習慣的に黙認されていたのでグレーゾーンとなっていた部分に対して、罪となるスタンダードが引き下げられた。ダブルスタンダードだろうと何だろうと、法に引っかかった以上、正当な捜査活動だ──というわけである。

 では、どんな転換点か。内政・外交の二つの側面がある。対内的な問題としては、従来の再配分・利害調整型の社会から、現在の小泉構造改革路線に象徴される自己責任重視の社会へ。対外的には、従来の国際協調型の外交政策から、最近の北朝鮮問題や嫌韓・反中的な世論に顕著に見られる対外硬のナショナリスティックな外交政策へ。

 鈴木宗男は、この二つの問題で負の役割を演じるのにうってつけの政治家であった。つまり、北方領土という国益に関わる問題で私腹を肥やした土建屋政治家、というイメージ。田中真紀子や辻元清美などとの泥仕合でメディアへの露出度が高く、しかも田舎者風の容貌で甲高い声をあげる一見滑稽なキャラクターは、マスコミからバッシングを受けるのに最適である。案の定、検察の動きに連動してマスコミは派手に書きたて、ジャーナリスティックで下世話な次元も含めて、世間への浸透度は極めて高くなった。

 ここでいう国策捜査とは、いわゆる陰謀論的に裏で糸を引く陰の実力者がいるとかいう話ではない。もちろん、行政の動きである以上、誰かの指示で動いているのは確かである。ただ、それは特定の誰かの意図によるのではない。その指示を出す人物もまた、時代の雰囲気に絡め取られている。

 国家というシステムの中にいるのだから、そのシステムの広がりはある程度の実感をもって分かっているはずだ。少なくとも、日常感覚として我々はそう思う。しかし、手探りできる範囲以上のことはさっぱり分からない。“国家”という、あたかもカフカの小説世界を思わせるような迷宮構造の中、ある日突然、身に覚えのない容疑で佐藤は捕まる。まさに『審判』のヨーゼフ・Kを見舞った運命と同じように。

(つづく)

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2006年12月12日 (火)

はじめに

 こんな方針でブログを運営しようと思います。
① 話題は読書と映画を中心とする(他に趣味がないもので…)。
② 身辺雑記は書かない(書いたって、どうせドラマはありませんから…)。
③ 格好つけずに率直に。批判を恐れず、思いつきでも書いてみる(書き込みへの批判に備えた言い訳です…)。

 私はブログ初心者です。書くのは無論初めてですが、他の方々のブログを読むこともあまりありませんでした。

 また、これからブログを開くに当って、実は読んでもらうことを期待していません。そんなに面白いことを書けるわけがありませんから。

 それなのに、なぜブログなんか始めたのか? 友人から慫慂を受けたというきっかけが直接にはありましたが、それだけではありません。

 ここのところ、自分の思考力が衰えているのを感じています。それは、文章を書く習慣が薄れたせいだと考えています。そこで、最近、ノートを用意して日記をつけようと試みたのですが、3日もすると面倒になってほったらかし。書こうという意欲が湧かないのです。

 書くことは、ものを考える上で不可欠な行為です。自分の意見と思っているものでも意外と他人からの受け売りは多いものですが、それを再吟味するためにも自分自身で文章をつづる作業が有効です。

 言葉には二つの役割があると思います。

 第一に、意見の伝達道具としての言葉。自分の考えを根拠とロジックに基づいて整理し、相手を説得します。

 第二に、自らを映し出す鏡としての言葉。モヤモヤと自分の中にわだかまっているアモルファスな流れ、自分の中に渦巻いているのに、自分でもよく分からないという苛立ちをふと感ずることがあります。そうした表現しがたい何かに、少しずつでも形を与える試行錯誤を通して、自分の生身の感覚を追体験的に意識化する。そうした作業のためにも言葉は効果的です。

 つまり、自身を映し出す鏡として言葉を使ってみる。それは同時に、他人へのコミュニケーション・ツールでもあります。すると、きっかけは自分一人の自己満足のためであったとしても、文章をつづるにはどうしても相手が必要なのです。日記のようにひっそりと自己完結的にまとめるのが可能な表現手段であっても、読まれるという前提がなければ書き進めることができないのです。

 読まれることを期待していないのに、読まれることを前提に書く。何だか妙な話ですよね。ディスプレイの向こうに広がるネットの世界に、私を見ている人が誰かいるのか、ひょっとしたら誰もいないのか、実感的には確証できません。たとえ誰もいなくとも、あたかもいるかのような緊張感を自分に強いると言ったらいいでしょうか。何だか、フーコーが『監獄の誕生』で取り上げたパノプティコンみたいですが(ちょっと違うか…)。

 ブログのタイトルは、「ものろぎや・そりてえる」。寂しき独白、とでも言いましょうか。私は辻潤という人が好きで、彼の文章から拝借しました。

 モノローグとは言っても、特に構えてコミュニケーションを拒絶するつもりはありません。コメントをつけていただけるのは大歓迎です。

 それでは、よろしくお願いします。

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