2009年11月 9日 (月)

アダム・ホックシールド『レオポルド王の亡霊:植民地アフリカにおける強欲、恐怖、そして英雄たちの物語』

Adam Hochschild, King Leopold’s Ghost: A Story of Greed, Terror and Heroism in Colonial Africa, Pan Books, 2006

 虚栄心の強烈なベルギー王・レオポルド2世。大国の君主として振舞いたい彼は、その証しとして植民地が欲しかった。しかし、ベルギー議会は経費がかさむとして消極的である。レオポルドは地理学協会を設立して名士をそろえたほか、アフリカにおけるアラブの奴隷商人を批判、人道的な博愛主義者としての名声を高めようと努める(つまり、文明の福音→植民地の正当性という論理)。時あたかも列強による植民地分割競争が終盤にさしかかっており、レオポルドは焦っていた。

 そうした中、アフリカ探検で名をあげたスタンレー(Henry Morton Stanley)の存在を知る。イギリスで孤児として生まれ、アメリカで育った彼もまた極めて強い上昇志向の持ち主である。行方不明になったリヴィングストンを見つけ出したエピソードは有名だが、ジャーナリストとして出発したスタンレーは探検というイベントをいかに自己アピールに利用するかに腐心する巧みな演出家であった。

 レオポルドはスタンレーに接触して彼にコンゴでの領土拡張をまかせ、権謀術数を駆使して1885年のベルリン会議で列強にも認知させた。こうして虚栄心の強い二人によってでっち上げられたのが「コンゴ自由国」(Congo Free State, État indépendant du Congo)である。コンゴ国際協会の管轄という建前だが、実質的にはレオポルドの私有地という特異な植民地であった。

 当初は象牙が、後にはゴムがレオポルドの懐に莫大な富をもたらした。ところで、ゴムの樹液集めに原住民を動員するのだが、なかなか効率的に進まない。そこで、chicotteというムチに象徴される強制労働が実施された。“文明”なる偽善の裏にあった実態は残虐である。ベルギーの公安軍(Force Publique)は原住民の女性、子供、古老を人質にして、男たちに樹液集めを強制した。それでも言うことを聞かない村は見せしめのため焼き討ち、皆殺しにしてしまう。白人は現地で徴発した黒人兵に対して武器弾薬を支給するにも、くすねるのではないか、と猜疑心を持っており、一発ごとに証拠を要求した。どんな証拠か? ──殺した相手の右手である。エスカレートして、報酬目当てに生きている人間から右手を切り取るなどということも横行した。個別の殺戮ばかりでなく、構造的な収奪システムからもたらされた飢餓や疫病による死者は数え切れないほど膨大な数にのぼる。

 コンゴの惨状を最初に告発したのはアメリカの黒人でジャーナリスト・法律家・牧師であったジョージ・ワシントン・ウィリアムズ(George Washington Williams)である。黒人の新天地を求めてコンゴを訪れた彼だが、そのあまりに非人道的なあり様を目撃して、レオポルドへの公開書簡を公表。しかし、黒人への偏見のゆえであろう、注目を浴びることはなかった。ウィリアムズは失意のうちに早死にする。

 レオポルド批判の国際世論を巻き起こすのに大きな役割を果たしたのは、イギリス人・フランス人のハーフであったエドマンド・モレル(Edmund Dene Morel)とアイルランド人のロジャー・ケースメント(Roger Casement)である。モレルはコンゴ自由国の特許会社に勤めていたが、コンゴの実態を知って驚愕し、以後この問題に生涯をかけることになる。ちょうど同じ頃、イギリスのコンゴ駐在領事だったケースメントも現地をじかに歩いて実態を調査、本国に向けて報告し続けていた。モレルはケースメントと連絡を取り合いながらジャーナリズムや政治家に働きかけて、イギリス下院でコンゴ問題の調査を要求する決議が通った。レオポルドもロビー活動やマスコミの買収などで反撃に出たが、アメリカ国務省のコンゴ問題担当官に賄賂が渡っていたことが暴露され、その担当官は辞任、ルート国務長官はベルギーに圧力をかける方針を表明した。ベルギー議会も自国の国際的評判が落ちてしまうことに気をとがらせており、1908年、レオポルドはコンゴをベルギー政府に売却することに同意する。翌1909年にレオポルドは死去。彼の浪費癖は知れ渡っており、ベルギー国内でも悲しむ人はほとんどいなかったという。

 モレルの目的が必ずしも達成されたわけではないが、レオポルド個人の恣意的な収奪に比べれば、政府管理の方がまだ改善は期待できると考えた。しかしながら、植民地の実際はほとんど変わらなかったようである。両大戦で資源が必要とされたため強制労働はなくならなかったし、戦後も独立後も、世界経済に組み込まれた中で資源が一方的に流出する構造は続いた。長年にわたって独裁者として君臨したモブツの所業はレオポルドとほとんど同じであったことが指摘される。“レオポルドの亡霊”による呪縛はなかなか消えなかった。

 戦後、コンゴ(ザイール)に駐在したベルギー人外交官が、現地紙に掲載されたベルギーの植民地支配を糾弾する記事に反論しようと考えたのをきっかけに歴史を調べ始めたところ、自分が植民地支配の実際を知らなかったことに気づき愕然としたという話が印象的だ。勤務先である外務省保管の文書にアクセスしようにも拒否されたという。このような歴史の忘却というのも本書のテーマである。アフリカの無名の人々を描きたくても資料が存在しないためできなかったというもどかしさも著者はもらしている。

 そもそも、なぜコンゴだったのか? モレルやケースメントたちが活躍した時代においてベルギーは小国であり、イギリス・アメリカなどの一般大衆にとって“ヒューマニズム”あふれる正義感をぶつけるのに恰好な標的だったからではないのか?という疑問も本書では呈する。イギリスもアメリカも苛酷な植民地支配に手を染めていたにもかかわらず。

 本書を読みながら、ケースメントという人物に興味がひかれた。大英帝国の外交官だが、アイルランド人であるため不遇であった。コンゴ駐在領事の時の活躍は本書のハイライトの一つだが(この時にジョゼフ・コンラッドと知り合った)、その後、ブラジルに赴任、今度はプトゥマヨ(Putumayo)川流域での原住民迫害について憤りを込めて本国へ打電する。コンゴ、プトゥマヨと惨状を目の当たりにしているうちに、他ならぬ彼自身の故国アイルランドもまたイギリスの植民地下に置かれていることへの自覚を改めて強めた。白人か黒人かを問わず、被圧迫者として同列に捉える考え方は人種主義観念が強かった当時としては極めて稀なことであったろう。コンゴ問題の活躍が認められてナイトに叙されたものの、1913年に職を辞してからはアイルランド独立運動に身を投じる。義勇軍を組織し、翌1914年に第一次世界大戦が勃発すると、アイルランド独立の約束を期待してドイツへ行き、武器調達のうえアイルランドへ戻ったところを逮捕された(アイルランドで戦うのが無理ならばエジプトへ行って戦うべきだとも考えていたらしい)。叛逆罪に問われ、1916年に処刑される。同情の声もあがったが、政府は彼がホモセクシュアルであることを意図的に暴露、当時にあってその不名誉は致命的だったようである。

 ケースメントの盟友だったモレルは対照的である。モレルは戦時下にあって、「これは自衛の戦争ではなく、秘密外交がもたらした無用の戦争である」と主張して反戦運動を展開、政府から弾圧を受けて投獄された。ウィルソンの14か条からもわかるように彼の主張が正しかったことが証明されて戦後は一躍脚光を浴び、労働党から下院議員選挙に出馬、対立候補のウィンストン・チャーチルを破って当選した。マクドナルド内閣の外相になるのではないかとも言われたが、無理がたたって体をこわしており、1924年に51歳で世を去る。

 本書の初版は1999年。アフリカ問題や植民地問題でよく言及される割に日本語訳はない。人物群像などもきちんと描きこまれていて歴史ノンフィクションとして読み応え十分だと思うのだが、アフリカ問題の本は日本では売れないからだろう。

 ちなみに、著者の名前にどこかで見覚えがあるなあと思っていたら、感情社会学のアーリー・R・ホックシールドは夫人らしい。『管理される心―─感情が商品になるとき』(石川准・室伏亜希訳、世界思想社、2000年)も実は本棚にあるのだが、まだ読んでいない。

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2009年11月 8日 (日)

ジョゼフ・コンラッド『闇の奥』

ジョゼフ・コンラッド(黒原敏行訳)『闇の奥』(光文社古典新訳文庫、2009年)

 アフリカの象牙を扱う貿易会社に飛び込んだ冒険心旺盛な船乗りのマーロウ。コンゴの奥地で会社随一の成績をあげていたクルツからの連絡が途絶えたため、会社は彼の救出をマーロウに命じた。コンゴ河をさかのぼり、現地民の襲撃をかいくぐってたどり着いた先に見えてきた闇──。クルツは病に衰弱しながらも、カリスマ的な威信で現地民を従えて自分の“王国”を築き上げていた。

 コンラッド『闇の奥』は文学史ばかりでなく、フランシス・コッポラ監督「地獄の黙示録」の原案となったことでも知られている。ヴェトナム戦争に舞台を移したこの映画の有名なシーン、ワーグナー「ワルキューレの騎行」を大音響でがなり立てながらナパーム弾をぶちこみ、「朝のナパーム弾のにおいは最高だぜ!」と言い放つ姿に、コンゴでの白人による現地民殺戮という過去が重ね合わされているのは言うまでもないだろう。『闇の奥』は植民地支配の非人道性を告発した、いや、『闇の奥』という作品自体にも西欧側の偏見が込められている──様々な見解からポストコロニアルの議論の対象となり、両義的な性質を帯びた作品だと言える。たとえば、藤永茂『『闇の奥』の奥──コンラッド・植民地主義・アフリカの重荷』(三交社、2006年)は、『闇の奥』をめぐる議論を踏まえながら、その背景にある植民地収奪の歴史をたどっている。

 こうした話題は別にして、やはり目を引くのはクルツ(「地獄の黙示録」のカーツ大佐)という人物の存在感だ。西欧の価値観の通用しない密林の奥地(そうであればこそ、白人による野蛮な暴力がむき出しになったわけだ)、さ迷いこんだ人間を倒錯した熱狂に駆り立てるような、“文明”という虚飾のひき剥がされた孤独。もちろん、物理的な意味で一人ということではなく、精神的に世界のまっただ中で一人宙吊りにされたような不安感。そうした感覚が体現された、不可解な凄みの恐ろしさと言ったらいいのか。

 なお、『闇の奥』の描写にはコンラッド自身がコンゴへ行った時の実体験や見聞が反映されており、クルツも複数の実在の人物がモデルとなっているらしい(Adam Hochschild, King Leopold’s Ghost: A Story of Greed, Terror and Heroism in Colonial Africa, Pan Books, 2006, pp.144-146)。

 中野好夫訳の岩波文庫版で読んだことはあったが、新訳が出たので購入。光文社古典新訳文庫のラインナップは結構好きなので頑張ってもらいたいところ。

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本田毅彦『インド植民地官僚──大英帝国の超エリートたち』

本田毅彦『インド植民地官僚──大英帝国の超エリートたち』(講談社選書メチエ、2001年)

・1855年以降、インド高等文官の公開競争学力試験→試験による選抜によって地位を与える近代的メリトクラシーの先駆と言われている。オクスブリッジ出身者を優先的に採用したいという思惑に合わせた試験科目→社会的・知的背景を共有するイギリス人青年が主流(インド人も試験にパスするにはオクスブリッジ出身であることが有利→「王よりも王党的な」インド人)。スコットランド人、アイルランド人、インド人などは高等文官では少数→他の職域でのパーセンテージが大きい。
・本国の内閣でインド担当相は蔵相・外相に次ぐ格付けで、インド高等文官にも高いステータス。
・本書は、インド高等文官となった人々の出身背景、本国のイギリス人政治家・インド高等文官・インド人政治家という三者間の対抗・同盟力学、高等文官の生活誌などを分析。
・インド植民地は本国から実質的に自立した政治的・経済的単位となった→高等文官たちは、インド植民地とイギリス帝国全体、双方への忠誠心でバランスをとる→両大戦間期における帝国の危機、インド・ナショナリズムの高まりなどの新しい動向に対しても、インド統治継続のため政策的調整、インド統治再編成への志向。政治家なのか、官僚なのか?
・イギリス植民地統治の基本は土着権力者を利用した間接統治だったが、インド(藩王国を除く)ではイギリス人植民地官僚の直接統治→リーダーシップを有するジェネラリスト的管理者→退職後は民間セクターへ。
・インド・パキスタンが独立しても高等文官はシステム的にも人的にも継続性あり。

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2009年11月 7日 (土)

正木恒夫『植民地幻想──イギリス文学と非ヨーロッパ』

正木恒夫『植民地幻想──イギリス文学と非ヨーロッパ』(みすず書房、1995年)

 ポカホンタス、コロンブス、シェイクスピア『テンペスト』、ロビンソン・クルーソー物語、キャプテン・クック、コンラッド『闇の奥』、シャーロック・ホームズ──。日本でもよく知られたエピソードや文学作品を読み直しながら、ヨーロッパが異世界と出会ったときにどのような眼差しを向けてきたのかを再検討する。

 意図的かどうかはともかく、“野蛮”イメージ(とりわけ“食人種”に注目される)を作り上げたことによる、相手文化に対して振るった暴力の後ろめたさへの正当化、さらにはキリスト教もしくは近代化の“偉大さ”の勝利。こうした発想によって欧米の植民地支配が“文明の福音”という名目で美化されていたことは周知の通りである。逆に、ルソーをはじめとしてよく見られる“高貴なる野蛮人”も、自分たち自身を批判するために作り出された他者イメージであった、その意味では相手文化の実際など閑却されていたという点ではやはりヨーロッパ中心的な視点がはらまれていた。いずれにしても、ヨーロッパからの一方的な他者規定が意識の奥底まで根深く巣食っていた様子が文学作品の些細な一節からも浮き彫りにされてくる。

 こうした眼差しは日本にとっても他人事ではない。本書の糸口となる竹山道雄『ビルマの竪琴』に現われた食人種の話や新井白石がシドッチを通して得た世界認識などは歴史上の一エピソードにとどまるかもしれない。だが、日本は近代化が不徹底だったから“侵略国家”になったのではなく、むしろ近代化=西欧化を進めてきたからこそ植民地主義的な眼差しをも内面化してしまったのではないかという問題提起はよく考えてみる必要があるだろう。

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2009年11月 6日 (金)

木畑洋一『イギリス帝国と帝国主義──比較と関係の視座』

木畑洋一『イギリス帝国と帝国主義──比較と関係の視座』(有志舎、2008年)

・イギリス帝国を視点の基軸に置きつつ、「帝国主義」をめぐる諸論点を考察。
・19世紀後半以降、「帝国」による世界分割。日本の登場は、この帝国主義世界体制をむしろ完成させた。
・帝国意識:民族・人種差別意識と大国主義的ナショナリズムの結び付き→「文明の使命」感。階級意識にかかわらず日常生活に見られた潜在的帝国意識を検討する必要。ナショナル・アイデンティティの強化という機能(1960年代以降、スコットランドやウェールズなどの「ナショナリズム」→国民国家が自明視できず→「イギリス人」統合の表象として「帝国意識」)。
・支配者側に多民族支配を当然視する意識がある一方で、被支配者側にも支配・従属を不思議に思わない依存意識・植民地意識が培養された(とりわけ文化面で)→政治的には独立してもこの点での脱植民地化が未完の課題として残った。また、経済構造の問題。
・他方で、旧支配者側に残った「大国意識」からの脱却も課題。イギリスの場合、ヨーロッパ統合に消極的となった原因。

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2009年11月 5日 (木)

ミハイル・バフチン『ドストエフスキーの詩学』

ミハイル・バフチン(望月哲男・鈴木淳一訳)『ドストエフスキーの詩学』(ちくま学芸文庫、1995年)

 昔から気になってはいても敬遠してなかなか手がのびなかった本が色々とあるが、そうしたうちの一冊。先日、ピーター・バーク(原聖訳)『近世ヨーロッパの言語と社会──印刷の発明からフランス革命まで』(岩波書店、2009年)を読んでいたらミハイル・バフチンに言及されていたので思い出し、勇を鼓して読み始めたのだが、これがまた実に素晴らしい。

 “ポリフォニー”と“カーニバル”、二つのキーワードをもとにドストエフスキーの作品世界を読み解いていくという内容である。ドストエフスキーが何を言っているか、ではなく、どのように語っているか、つまり彼の作品の叙述構成そのものに思想としての迫力があることを鮮やかに示した着眼点が非常に面白い。ドストエフスキー評価という以前に、そのテクストを読み込んでいくバフチンの眼差し自体に思想としての説得力があって、久々に興奮しながら読み進めた。

「それぞれに独立して互いに融け合うことのないあまたの声と意識、それぞれがれっきとした価値を持つ声たちによる真のポリフォニーこそが、ドストエフスキーの小説の本質的な特徴なのである。」…「ここではまさに、それぞれの世界を持った複数の対等な意識が、各自の独自性を保ったまま、何らかの事件というまとまりの中に織り込まれてゆくのである。」…「作品構造の中で主人公の言葉は極度の自立性を持っている。それはあたかも作者の言葉と肩を並べる言葉としての響きを持ち、作者の言葉および同じく自立した価値を持つ他の主人公たちの言葉と独特な形で組み合わされるのである。」(15~16ページ)

「ドストエフスキーの世界は根本から多元的な世界である。もしかりにその世界が全体として志向しているようなイメージを、あえてドストエフスキー自身の世界観にそった形で求めるならば、それは互いに融合し合うことのない魂同士の交流の場としての教会、罪人も義人もともに集う教会であろう。あるいはおそらくダンテ風の世界──多次元性がそのまま永遠性につながり、悔いることなき者たちと悔いた者たち、罪人と救われた者たちがともに集う世界──であろう。」(55ページ)

 ドストエフスキーの小説世界に登場する人々にはすべて自律的なイデーがある、つまり自分らしさを持っている。ストーリー進行上の登場頻度という点では主役・脇役という配列が確かにあるかもしれない。しかし、彼ら一人ひとりの発する言葉には、その人でなければ言えないという必然性がある。ストーリー構成上のコマとして作者によって操られているのではなく、自分自身の言葉を語り始める彼らは時には作者の思惑をも超えた存在感を示す。すべての登場人物が主体的な意識を持っており、そうした複数の意識のありようを同時に描き分けることができたところにドストエフスキーの作り上げた小説世界の画期的な重要性があるのだとバフチンは指摘する。

 従来型の小説では作者が自らの意図なり思想なりを表現するという姿勢が打ち出されている。つまり、結論はすでに決まっており、話題をその方向へと流し込むための道具として登場人物は造型されている。作者の思想に反対するキャラクターは、反対する者という負の役割を担ってストーリーにメリハリをつけるために登場する。「モノローグ的世界では《第三の立場は許されていない》、つまり思想は肯定されるか否定されるかのいずれかしかない」(164ページ)。「モノローグ原理においては、イデオロギーが描写の結論すなわち意味上の総括の役割を果たしているために、描写された世界は不可避的に、その結論に対するもの言わぬ客体と化してしまう」(169ページ)。モノローグ型の小説があたかも一神教的な視点に基づき一方向的に世界を作ろうとしているものとたとえるならば、ドストエフスキーの場合には、そのように俯瞰する一元的な視点は最初から存在せず、多様な声がそれぞれ自律的に響き、相互に矛盾しながらも絡まり合っていくカオティックなありのままを小説世界において再現し得ているところに特徴がある。

「意識をモノローグ的に捉える姿勢は、思想的創造行為の別の分野でも支配的である。意義や価値を持つものはすべて唯一の中心、すなわちその担い手の周囲に集められる。あらゆるイデオロギー的創作は、一つの意識、一つの精神のあり得べき表現と考えられ、受け取られている。ある集団や、多種多様な創造力が問題となっている場合でさえも、例えば国民精神、民族精神、歴史精神といったような一つの意識の内に集め、単一のアクセントで縛ることが可能である。そしてそのようなまとまりに従わないものは、偶然的で非本質的なものとされるのだ。近代においてモノローグ原理が強化され、それが思想活動のあらゆる領域に浸透してきたことに力を貸したのは、単一で唯一の理性を崇拝するヨーロッパの合理主義、とりわけ啓蒙主義時代の思潮である。この時代に、ヨーロッパ散文文学の基本的なジャンルの諸形式が形成されたのである。西欧的ユートピア思想もすべてこのモノローグ原理に基礎を置いている。信念の万能性を信じたユートピア社会主義も、またその仲間であった。そしていつの世でも意味の同一性の表象とされるのは、単一の意識、単一の視点なのである。」(167~168ページ)

 理性中心の合理主義や啓蒙主義に淵源する西欧“近代”を文学というジャンルで体現していたのがモノローグ的な言説空間である。これに対して、ドストエフスキーが“ポリフォニー”を可能にすべく用意した舞台が“カーニバル”であった。それは、日常のヒエラルキーが崩され、常軌を逸した矛盾そのままに、あらゆる言葉が対等な立場で響き合う、そうした開かれた対話の空間である。

「カーニバル化は常に様々なジャンル、様々な閉じられた思想体系、様々な文体といったもの相互間のあらゆる障壁の撤去に力を発揮し、あらゆる閉鎖性や相互的な無視を一掃し、遠いものを接近させ、ばらばらなものを統合してきたのであり、そこにこそ文学史におけるカーニバル化の偉大な機能は存するのである」(270ページ)

「カーニバル化──それは出来合いの内容の上にかぶせる表面的な不動の図ではなく、芸術的なものの見方の非常に弾力性に富んだ形式なのであり、それまで見たことのない新しいものの発見を可能にする、一種の発見の原理なのである。交替と更新のパトスを伴ったカーニバル化は、表面的に堅固な、完成された、出来合いのものをすべて相対化し、ドストエフスキーに人間および人間関係の最深層をのぞき込ませたのである。」(335ページ)

カーニバル的形象においては「両極端が互いに出会い、互いを互いの中に見出し合い、反映し合い、知り合い、理解し合っている」。ドストエフスキーの「創作世界に生息するものはすべて、自らの対立物との境界線上に立っているのである。愛は憎悪との境界線上に生息し、憎悪を知り、理解しているのであり、一方憎悪は愛との境界線上に生息し、同じように愛を理解しているのである」。…「また信仰は無神論との境界線上に生息して、無神論の中に映る自分の姿を見、無神論を理解するのであり、一方無神論は信仰との境界線上に生息し、信仰を理解するのである。崇高や高潔は、堕落や卑劣との境界線上に生息している(ドミートリー・カラマーゾフ)。生に対する愛は自己消滅の欲望に隣接している(キリーロフ)。純粋無垢と賢智は背徳と肉欲を理解しているのである(アリョーシャ・カラマーゾフ)。」…「カーニバル化は、大きな対話の開かれた構造を作り出すことを可能にした。すなわち従来は主として単一かつ唯一のモノローグ的意識が、つまり(例えばロマン主義のおけるように)単一不可分で自己増殖的な精神が支配していた精神と知の領域の中に、人間の社会的な相互関係を持ち込むことを可能にしたのであった。カーニバル的世界感覚の助けがあればこそ、ドストエフスキーは倫理的および認識論的な独我論を克服できるのである。自分自身とのみ取り残された人間は、自らの精神生活のもっとも深奥の内面的な領域においてさえ、ものごとに決着をつけるということができず、他人の意識なしにはにっちもさっちもいかないのだ。人間は、自分自身の内側だけでは、けっして完全な充足を見出すことができないのである。」(354~356ページ)

 あらゆる登場人物が脇役ではなく自律性を備えた主体である、と言っても、それぞれが自己完結した単位であるかのようにイメージしてしまうと間違ってしまう。“自分”なるものの内部にも“他者”の視線が入り込み、その入り組んだ自己内分裂の自覚から言葉がにじみ出てくる。たとえば、『地下室の手記』の語り手についてこう述べられる。

「自分に対する他者の意識の支配から逃れ、自分自身のための自分自身にどうにかしてたどり着こうとする最終的で絶望的な試みとして、他者の内にある自分のイメージを破壊し、他者の内なる自分のイメージを汚染すること──これこそ、《地下室の人間》の告白全体の狙いである。だからこそ彼は故意に、その自分自身についての言葉を醜悪なものにしようとする。そして彼は、他者の目に(かつ、自分自身の目に)英雄として映りたいという、自分の内なる欲望をすべて抹消しようとするのである。」(478ページ)

 カーニバル的な対話空間は、こうした自己内分裂をも白日の下にさらけ出してしまう。そもそも、自分が一体何者なのか? 一つ一つの言葉が呼びかけ、呼びかけられ、相互応答する中ではいずりまわる。作者自身も上から目線で彼らを操るなどということはできず、同じ地平に巻き込まれて対等な立場で登場人物たちとの結論なき対話に応じ、さらには読者もまた、作者をも含めた彼らの呼びかけに向かって真摯に呼応せざるを得なくなる。そのような応酬で切り結ばれた言葉にこそ、読み手の肺腑をえぐり、不安に陥れるリアリティーがあった。

「主人公の対話に介入せず、中立的に、客観的にその完結した形象を紡ぎ出す当事者不在の言葉というものを、ドストエフスキーは知らない。人間の個性を総括してしまうような《当事者不在》の言葉というものが、彼の構想に入り込むことはないのである。自らの最後の言葉をもはや言いきってしまった確固とした、生気のない、完結した、返答のないものは何一つ、ドストエフスキーの世界には存在しないのである。」(525~526ページ)

 話はかわるが、私自身の基本的な関心事は、東アジア世界における日本の近代思想史を自分なりの視点で捉えてみたいというところにある。右翼とか左翼とか、保守派とか進歩派とか、体制派とか反体制派とか、そうやって画然と分類して、一方を是として他方を論難するような議論というのが昔から大嫌い。と言うか、肌に合わない。真摯な言葉であれば、その人がどんな立場にあろうともそう語らざるを得なかった必然性というのがやはりあるわけで、それぞれに多様な思想が互いに矛盾しつつも絡まり合って、総体として、それこそポリフォニーとして響き合っている、そうしたあり様を描き出した思想史があれば是非とも読んでみたいし、なければ出来得るならば自分自身で書いてみたい(言うまでもないが、教科書的にこんな思想があった、あんな思想もあったと無味乾燥に列挙するのとは次元が根本的に異なる)。バフチンを読みながらそんな気持ちに駆られたという次第。

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2009年11月 4日 (水)

酒井駒子『BとIとRとD』

酒井駒子『BとIとRとD』(白泉社、2009年)

 大人にとっては当たり前な日常の出来事とか、他愛のない夢とかに、いちいち驚いたり、おびえたりした幼稚園の頃。そうした感じやすさを連作エピソードにした絵本。酒井さんの絵の、黒い色調をベースに輪郭のぼやけたタッチ、そこから漂う独特に淡い感傷が好きで手に取った。ボール紙の風合いが黒と相性が良いとのことで、ボール紙に直接描かれた作品が多い。この絵本もボール紙を意識した装丁になっている。私が初めて酒井さんの絵を見て一目惚れしたのはworld’s end girlfriend「The Lie Lay Land」というCDのジャケットだったが、これもボール紙の風合いを強調したつくりになっていた。

 先日、台北に行った折、誠品書店信義店5階の絵本売場をのぞいたら、酒井さんの絵本の小コーナーが設けられていた。中国語訳も出ており、台湾でもファンは結構いるようだ。

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2009年11月 3日 (火)

ベネデット・クローチェ『思考としての歴史と行動としての歴史』

ベネデット・クローチェ(上村忠男訳)『思考としての歴史と行動としての歴史』(未來社、1988年)

・「あらゆる歴史的判断の根底に存在する実践的欲求は、あらゆる歴史に「現代史」としての性格を与える。というのも、そこに含まれている諸事実がたとえ年代的にどれほど古く見えようとも、それはつねに現在の欲求と状況とに関わっている歴史なのであり、それらの諸事実がその鼓動を伝えるのは現在の状況のなかにおいてであるからである。」…「わたしはそれらの歴史を文章にしてあるいは頭の中で書くことによって、わたしが現在置かれている状況の歴史を書いていることになるのである。」

・アーノルド・トインビーが、大学でトゥキュディデス『戦史』の講義をしていた時に第一次世界大戦の勃発を目の当たりにして、はじめてトュキュディデスの受けたであろう衝撃に思い至ったというエピソードを思い起こす。この体験が彼の比較文明論のきっかけになったというのは有名な話。

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2009年11月 2日 (月)

なぜポスコロに関心を持ったかというと

 なぜポストコロニアリズムに関心を持ったかというと、きっかけは『民俗台湾』について調べ始めたこと。戦後になって“大東亜共栄圏”イデオロギーや優生学などを批判するという観点から『民俗台湾』も取り上げられた(→詳細はこちらを参照のこと)。

 しかしながら、戦時下という時代風潮の中で雑誌を継続して出し続けるためには当局に迎合する発言もしなければならないし、むしろ『民俗台湾』の同人は皇民化政策には反対していた。ところが、戦後の研究者は誌面に現れた文字面だけを読む。当局の検閲を意識せざるを得なかった表現をとらえて、いわば揚げ足取りをするような形で、『民俗台湾』も植民地批判という議論の中に組み込まれていった。

 誤解しないで欲しいのだが、“植民地批判”そのものに異議を唱えているわけではない。私が言いたいのはそういうことではなくて、“植民地批判”の議論の枠組みそのものが、戦前とは異なる形ではあるが、戦後という一時代においてもまた学知的に制度化されている。その構造的に生硬な視点で過去を振り返ると、必然的に断罪の口調を帯びる。見方を変えれば、戦後の思考枠組みで戦中の思考枠組みを批判する形式になっており、そうした議論を進めるコマとして『民俗台湾』は利用されているに過ぎない。通史的な議論としてはそれなりに意義のあることだとは思うが、抽象化された図式対図式の議論の中では具体的に生きた人間像は欠落しており、『民俗台湾』同人の抱えざるを得なかった葛藤は無視されてしまう。コマとして使われただけの当事者としてはたまったものではない。

 日本の植民地支配下に置かれ皇民化政策が推進された台湾のマージナルな位置は、政治的にだけではなく意識形態においてもアイデンティティ抹消の危機に直面した点でポストコロニアルの議論に適合的であろう。学知的あり方の非対称性が抑圧的な権力を帯びてしまう問題を検討するポストコロニアリズムの視点からは、日本人学者=知的権力者、植民地民衆=被抑圧者、という図式が導き出され、とりわけ民族学・民俗学などは標的にされやすい。

 ところで、『民俗台湾』編集同人は、日本人でありつつも、抑圧の対象であった台湾文化を理解したいと思っていた。支配‐被支配という関係において日本人と台湾人との間に大きな壁が立ちはだかっていたのは確かである。ただ、彼らの主観的な善意も社会的構造に絡め取られてしまっては無力であった、所詮は自己満足に過ぎない、そう言ってしまうのは簡単だが、このような矛盾に直面していることを自覚していた点では、彼らもまた同様にマージナルな存在だったとも言える。たとえば『民俗台湾』同人だけでなく、朝鮮半島にとっての柳宗悦や浅川伯教・巧兄弟なども含め、日本人でありながらも被支配者側の文化に共感を寄せた人々の位置付けはどう考えればいいのか。抑圧‐被抑圧という二元論的構図では奥行きをもって考えることはできない。

 三尾裕子「植民地下の「グレーゾーン」における「異質化の語り」の可能性──『民俗台湾』を例に」(『アジア・アフリカ言語文化研究』第71号、2006年3月)は植民地主義と人類学の関係という問題意識を踏まえて『民俗台湾』をめぐる従来の議論をレビュー、「構造的加害者の側に立つ人間であっても、彼らには多様な思いや植民地支配に対する不合理性への懸念などがありえたのではないだろうか?」と問いかけ、「我々は、とかく明確な立場表明を行った抵抗以外の言説を植民地主義的である、と断罪しがちであるが、自分とは違った体制下の人の行動を、現在の分析者の社会が持つ一般的価値観で判断することは、「見る者」の権力性に無意識であるという点において、植民地主義と同じ誤謬を犯している」と指摘していた。こうした観点に私も共感している。

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カルスタとかポスコロとか

 カルスタとかポスコロとか、あまり関心を払ってこなかったのでちょっとお勉強。

上野俊哉・毛利嘉孝『カルチュラル・スタディーズ入門』(ちくま新書、2000年)
・登場の背景:バーミンガム大学現代文化研究センター。1980年代、労働者階級にとって不利なのにもかかわらずサッチャリズムへの支持。旧来型左翼の啓蒙的議論が有効性を失っていた→サッチャリズムによる政治的再編成に期待。むしろ、社会的に疎外されていた若者たちの怒りはレゲエやパンクロックに代弁されているとして支持された。
・大学においてディシプリンの自明視→知的生産の権力性→これを疑う。しかし、「黒人研究」「フェミニズム」「クィア・スタディーズ」といった学部を創設しても、アカデミズム内のゲットー化にすぎない。「カルチュラル・スタディーズとは「汚い」世界の問題をアカデミズムという「清潔な」空間に持ち込むこと」(スチュアート・ホール)
・コード化‐脱コード化:コードを受け止める側の階級・性別等の属性に応じて異なり、一方通行ではない→「読み」の多様性→均質的に想定された「大衆」など存在しない。
・サブカルチャー:高級文化でも大衆文化でもない、しかしそうなることもあり得る曖昧な文化領域→この動的かつ不安定なあり方に注意を払う。本質主義的な定義はなじまない。
・人種主義:対抗言説化すると、裏返しの人種主義として共犯関係に陥る危険。例えば、ムスリムの伝統を守るための分離教育は極右からも支持されてしまう。
・ポストコロニアリズム:知的構造の非対称性→権力性という観点でカルチュラル・スタディーズと共通。抑圧への抵抗だけでなく、政治性に注目するあまりにその文化の中にある「喜び」「楽しみ」といった自発的・自律的な側面を過小評価しないよう留意すべき。
・カルチュラル・スタディーズの制度が進む→既存のディシプリンと同種の一領域になりさがってしまうのではないか? マイノリティ・差別・貧困・暴力といった、もともとアクチュアルな関心からアカデミズムの動向とは関係なく取り組まれていたテーマが、一見ラディカルに見えても、アカデミズム内部だけで流通する知的商品になりさがっていないか?
・カルチュラル・スタディーズは、「わかりやすく」説明することではなく、日常生活の中で直面する不条理の「わからなさ」のありかをはっきりさせること。

本橋哲也『ポストコロニアリズム』(岩波新書、2005年)
・歴史(正史)や文学(正典)の見直し、その中でオミットされてきた記憶をどのように聞き取るかという問題意識。
・他所を一方的に野蛮化して否定する論理→その生成の具体例として「食人種」。
・フランツ・ファノン。
・エドワード・サイード。
・ガヤトリ・スピヴァク:戦略的本質主義(「弱者」という性質をいったん「本質」と認めることで抵抗の糸口とする。その「本質」を共有することで他者と連帯)。「知る」者自身の特権性を自覚→「学び捨てる」。(※G・C・スピヴァク[上村忠男訳]『サバルタンは語ることができるか』[みすず書房、1998年]は去年読んだのを思い出した→こちら

ロバート・J・C・ヤング(本橋哲也訳)『1冊でわかる ポストコロニアリズム』(岩波書店、2005年)
・様々な国や地域の様々な具体例やテーマをパッチワークしながら、ポストコロニアリズムの大枠としてのイメージを浮かび上がらせていく構成。
・「理論」を打ち出してしまうと、それによってまた別の問題が新たに排除・生成してしまう。多様な営みをいかにそれぞれに適切なやり方で把握していくかというところにポストコロニアリズムの問題意識があるわけで、そうした性格に合った叙述方法をとっている点でなかなか良い本だと思う。

※「理論」(=上から目線)で裁断される以前の、いまここで具体的に生きられている生身の問題を把握→解決につなげていこうという姿勢はまっとうなのに、これが日本のアカデミズムを通して提示されると「よそよそしい」のは一体どうしてだろう? そのあたりの違和感の一つは李建志『朝鮮近代文学とナショナリズム──「抵抗のナショナリズム」批判』(作品社、2007年)、『日韓ナショナリズムの解体──「複数のアイデンティティ」を生きる思想』(筑摩書房、2008年)で吐露されており、興味深く読んだ(→こちら)。

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2009年11月 1日 (日)

平野千果子『フランス植民地主義の歴史──奴隷制廃止から植民地帝国の崩壊まで』

平野千果子『フランス植民地主義の歴史──奴隷制廃止から植民地帝国の崩壊まで』(人文書院、2002年)

・フランス人権宣言→当初は植民地に適用されず。
・植民地の領有と奴隷制とは別物、悪いのは後者だと考えていた。
・フランス革命の最中、サン=ドマング(ハイチ)で奴隷の反乱→白人植民者はイギリスと同盟→革命政府は奴隷制廃止で植民地の確保を図る→しかし、ナポレオンが奴隷制復活→ハイチは独立→フランスには、奴隷制廃止=植民地崩壊という強迫観念。
・1848年の二月革命→奴隷制の廃止=“文明化”(自由・平等の共和主義が共和国フランスへの同化を意味するようになる)。シュルシェール「王政は奴隷にしたが、共和国は自由にする」→革命の理念と“文明化”言説が結び付く。他方で、アルジェリアには奴隷制があった→やめさせるのも“文明化”→アルジェリア征服を正当化。同化政策を明確に表明。限定条件付で植民地に参政権を与えたが、差別は残る。
・19世紀は“進歩”の時代→植民地拡張という形で「外の文明化」、貧困層も含めて公教育→「内の文明化」が同時進行。
・フランスは革命の国、人権の国である“にもかかわらず”植民地支配をしたのではなく、むしろ革命の理念こそが“文明化”という形で植民地支配を正当化した。

・混血児イスマイル・ユルバンのアイデンティティをめぐる葛藤。

・第三共和制のジュール・フェリー首相:脱カトリックの教育改革→共和主義的国民意識の形成。人種主義的な風潮の中、フランスが「野蛮で」「劣った」民族を「教化する」ことが“文明化”→植民地拡張を正当化。これは共和主義者が推進。
・保守派は経費負担の重さから植民地に反対し、むしろアルザス・ロレーヌ奪還を優先すべきと主張。しかし、1890年前後以降、劣勢にあったため保守派も共和政を受け入れてから、植民地拡張に賛成。
・“文明化”言説の重層性:共和主義者が掲げる革命の理念だけでなく、保守派のキリスト教化という理念も許容された。

・戦間期には植民地の領有は自明視。第一次世界大戦で植民地の有用性が確認された。
・ブルム・ヴィオレット法案:植民地の権利面での同化を認める法案だが、アルジェリア入植者階層の反対で廃案(権利の同化→支配関係が崩れてしまう)。この法案の背景として、アルジェリアの民族運動家は独立よりも政治的地位の向上を優先させていた。当初、アルジェリアではフランス市民権を得るにはイスラムの棄教が条件とされていたが、その条件なしの同化を目指す→フランス市民になりつつも、文化的拠り所は維持したいという思い。提案者ヴィオレットの発言「アルジェリア『原住民』には、まだ祖国がない。彼らは祖国を求めている。フランスという祖国を求めているのだ。速やかにそれを与えよ。さもないと、彼らは別の祖国を作るだろう」。
・アンドレ・ジイドは改良主義的→植民地の白人による過酷な支配形態を批判はしたが、植民地支配そのものを批判したわけではない。他方で、フェリシヤン・シャレは植民地の解放を主張(ただし、彼は第二次世界大戦で対独協力を容認した経緯があるため、戦後は忘却された)。
・フランスで自由と平等を学んだ留学生がこの矛盾に気付いた、つまり民族解放の理念を学んだのはフランスにおいてであったという言い方にはフランス中心の偏りがないか?と指摘。そうでないケースとして、ファン・ボイ・チャウを例示。
・セネガルのブレーズ・ディアニュは、兵役=「血の税金」こそが完全同化への道だと主張。ただし、アフリカは自前の国家を持つ前に植民地化された→従属から脱する方法としてまず支配者と対等の立場を目指したという側面が強い。

・第二次世界大戦で、ヴィシー政権とドゴール派のそれぞれが植民地に自分側につくよう働きかけ→カリブ海出身でチャド総督のフェリックス・エブエの主導でアフリカ植民地はドゴール派についた→コンゴのブラザヴィルが自由フランスの首都。対独抵抗運動の基盤としての植民地の存在。
・戦後の植民地は、フランスの外交方針としての“大国意識”に翻弄され、“文明化”言説とは関係ない。
・「フランス連合」から「共同体」への再編:植民地の自発的意志により、不参加は独立という建前だが、独立を選んだ場合には経済援助なし。
・フランスの植民地支配が日本のそれよりも批判を受けていないのはなぜか? 日本の場合にはスローガンに天皇制→フランスが(現実はともかく)掲げた理念の普遍性がなかった。ただし、フランスは、その掲げた普遍性が植民地主義の免罪符として作用、かえって植民地支配の問題点を自ら問い直す契機がなかったとも言える。
・被植民地側にも“オクシデンタリズム”の問題。ヨーロッパ文明への憧憬から、フランスを価値序列の上位に位置付け、社会的ステータス上昇のため自ら進んで“同化”を目指したという側面も指摘され得る。
・被植民地側の特徴として“クレオール”、つまり複数意識を肯定する考え方→これに対して、“ネグりチュード”の問題。“クレオール”的な複数意識の中から黒人としてのアイデンティティのみを抽出・単一化させて(それもまた虚構であっても)植民地主義へのアンチテーゼにしてしまう志向性。

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2009年10月31日 (土)

城内康伸『猛牛(ファンソ)と呼ばれた男──「東声会」町井久之の戦後史』、森功『許永中──日本の闇を背負い続けた男』

城内康伸『猛牛(ファンソ)と呼ばれた男──「東声会」町井久之の戦後史』(新潮社、2009年)

 戦後間もなくの暴力団抗争や朝鮮総連と民団との対立といった話題の中で東声会の名前をよく見かけ、気になっていたので本書を手に取った。町井久之こと鄭建永(1923~2002年)の生涯を通して描かれた戦後日韓関係の裏面史である。力道山、児玉誉士夫、朴正熙政権をはじめ様々な人脈関係が見えてくるのが興味深い。

 冒頭、町井の書斎のシーンから始まるが、哲学や美術に関心を寄せる彼の内面と暴力団の親玉という世間的なイメージとのギャップが印象に残る。本当は画家になりたかったが、成り行きから“任侠”の世界に飛び込まざるを得なかったという。東声会は朝鮮総連への対抗上、東洋倫理思想を基盤に反共を旗印とした政治運動のつもりで組織したらしいが、武闘抗争で頭角をあらわすにつれて暴力団として一般に認知されてしまった。

 町井の関連企業や団体に“東亜”という言葉が入っているのが目を引く。彼は若い頃、石原莞爾の東亜連盟に共鳴していた。東亜連盟は各民族の政治的自治と対等な協力関係をスローガンとして掲げていたため朝鮮人にも信奉者が多かったことは阿部博行『石原莞爾』(法政大学出版局、2005年→こちら)で知った(町井に東亜連盟の思想を伝えた曺寧柱は、極真空手の大山倍達に空手の手ほどきをしたことでも知られている。大山も東亜連盟に参加していた)。現在の視点からは東亜連盟を全面的に肯定するのは難しいかもしれない。しかし、日本では差別を受けながらも日本名を名乗って生きざるを得なかった一方で、韓国への愛国心を両立させるという矛盾、そこに何とか一つの納得を与えようとする町井たちの葛藤の受け皿となっていた点については再考の余地があるようにも思われる。

森功『許永中──日本の闇を背負い続けた男』(新潮社、2008年)

 本書の大半では戦後日本における政財界の裏人脈が細かに描写される。その中で、差別、スラムといった生い立ちの原風景を起点に、チンピラから身を立てのし上がっていく許永中(1947年、大阪生まれ)の軌跡をたどる。正規のルートでは出世などおぼつかず、裏社会に活動の舞台を求めねばならなかったわけだが、「俺は悪漢ではあっても詐欺師ではない!」という彼のプライドが目を引く。許は町井久之にあこがれていたのではないかという指摘もあった。“日韓の架け橋”を夢見て、日韓間に就航するフェリー会社の社長になろうとしたあたりには町井と共通したこだわりも見出される。

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2009年10月30日 (金)

メアリ・ダグラス『汚穢と禁忌』

メアリ・ダグラス(塚本利明訳)『汚穢と禁忌』(ちくま学芸文庫、2009年)

・「汚穢(ダート)とは本質的に無秩序である。絶対的汚物といったものはあり得ず、汚物とはそれを視る者の眼の中に存在するにすぎない。」…不浄とは秩序を侵すものであり、「従って汚物を排除することは消極的行動ではなく、環境を組織しようとする積極的努力なのである」。つまり、汚物への忌避感や恐怖感そのものから排除しようとしているのではなく、汚物という形で眼前に表われた秩序に収斂しきれないものを、一定の形式や世界観の中で脈絡付けて統一的に理解していこうとする試みである(33~34ページ)。

・不潔に関する観念が象徴的体系である点ではヨーロッパ社会も未開社会も変わらない。現代ヨーロッパ社会において汚物は宗教性とは関係ないこと、汚物の捉え方が細菌学や公衆衛生学の知識に支えられていることでは確かに未開社会とは異なるが、「にもかかわらず、我々の汚物に関する観念がこの百五十年間の間に発生したものではないことは、明らかなのだ。我々は、汚物=回避が細菌学によって変形させられる以前の──例えば痰壷に器用に唾を吐くことが非衛生的であると考えられる以前の──汚物=回避の基礎を、分析しようとする努力をしなければならないであろう。」…「汚れとは、絶対に唯一かつ孤絶した事象ではあり得ない。つまり汚れのあるところには必ず体系が存在するのだ。秩序づけとは、その秩序によって不適当な要素を排除することであるが、そのかぎりにおいて、汚れとは事物の体系的秩序づけと分類との副産物なのである。」→汚れとはあくまでも相対的観念なのである(102~103ページ)。汚物とは、ある体系を維持するためにそこには包含されないとみなされたものである。

・そうした象徴的観念の体系は、儀式を通して具体性を持った意味として経験される。「儀式とは事実、創造的なものである。原始的儀式における呪術は…階層的秩序に応じてそれぞれに定められた役割を果す人々を包含する調和的世界を創出するのである。原始的呪術は無意味であるどころか、まさに人生に意味を与えるものであるのだ。」(180~181ページ)

・「秩序を実現するためには、ありとあらゆる素材から一定の選択がなされ、考えられるあらゆる関係から一定の組み合わせが用いられる」。「従って無秩序とは無限定を意味し、その中にはいかなる形式も実現されてはいないけれども、無秩序のもつ形式創出の潜在的能力は無限なのである。」「我々は、無秩序が現存の秩序を破壊することは認めながら、それが潜在的創造能力をもっていることをも認識しているのだ。無秩序は危険と能力との両者を象徴しているのである。」(227ページ)
(※既存の体系から離れた無秩序の残余、そのカオティックな性質が、秩序の側からすれば危険視されると同時に、他方で新たな秩序形成の契機ともなり得る→この論点からカール・シュミットの“例外状態”の議論を連想したのだが、想像の走らせ過ぎか?)

・「穢れとはもともと精神の識別作用によって創られたものであり、秩序創出の副産物なのである。従ってそれは、識別作用の以前の状態に端を発し、識別作用の過程すべてを通して、すでにある秩序を脅かすという任務を担い、最後にすべてのものと区別し得ぬ本来の姿に立ちかえるのである。従って、無定形の混沌こそは、崩壊の象徴であるばかりでなく、始まりと成長との適切な象徴でもあるのだ。」(359~360ページ)

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2009年10月29日 (木)

ピーター・バーク『近世ヨーロッパの言語と社会──印刷の発明からフランス革命まで』

ピーター・バーク(原聖訳)『近世ヨーロッパの言語と社会──印刷の発明からフランス革命まで』(岩波書店、2009年)

 ある国民国家に属する者は誰もが同じ言葉を使わねばならない、そうした考え方が確立したのはフランス革命期であったというのはもはや通説か(たとえば、田中克彦『ことばと国家』[岩波新書、1981年]を参照)。言語と共同体との関係に焦点を合わせた本書も基本的にこの枠組みに立つが、同時にそれ以前(フランス革命以降を“近代”とするなら、それ以前の“近世”)からの言語形態や民族概念における連続的かつ複雑な因果関係に目を向ける。“共同体”や“民族”というのも定義の非常に難しい言葉だが、そこに込められた「われわれ」意識の一つの指標として機能する言語の役割を歴史的に検討していると言えるだろう。ヨーロッパ諸語を中心に豊富な具体例を盛り込みながら、多様な言語のせめぎ合いを描き出しているところが興味深い。

・ラテン語から俗語へと遷り変わるダイナミズムの描写が本書の骨格。
・ダイグロシア(社会階層的分離言語)としてのラテン語:エリートの使用、権威、特定の国の言語ではないという中立性→外交上の国際語。日常生活からの乖離感→普遍性。伝統の自覚→死者・生者をひっくるめた共同体の一員という感覚。
・宗教改革→日常語で典礼を行う→宗教領域と日常生活との距離を縮めた。
・エラスムスは文人エリートの世界に向けて意見を発表するためにラテン語を選び、ルターは普通の階層を対象にメッセージを送ろうとしたのでドイツ語を選んだ。
・正統派からの反発があったためラテン語には新しい思想や事物を表現する語彙がなく、また職人層が科学的議論に加わるようになった→学術語としてのラテン語の衰退。

・俗語の広がり→それぞれの言語において標準化が必要となった。①空間的均質性。②時代を超えた固定性(→アカデミーの設立)がないとラテン語に匹敵する権威を持ち得ない。
・「俗語の標準形とは、新たな共同体の価値を表現するものだった。その共同体とは、ラテン語の学識文化だけでなく地方の民衆的な方言文化とも異なる新興勢力であり、俗人エリート層の民族的な共同体であった。」(124ページ)
・俗語への翻訳→抽象的な表現に堪えるかどうか?

・俗語の標準語化は印刷本の登場以前から始まっていた。印刷はこうした変化の原因というよりも触媒としての役割。
・「標準語化は、意図的な言語計画に多少は負うところがあったが、国語の統一についてはいえば、印刷媒体や、宮廷や都市の興隆といった、人的な規制の及ばない力が果たしたところのほうがむしろ大きかったと言えるように思う。」(152ページ)

・ピジン語:母語話者を持たない言語で、異なる言語共同体の人々が互いのコミュニケーションのため簡略化された言語。クレオール語:そうしたピジン語が母語話者を獲得して複雑化した言語。
・近年、グローバリゼーションにおける英語の各言語への浸透が指摘されるが、地球規模における言語の混合はすでに近世には頻繁に生じていた(具体例を提示)。
・近代言語学習への関心の高まり→それは利害関係ばかりでなく、ラテン語の衰退により相互学習の必要に迫られた。

・フランス革命以降、「民族国家」生成の道具としての言語。意図的な言語政策はこれ以降。
・初頭義務教育で俗語を用いられる。「学校では、地元の共同体やその言語についてはないがしろにされ、国語と国民国家が学ばれたのである。」「言語は政治的自治の象徴、政治的戦いの武器となり、学校がその舞台になることもあった。」(237~238ページ)
・19世紀は民族主義と結び付いた言語的な純化主義運動が活発。アカデミーではなく政府が直接介入。

・翻訳では、英語経由音ではなく現地語音による表記に注意が払われている。

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2009年10月28日 (水)

喜安朗『パリ──都市統治の近代』

喜安朗『パリ──都市統治の近代』(岩波新書、2009年)

 サブタイトルから分かるように、ゆっくりカフェオレでも飲みながら、というタイプの本ではない。現在のパリの街並はナポレオン三世の時代のセーヌ県知事・オスマンによって原型が作られたわけだが、本書が描くのはそこに至るまでのいわば前史である。絶対王政からフランス革命を経て第二帝政まで、社会思想の担い手としての民衆生活史に主たる関心が置かれている。

 当初は、王権or政治権力と結び付いた中間団体としての社団(同業組合等)が一定のコントロール→人口の増加・流動化→不安定化→社団の解体→民衆レベルでアソシアシオンの生成→民衆蜂起の主体となる。19世紀半ば、パリの民衆蜂起鎮圧とアルジェリア征服とが同時進行していた(パリの貧民をアルジェリアに送って植民させる計画のあったことも指摘される)→フランス植民地帝国の首都となり、それはナポレオン三世の登場、オスマンによるパリ改造と軌を一にしていたと結ばれる。“ポリス”に焦点が合わされるが、昔は警視が街にとけこんで仲裁役のような役割を果たしていたというのはちょっと興味深い。

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2009年10月27日 (火)

レオ・T・S・チン『“日本人”化:植民地期台湾とアイデンティティ形成の政治』

Leo T. S. Ching, Becoming “Japanese”: Colonial Taiwan and the Politics of Identity Formation, University of California Press, 2001

・日本の帝国主義が西欧のそれとは異なる特徴:①資本なき帝国主義。つまり、資本主義の発展段階として捉えるマルクス主義理論はあてはまらず、むしろ西欧との競争に動機付けられた側面が強い。②同じ“アジア”としての近さ。ただし、西欧との相違をあまり強調しすぎると、帝国主義としての支配形態における共通の部分が見過ごされてしまう。

・脱植民地化過程における日本人の不在:日本は敗戦によって領土を喪失したため、英・仏のように植民地独立→脱植民地化の過程を自分たちの問題として考える機会がなかった。

・植民地期台湾における民族意識:中国(大陸における民族主義の動向)、日本(植民地当局の態度)、政治思潮(リベラリズム、マルクス主義等)、運動者自身の階級的意識(郷紳層か、労働者か、総督府に妥協的か抵抗的か)などといった所与の様々な構造・要因の組み合わせによって関係依存的→条件に応じて可変的な性格を持つ→本質主義に還元し得るものではない(中国民族主義も、台湾民族主義も、それぞれ態度は異なって見えるが、民族意識を本質主義的に捉える傾向が強く、両者を批判する視点)。

・蒋渭水の発言を引用→中国人意識を持つと同時に、それは日本の植民地社会における台湾という特殊性をも意味していることを指摘→こうした意識のあり方は、自民族・他民族の二元論では捉えられない。

・“同化”と“皇民化”との相違を本書は強調:建前では内地延長主義という名目で同じ日本国民であることを標榜しつつも、実際には台湾人は差別待遇を受けており、“同化”は、差別を残したまま“日本人”になることを強要するという矛盾を覆い隠すイデオロギーとして作用した。この段階では、台湾人を“日本人”にすることは植民地当局の政策上の責任であり、そうした施策に直面して台湾人の心中には葛藤。いいかれば、複数のアイデンティティを引きずり、それらが両立していることから葛藤があった。対して、“皇民化”は、こうした複数のアイデンティティの葛藤そのものを打ち消し、“日本人”意識への単一化。この内面化は、被植民者自身によって行なわれた。身体的儀礼を通した規律も指摘される。何よりも、戦争が激化するにつれて、「日本人として生きる」のではなく「日本人として死ぬ」ことが強調された。“日本人”になることで現実の差別は克服されるという意識(とりわけ、植民地ヒエラルキーにおいて最下層に位置付けられた原住民系にこうした思いが強かった)。植民地下において、日本人か台湾人か→“皇民”、こうした形でアイデンティティ形成におけるアンビヴァレンスそのものを打ち消し、単一化を図られたところに、“皇民化”イデオロギーの植民地的抑圧を指摘。

・霧社事件をきっかけに原住民の問題が注目を浴びる→彼らに同情的な見解にも“野蛮”‐“文明”の二元的言説が表われていることを指摘。
・「呉鳳の物語」と「サヨンの鐘」:「呉鳳の物語」は、原住民=“野蛮”→日本人と漢族系を読み手として想定。対して、「サヨンの鐘」では原住民少女の犠牲的精神→漢族か原住民かは問わず、等しく太平洋戦争へ動員されていく時代背景。

・最終章では、主体の内面における葛藤というだけでなく外的・時系列的な影響で左右される様をうかがうため、呉濁流『アジアの孤児』を取り上げ、台湾・日本・中国大陸と空間的に渡り歩くところから、民族主義・植民地主義の境界を越えていく生身の動きを読み取ろうとする。

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2009年10月26日 (月)

今日マチ子『100番目の羊』『みかこさん』

 前にも書いたことあるけど、今日マチ子『センネン画報』(太田出版、2008年)が結構お気に入り。この本のもとになったブログ「今日マチ子のセンネン画報」も時折のぞいている。ふらりと書店に寄ったら、新刊で『100番目の羊』(廣済堂出版、2009年)と『みかこさん 第1巻』(講談社、2009年)が店頭の新刊平台に並んで積まれていた。迷わず購入。両方とも、女子高生の成長物語、といったところ。オビにある「胸キュン青春ストーリー」(苦笑)みたいなのはちょっと私の趣味じゃないんで、ストーリーはすっとばして、ピンポイントで絵だけ眺める。軽いノリで高校時代の日常が描かれつつ、その生活光景をほのかに捉えていく感傷的な色合いが好き。ラフだけど繊細な線、それを包み込むような淡い水色の背景が何とも言えず良い。落ち着いた透明感があるというのかな。胸がスーッとするような心地よさを感じる。

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2009年10月25日 (日)

中島岳志『朝日平吾の鬱屈』

中島岳志『朝日平吾の鬱屈』(筑摩書房、2009年)

 1921年、安田財閥の総帥・安田善次郎が刺殺され、手を下した青年・朝日平吾もその場で自ら喉を切って自死した。その後に続くテロ事件の先駆けとされた事件である。本書は、この無名であった一青年の抱えていた鬱屈から、現実社会の不合理によってしわ寄せされた不遇への怨恨、承認願望の挫折といった実存的不安をすくい取り、そこに現代日本社会にも漂う世相的な不安感を重ね合わせる。赤木智弘「希望は、戦争」が執筆の動機となっているらしい。

 私の勝手な思い込みだが、政治思想史に関心を寄せる人には、大雑把に言って丸山眞男タイプと橋川文三タイプがあると思っている。丸山が高踏的、悪く言えば上から目線なのに対して、橋川は彼自身が軍国少年だったことをどのように捉え返すかという切迫した思いを動機としていたことから、ある人物の思想を検討するにも内在的な感受性まで迫ろうとした。本書も橋川の『昭和維新試論』(私も思い入れのある本で、以前にこちらで取り上げた。ちくま学芸文庫版の解説は中島岳志)を議論の手掛かりとしていることからうかがえるように、著者は明らかに橋川タイプだ。本書の視点への賛否はともかくとして、こうした切実さを持った対象への迫り方には好感を持っている。

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山岡淳一郎『田中角栄 封じられた資源戦略──石油、ウラン、そしてアメリカとの闘い』

山岡淳一郎『田中角栄 封じられた資源戦略──石油、ウラン、そしてアメリカとの闘い』(草思社、2009年)

 田中角栄といえば、「日本列島改造論」及びその裏面としての土建屋政治、外交面では日中国交正常化の印象が強い。対して、本書が注目するテーマは資源外交である。若き日の角栄が理化学研究所の大河内正敏と接点があったというのは意外だった。大河内の「農村の機械工業化論」が角栄の「日本列島改造論」の源流となっているらしい。角栄は理研の科学者たちの議論を横目にしながら開発主義的な感覚を身に付けた。本書では、角栄の基本的な発想としての「モノと生活」、それを支えるにエネルギー資源の確保という考え方を縦軸に据え、彼が直面せざるを得なかった国際政治が横軸に据えられる。田中角栄を外交史の観点から捉え返していくのは非常に興味深いテーマだと思う。

 石油をめぐっては親アラブに舵を切った。原子力エネルギーをめぐってはフランス・西ドイツ等のヨーロッパ勢と手を組もうとする。こうした角栄の独自外交はアメリカの癇に障る行動であった。アメリカの政権中枢と直結していた岸信介・佐藤栄作らとは異なり、角栄はキッシンジャーと正面きってわたり合う。しかしながら、資源戦略は安全保障政策と密接な関わりを持つ以上、日本はどうしても難しい立場に置かれてしまう。アメリカ側の反撃に抗しきれず、憔悴していく角栄の姿が痛々しい。アメリカは核不拡散という大義名分を掲げてヨーロッパ勢が行なおうとしていた原子力施設の売込みに抑制をかけようとするが、他方で、それは一部の国への核の集中を意味してしまうという矛盾も指摘される。

 本書とは直接には関係ない話になるが、戦争体験と戦後の高度経済成長との精神史的なつながりを浮き彫りにしてくれるようなテーマはないかという関心がある。もちろん、1940年体制とか、旧満州国における産業政策が戦後に生かされたといった議論はある。そうした政策構想上の連続性にも興味はあるが、もっと精神史的なレベルと言ったらいいのか。例えば、佐野眞一『カリスマ』で示された、不条理を嘗め尽くした戦場体験がダイエー・中内功の原点になったという視点を思い浮かべている。田中角栄も含めて、そういう感じのコンテクストで捉えられるテーマはないものか、と。漠然としたイメージしかないので、どう表現したらいいのか難しいのだが。

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2009年10月24日 (土)

“満州国”初代外交部総長・謝介石について

 戦前・戦中期、日本語・中国語の両方を解するということから大陸における日本占領地域に渡った台湾人が相当数いた。当時は“日中の架け橋”ともてはやされたが、その背後に日本の大陸侵略の意図があったことを思えば空々しい哀しさも感じてしまう。①就職・留学のため、②台湾在留経験のある日本人の引き立て、③すでに大陸に渡って成功した台湾人のツテ、といった事情が考えられるが、そうした中でも、旧満州国初代外交部総長(外務大臣)を務めた謝介石(1879~1954年)の存在が大きい。彼の引きで満州にやって来た台湾人は少なくない。

 以下の記述は、許雪姫〈是勤王還是叛國──「満洲國」外交部総長謝介石的一生及其認同〉(《中央研究院近代史研究所集刊》期57、2007年)を参照した。大陸に渡った台湾人のうち、重慶に行って抗日戦争に参加した後に台湾へ戻ってきた人々(いわゆる“半山”)については従来から評価されてきたものの、対して“漢奸”とされた人々についての研究は少ないという。しかしながら、重慶に行ったか、行かなかったかという相違自体に、台湾人アイデンティティの揺らぎが具体的に表われていると言えるのではないか。それは一律に定式化できるものではなく、それぞれの人が負った背景によってまた異なってくる。そうした一例として謝介石が検討される。清朝期の台湾に生れ、1895年の下関条約で日本統治下に入ってからは(すなわち、日本国籍を持つ)日本語を学んで東京に留学、その後、大陸に渡って中華民国国籍を取得するが、溥儀に仕えたことから旧満州国高官になった。彼の心中にどのような思惑が渦巻いていたのかは分からないが、こうした転変激しい人生行路そのものに私などは一つのドラマとして興味が引かれる。

 なお、旧満州国にいた台湾人のオーラルヒストリーとして許雪姫・他《日治時期在「滿洲」的台灣人》(中央研究院近代史研究所、2002年)という本もあり、先日、台北に行った折に入手しておいた。この本は龍應台《大江大海 一九四九》(天下雑誌、2009年→こちらで取り上げた)でも引用されている。

 謝介石は1879年、台湾・新竹の生まれ。当初は伝統的教育を受けていたが、日本人の設立した国語伝習所及び公学校で学び、通訳として働き始める。日本人官吏の推薦を受けて1904年に東京へ留学。東洋協会専門学校(後の拓殖大学)で台湾語を教えながら、明治大学法科を卒業。明治大学の同窓にいた張勲の息子と親しくなり、この縁で中国大陸に渡って張勲の法律顧問となった。清朝滅亡後は吉林法政学堂教習兼吉林都督府政治顧問となり(この時は謝愷と名乗った)、吉林にいた日本人と共に中日国民協会を立ち上げている。

 1914年に在天津日本総領事館に申請して日本国籍を放棄、翌年に中華民国国籍を取得。袁世凱政権で要職に就いた張勲に従って出世。1917年7月、張勲・康有為らが溥儀を擁して画策した復辟運動に関わり、外交部官員となる。復辟失敗後は上海・天津の辺りで活動。1925年以降、鄭孝胥・羅振玉らと連絡を取り合う。帝政復活を諦めきれない溥儀は日本軍を後ろ盾にすることを考えており、鄭孝胥(大阪総領事の経験あり)やとりわけ日本語が流暢で外交活動の経験がある謝介石を重用した(彼は1927年に溥儀の謁見を受けた)。

 1931年の満州事変に際しては吉林にいた熙洽(愛新覚羅家の一族で日本留学経験のある軍人)の配下として政治工作を行ない、翌1932年に“満州国”が建国されると外交部総長(外務大臣)に任命された(ただし、実権は外交部次長の大橋忠一が握っていた)。在任中にはリットン調査団、日満議定書、溥儀の訪日といった出来事があった。1935年、日本との外交関係が公使級だったところを大使級に格上げされた際に、謝介石は外交部総長を辞任して初代駐日大使に就任する。

 同年、「台湾始政四十年記念博覧会」参観という名目で台湾へ帰る。故郷・新竹の名望家の娘と長男との結婚も理由の一つだったらしい。いわば「故郷に錦を飾る」という感じか。日本人優位の植民地体制の中で台湾人は逼塞した思いを抱え込んでいた中、謝介石が満州国皇帝の名代として日本人の台湾総督から恭しく迎えられるのを目の当たりにして、「俺も海外へ行って一旗揚げよう!」と意気込んだ青年もいた。そうした台湾人を謝介石も引き立てた。溥儀のかかりつけ医となった黄子正は謝の紹介によるし(戦後、戦犯となった溥儀の在監中も黄はずっと行動を共にした)、外交部に就職した台湾人も少なからずいたらしい。台湾人か日本人かを問わず、台湾関係者が満州国でツテを求める際には謝介石に頼った。(※他方で、「台湾で地方自治制度は時期尚早だ」と謝は発言したため、林献堂などは反発している。)

 日本国籍を持つ台湾人は、日本と中国との不平等条約のため中国大陸では特権を持っていたので大陸では嫌われ、日中戦争が始まると、反日感情の矛先はまず台湾人に向けられたらしい。そのため、自分は福建人もしくは広東人だと名乗って台湾人であることを隠さねばならないこともあったという。対して、満州国ではそうした心配は無用だったという事情も指摘される。日本国籍を持ってはいても日本人ではなく漢人であるという意識がありながら、大陸の漢人からは違う色眼鏡で見られてしまったところに、当時の台湾人のアイデンティティの難しいあり方がうかがえる。

 謝介石は1937年に公的活動から引退。一時、東京で暮らしたが、満州房産株式会社という国策会社の理事長として再び満州国に戻る。さらに北京で暮らしていたところ、1945年、日本の敗戦を迎えた。彼は漢奸として逮捕され刑務所に入れられたが、1948年に共産党が北京に入城する前に釈放された。1954年に死去。wikipedia等では1946年に獄死したとされているが、許雪姫女史は遺族から直接話を聞いているので、こちらの方が正しいはずだ。戦後の謝介石の足跡については、史料が乏しいせいなのか、遺族への慮りがあるのか、はっきりしたことは記されていない。

 “漢奸”か否かという問いの立て方はもはや時代錯誤であろう。ある種のポリティカル・コレクトネスは当時に生きた人々が嫌でも抱えざるを得なかった生身の複雑な葛藤をなかったものとして、さらに言えば事情を忖度することなく汚いものと一方的に決め付けてオミットしてしまう。それは歴史を見ていないに等しい。謝介石という人にどんな思惑があったのか私には分からない。あるいは出世志向のかたまりだったのかも知れない。仮にそうだとしても、このように複雑な転変を経ねばならなかったところには、日本・中国双方からマージナルな立場に追いやられた台湾の独特なポジションがもたらした葛藤が見え隠れするのではないか。そうしたアイデンティティの困難という観点から、謝介石という人物が日本・中国・台湾それぞれの現代史の専門家からどのように捉えられているのか、聞いてみたい気もする。

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